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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 堀川学のおこり

 1 伊 藤 仁 斎

 寛永四年(一六二七)七月二〇日京都堀河(川)に生まれた。本名は維禎、字は源佐、源七、源吉、号は仁斎、敬斎、棠隠、櫻隠、古義堂。没後は門弟らは古学先生とおくりなした。少時より頴悟、学を好み、刻苦勉励、努力を重ねた。「初年甚信程朱 最尊大学」といい、また「余少時甚好学 忘寝食 廃百事 唯学之耽」(『古学先生文集』)とあるように勉学に励んだ。後には「大学非孔子書弁」を作るのであるが、先ず『大学』から入って程朱学の熱烈な信奉者になってゆく。「今之俗 皆知貴医而不知貴儒 其知学者亦皆為医之計而己 吾嘗十五六歳時 好学始有志于古先聖賢之道 然而親戚朋友以儒之不雋 皆曰為医利矣然吾耳若不聞而不応 諌之者不止 攻之者不衰」(同右)と述べられているように「医師になるよう」説得されたが、好きな学問に入ってゆく。

 学問須従今日始            学問は須く 今日従り始むべし
学問須従今日始  算前顧後莫悠々  学問は、須く 今日より始むべく 算前し顧後して悠々たる事莫れ
寸苗遂作蒼々樹  原水還為かくかく流  寸苗も遂には 蒼々たる樹と作り 原水も還りかくかくたる流れとなる
   知識開時八荒闊  工夫熟処一毛輶  知識の開く時は八荒闊く 工夫の熟せる処は 一毛輶し
   六経元自儂家物  何必区々向外求  六経は元 自ら儂家の物なれば 何ぞ必ずしも区々として外に向かって求めんや

 仁斎は、自分の書斎を「誠修」と名づけ、ほとんど独学で経書を読解した。姉夫大須賀快庵に若干の手ほどきを受け、一~二回松永尺五を訪問したにすぎない。「吾れに家法なし。論語孟子の正文に就いて理会す。是れ吾が家法のみ」(『童子門』)で、すべて師儒に依らず、独自の解法である。「其学専以論語為主 而孟子次之 以為論語言教而道在其中 孟子言道而教在其中(中略)嘗言論語孟子為本経 詩書易春秋為正経其余三礼三伝等為雑経 総名之 曰群経」と述べるように『論語』・『孟子』を重んじ、かつて親しんだ『大学』は孔子の著にあらずとする。仁斎にとって『論孟』二書の研究が中心で著書に『論語古義』(一〇巻)『孟子古義』(七巻)がある。
 仁斎の学術はその著『語孟字義』に明瞭である。
(参照『孟子古義』序」)
 過去の注釈は「多く老荘を以て之を解し」また「禅学を以て之を混ず」として排斥し、註家に厄されることなく『語孟』二書の正文に直入して字義を明らかにして「古義」を樹立、「仁義」を道徳の根幹として日常に工夫すべきを説き、教育の主眼を「徳行」においた。「学問之品 徳行為上 誠見次之 材力又次之 文章為下博洽其餘事也」が仁斎の信条であった。後に大高坂芝山が『適従録』において『語孟字義』を「俚近之編」、「鄙猥之議」と嘲罵しても「笑って答えず」と動じなかった所にもその性格がでている。「仁斎之説性 可謂見流而不知源」(尾藤二洲『素餐録』「仁斎端本之説 可謂不識字矣」前上)と非難されても、黙して答えぬ寛容さをもっていてたじろかなかった。自分を漁夫に比し、自分の学徳精励に邁進する決意を寓した詩がある。

    漁夫図               漁夫の図
  両鬢皤皤霜雪垂  芦洲水浅吐花時  両鬢 皤皤として霜雪垂れ  芦洲 水浅くして花を吐くの時なり
  好将整頓乾坤手  独向江湖理釣糸  好し乾坤を整頓するの手を将つとも独り江湖に向って釣糸を理めん

 天与の道を独往しようとする溢ぎる意欲を窺うことができる。

    登園城寺絶頂        園城寺の絶頂に登る
  山行六七里  往到杳冥中  山行 六七里 往きて杳冥の中に到る
  船遠閑閑去  天長漠漠空  船は遠く閑々として去り  天は長く漠々として空し
  嶺環邨落北  湖際寺門東  嶺は環る 邨落の北  湖は際す 寺門の東
  男子莫空死  請看神禹功  男子は空しく死すること莫れ  請う看よ 神禹の功を

 ちなみに仁斎の漢詩は『煕朝詩薈』に七一首、『東瀛詩選』に一六首、林文会堂の『扶桑名賢詩集』には七三首載っているが、江村北海の『日本詩選』には一首採択されただけである。詩学の権威北海からみれば、あまりに学者臭の強い仁斎の詩を嫌ったのであろうか。しかし、情趣豊かに人生論を打ち出した詩は多い。
 京都堀河に開塾した仁斎は、多くの門弟を教えて官途に就かず、門弟三千人と称せられた。

  2 伊藤家の人々

 仁斎には五子があり、それぞれ家学をついで名を成している。古義堂は長男東涯(一六七〇~一七二六)がついだ。東涯は本名長胤、字は源蔵、通称もこれを用い、別号は慥慥斎。天性温恭謹言、博覧強記、詩文をよくし著述、門弟の教育に努め「紹述先生」と称揚された。江戸の荻生徂徠が四歳年長であったが東西呼応して二大家と並称された。東涯が徂徠の一世を睥睨して下らぬのに対し謙譲誠実であったことを示す詩がある。

    過藤樹書院             藤樹書院を過る
  江西書院聞名久  五十年前訓義方  江西書院 名を聞く久し  五十年前、義方を訓う
  今日始来絃誦地  古藤影掩旧茅堂  今日始めて来る 絃誦の地 古藤 影は掩う旧茅堂

 蘭隅(一六九四~一七七八)は、仁斎没後、異母兄東涯に養われて大成した。「予生十七八 学為文 毎一篇成 必請亡兄正之」(『紹衣稿』)とあるように東涯の指導を受げた。三八歳紀州徳川家に仕え、東涯亡きあと古義堂を主宰したが、東涯の息、東所(一七四ニ~一八〇四)長ずるに及び再び紀州に帰り識見卓抜と称された。
 堀川学派の人々は、師仁斎にならって、謙虚誠実、議論を好まず、専ら徳行を修し、人間の愛情を大切にしたから、華々しく新奇をたて人と争うようなことはなかった。これらの人々に師事した伊予の堀川学派の人々も、誠実篤行の人が多いように思われる。

『語孟字義』序

『語孟字義』序