データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 開明学校への下地

 申義堂
     
 八幡浜市舌間の儒学者、左氏珠山は安政五年(一八五八)坪ヶ谷の大師堂を借り受け、子弟の教育にあたった。幕末から明治維新にかけて急速に発達した私塾の一つで、本町における近代教育の下地になった。宇和町小学校沿革史には「文久三年建設。男四七名、女二名」と記載してある。
 宇和島藩校の刷新により、明治二年正月、珠山は藩校に招かれるようになった。郷人はこれを嘆き、今後の教育を如何にすればよいかと訴えた。珠山は師を迎えるためには、まず堂舎を設けよ、と説いた。これにこたえて郷人は相計って坪ヶ谷に堂舎を建てた。これが申義堂木造建築一〇五㎡である。申義掌記には「堂舎は月余にしてなる」と記され、当時の郷人の意気がしのばれる。堂舎名も珠山が『孟子』から申義の語を選んでつけた。

 申義堂から郷校へ

 申義堂での教育も一年足らずで、また師を失った。しかし、藩は町民が自発的に校舎を建てて学問を修めようとする心意気を賞し、明治三年三月、申義堂を藩肝いりの郷校とした。藩は町田為忠を司業として派遣し、同五年七月の学制頒布まで続いた。宇和町小学校沿革史には「教員一名、生徒五〇名余」とある。