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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 公民館の創設と発展

祖国再建への道としての公民館設立

昭和二〇年(一九四五)八月一五日の敗戦によって、我が国土は荒廃に帰し、すべての生産はストップした。精神的支柱を失った国民は、物質の極度の欠乏とインフレーションのなかで、その日の糧を得ることのみに窮々として他を省みる心のゆとりも失い、将来に向かう気力や希望すら失っていった。その反面、戦時下の抑圧から脱して人々の間に、娯楽や文化を求め、民主化を求め、新生日本の再建を願う声が日ましに強くなっていた。
 この時に、文部次官通牒「公民館の設置運営について」(昭和二一年七月五日付)が発せられたのである。それは、公民館を「祖国再建の原動力」として構想したものであった。ようやく郷土を足場として再起しようとしていた人々にとって、ここで示された公民館像は祖国再建・郷土復興を目指す具体的な活動の方向を示したものとして受け入れられ、全国各地に公民館設置運動が燎火の如く広がっていった。
 本県もその例外ではなかった。戦後社会教育施設としていち早く創設され、しかも急速な発展を遂げていったのが公民館である。独立した館もなく、青空公民館・看板公民館として公民館活動を行っていた所が多かったが、そのなかにあって同二二年一一月第一回文部大臣表彰(全国二二館)に輝いた温泉郡余土村(現松山市)公民館は、全国的にも第一級の設備と活動を誇るものがあった。同二三年発行の『余土村公民館の経営』によれば、以下のような状況のもとで、それは設立されていったという。当時の公民館の様子を知りうる唯一の資料であるので、できるだけ原文のまま記載しておくこととする。

 敗戦後の世の中の状態は混沌として止む処を知らざる状態でありました。本村も之を反映して日々悪化の一途を辿るのみで、自由を履き違えた放縦が横行し民主主義を間違えた利巳主義が充満し、新しい日本を背負わなければならない青少年は悪化、封建根性を叩き直さなければならない中年層の人々は、毎日を保身と利殖に専念して国家の再建を考えていない、村は希望を失い混迷の極に陥ってしまったのであります。此の時に当って次々と復員して帰って来る青年達は村の現状を憂い、二人三人と集って終に昭和二〇年一一月三日、新生青年団を結成して新生農村余土村の再建は先づ青年の力でと固い団結を作りあげたのであります。
 その後、討論会・講習講話会・演芸娯楽会等各種の文化運動を展開して文化余土村建設のため活動したのであります。但し青年運動も幾何の波乱があり衰盛があって一日として平和な歩みは見られなかったのであります。真剣なる幹部青年の熱烈な再建意欲は遂に公民館設立運動を中心に軌道に乗り余土村再建の曙光をここに見出すことができたのであります。
 昭和一六年建設されながらも、戦争の激烈化と共に村民に一回も利用されることなく、廃屋と化していた郷土館に青年達の眼が集中し、「郷土館を開放し公民館として再出発すべし」とのスローガンを掲げて公民館設立運動をくり広げていくこととなった。青年達は関係各方面に馳せ、講演会討論会を開催し、公民館の研究を行い、彼らの手で余土村公民館の構想をつくり上げていった。そして慎重審議して出来た公民館設立の具体案を、青年団の総意として村当局へ提示したのである。その間、公民館の必要、余土村公民館の構想等をパンフレットに作り、村内に回覧したり、街頭にポスターをはったり、あるいは諸会合等で公民館設立を訴えていった。こうした働きかけがもとになって、村長を委員長とし、国民学校・青年学校・役場・農学会・婦人会より各一名、青年団・村会議員・一般村民より各二名ずつの計一二名からなる公民館設立準備委員会がつくられ、そこで公民館運営の大綱並びに復旧事業の具体案が作成され、以後着々と設立の準備がなされていった。具体的には「青年団が中心となり、各農家一戸一貫目の藁きょ出に奔走して畳を作り各所の修繕は青年団の労力奉仕によって実施し一戸一冊の図書きょ出運動によって、図書室の充実を計るなど、三月初旬目的の第一次計画事業を完了した。
 そして三月一六日、「公民館出発の日」として、青年団が中心となって蒐集した村内の美術工芸品を公民館に展覧する一方、演芸・娯楽会・講演会・バザー・体育大会等の各種の行事を組合せた大会が開催された。こうして、余土村の場合は「公民館の扉が開いた我等の溜り場として、老幼男女相集まり、悠々和楽の中に農村文化建設の第一歩を踏み出した」のである。

 以上と似たような経路をたどりながら、昭和二二年末には四四館、同二三年には八五館、同二四年末に一二二館と県下の公民館は設置されてき、設置市町村は一〇三になった。しかし施設・設備は不備なものが多く、同二四年度段階での公民館一二二館を建設別に見ると、新築二〇館、併設六三、転用三九で、また設備の方も一二二館のうち一般蔵書を備えているものは六五、映画設備二五、幻灯機二七、映写機三、ラジオ受信機四六、蓄音機三二といった状況であった。職員組織をみても、館長一名・書記一名のみが専任職員で、六割までが町村長の兼務で、他は学校長・教員・役場吏員、農業協同組合役員、その他所在地区の機関・団体より選ばれた者が依嘱を受けて管理運営に当たっていた。

創設期の公民館活動

このように施設・設備は不十分であったが、運動としてみた時、民意民力を結集した形で、公民館活動は最も活発に行われたのである。先に見た余土公民館では、「公民館設置要項」に基づき、政治部・教養部・産業部・図書部・体育部の六部門を設け、各部に成人・婦人・青年・女子青年一名ずつの計四名の役員を置き、そこを中心として事業が行われていた。
 参考までに昭和二二年度にどんな事業が行われたか、一年間の公民館暦を見ると、次のようである。

   三月ー美工展・川柳談話・バザー・映画の夕 四月ー部落対抗野球大会・映画の夕・選挙棄権防止運動・村会議員立候補者立会演説会 五月ー村内素人演芸会・相撲大会・生花展・新憲法実施記念の夕・映画の夕・生活改善講習会・指導農場設置協議会 六月ー映画の夕・音楽研究会・救国貯蓄運動 七月ー味噌醤酒醸造講習・窯改善講習会・紙源回収運動・踊りの夕・農村慰安の夕・農業の科学化・最近の村政 八月ー洋裁講習・登山・村内野球大会・ピンポン大会・盆オドリ大会・映画の夕・青年運動回顧・宗教的生活・趣味の音楽・文字の鑑賞・お茶の会・農村恐慌に対する私案・母親の青年教育・簡単な食品加工の講座 九月ー時局講演会・キャンプ・村内音楽展覧会・映画の夕・紙芝居・幻燈の夕・海藻の話(講演会)・指導農場の経営は如何にするか(座談会)。一〇月―村内秋季大運動会・読書研究会・各部落巡回公聴会 一一月ー農村慰安の夕(映写会)・農事研究発表会 一二月ー政局座談会・児童劇・映画の夕・青少年防犯座談会・青年討論会・村会傍聴 一月ー如何にして村を良くするか(座談会)・農業協同組合の在り方(講演会)

 各部が主催する形でこれらの事業を行っていたが、村民はこれらの事業が開催される時だけ公民館に集まったわけではない。公民館は毎日開館され、各種団体の会合に自由集会に娯楽に修養に村民の溜り場として、各種の社会教育の殿堂として利用された。それは公民の家として村民の社交娯楽の唯一の溜り場として盛んに利用されていた。昭和二二年度における余土村公民館の使用状況は次の表3ー10の通りである。

社会教育法制定と公民館設置・運営

昭和二四年六月一〇日「社会教育法」が公布され、それによって公民館は法的根拠を得、その公共性が法的に確立された。このことと関係者の非常な熱意と努力によって公民館設置は以後急速に進んでいくこととなった。特に本県の場合、松山市が同年九月公民館設置条例を制定し、温泉郡公民館連絡協議会(同二四年発足)に続いて、同二五年一月二五日に市公民館連絡協議会を発足させ、「新しい公民館を設置する場合の参考」として「公民館設置の手続」を作成し、公民館設置を呼びかけていった。その結果松山市に三二館が設置された。これが県下の公民館増設に拍車をかけるものとなったのである。特に全国初の法人公民館日照公民館を設立し話題をまいた。そして同二五年度の設置数は本館一五四・分館二五五・計四〇九館となり、設置率は五四%に達したのである。以後の設置状況は表3ー11にみる通りで、設置率一〇〇%に達したのは、同三五年であった。
 ところで、こうした公民館設置運動を高めただけでなく、この法の制定は公民館運営の再検討をせまるものでもあった。この法によって、公民館は地域振興の総合的機関としての性格から「教育・学術及文化」(第二十条)に関する社会教育機関としての性格を明確にされ、それに伴って事業内容も規定されたた
めである。
 県社会教育課は、同年五月、公民館運営の方法の確立をめざして、全体的体制の整備・生活文化の向上・生産の増強を主題とする経営技術と企画の研究を推進すべく余土公民館外五館を、実験公民館に指定し、研究にあたらせた。なお六月一一日県社会教育課主催で第一回公民館主事連絡協議会が開催され、公民館運営の要領等について検討がなされた。当時公民館が直面している課題は、社会教育行政庁と公民館との関連・公民館の財政に関する問題・運営審議会の性格・分館と本館との関係・啓蒙活動の在り方・グループ活動の在り方等であった。

公民館活動の中核としての青年団・婦人会

同二五・六年ごろになると、各地ですぐれた公民館活動が展開してきだした。周桑郡吉井村(現東予市)公民館の経営状況を通して、当時の公民館の様子をみてみよう。そこでは、「幼児から老人に至るまで凡そ文化活動に参加し得る村民をその対象と考え」「乳幼児のため乳幼児検診・百日咳やヂフテリアの予防注射」から始まって、「毎月の幻灯会、年二回の子供慰安の夕などを公民館で行うこととし、小・中学生のために社会科の研究に役立つ郷土の統計図表を館内に展示したり、若干の参考図書も備えてある。そして、場合によってはこれらの資料で来館研究者達に主事が解説を試みることもある。従って小・中学生の来館者も可成多い。
 又、青年や婦人・成人等のために小説を主とする文学書、それに修養書、農業及び社会その他の図書並びに雑誌・新聞の類を設備して館内閲覧に供すると共に館外貸出もし、時には懸賞募集や調査表の公示等によって読書熱を煽ることもある。それからラジオ・蓄音機・マイク・碁将棋盤・卓球・庭球・龍球等の施設もし、その事務所を館内に置き世話もする。おまけに熱心な青年団幹部が毎晩二人ずつ交代で宿直して夜間の来館者のためにサービスしている。こうなると施設は唯に物ばかりではない。
 講習講話・視教映画・村内舞踊会・青年男女のスケアダンス・文化祭・成人祭・公聴会・かるた会・村内素人演芸大会や敬老会に至るまで、場所と物と人的要素の総施設を提供し更にお金まで添えてやるような各種の会合や催しが公民館では常に行われるのであるから嫌も応もなく集ってくる。」(『愛媛教育時報』昭和二六年八月)
 利用状況は表3ー12の通りで、昭和二五年度は住民の八三%が利用し、年齢別では青年が六四%を占めていた。毎月平均来館者が一、一三三人であった。
 この表からもある程度推察されるが、当時公民館活動を支えていたのは青年団と婦人会であった。公民館・青年団・婦人会が三位一体となって、諸活動を行っていた。この吉井村公民館の場合も、「青年団や婦人会はその性格から見て公民館の中核をなす団体であるから公民館は青年団の後援者となり、青少年保護育成の名目で予算も組んで物心両面から積極的に援助協力する。……婦人会は特にかなえの足を強める意味で公民館の生活改善部を担当して貰い同時に単位団体としての婦人会自身もまた、台所改善など婦人の生活に最も直結し(た)……社会学級(母親学級)……(を)着々実施しているから本館は之に対しても物心両面から大いに助言育成をすることにしている。要するに公民館の発展は之を構成協力する単位全体の発展に起因し、単位団体が独自の進展をすることが公民館運動を強力にするものと考え相互に助け合うことが必要だ」、こういう考えで公民館経営が行われていた。

分館活動の促進

ところで、昭和二五年度には本館一五四・分館二五五、同二六年度には本館一七五・分館四○七となり、本館と分館との関係が問題になりだした。本館の事業と共に分館活動に力点か置く公民館が多く現れだした。例えば、越智郡波方村(当時戸数二千、人口約一万)では、「本館文化教養部で同二四年度成人講座を毎週土曜日、夜間二十回開催し、毎回百二、三十名の参加を得、盛会に行われていた。しかし参加者の範囲が本館周辺の部落の人々に限られていた。そこで、本館行事としては、二・三の大きいものをまとめて行うこととし、細部にわたっては各地域の特殊性に応じて計画し運営するように経営方針を変更して分館活動に主力を注ぎ、分館の独自的立場を尊重する」という方向が打ち出された。そして一一の分館がつくられ、次のような組織のもとで、各地区で独自の活動を展開していった。
 小部分館の同二五年度の行事を見ると、一月ー生活改善一ヶ年活動方針(座談会) 二月-防犯について(講演会) 弁論大会・PTA会 三月ー公民館の在り方(座談会)四月ー芸能祭並に公民館主旨徹底 五月―童話会 六月ー児童の躾並青年教育(講演会) 七月ー不良化防止について(講演会) 八月-分館対抗野球大会・水泳大会・童話会 九月ー区別対抗野球大会 一〇月ー演芸大会 一一月1分館対抗大運動会・分館内対抗卓球犬会 一二月ー卓球大会・座談会等が実施されていた。経費は本館よりの補助額九、七〇〇円と分館事業収入一万円の計一万九、七〇〇円であった。
 こうして分館活動は盛んになっていったが、翌年七月の第五回社会教育研究犬会(現八幡浜市)でも「公民館の分館活動を盛んにするためにはどうすればよいか」の分科会がもたれ、分館活動の一層の促進化か図られていった。

県公民館連絡協議会の設立

こうして分館活動は盛んになっていったが、それと同時に本館(公民館)の事業も軌道に乗っていった。同二六年度には、実験公民館として一四館を指定し、台所改善・蓄産・農産加工・視覚教育・結球白菜の増産・民主団体の育成・多角経営の農業・柑橘栽培の研究・定期講座・読書指導のどれかを研究テーマに選ばせ、研究を行わせている。このテーマからして、当時の公民館がいかに産業振興に力を入れていたかを知ることができよう。更にこの年度には既設の公民館一五三館すべてにおいて成人講座が開設されていた。社会教育施設としての公民館経営がある程度定まりつつあったといえる。
 こうした状況のなかで、同二六年一一月一六日「愛媛県公民館連絡協議会」が結成され、「緊迫せる国際状勢下、世界平和と人類の福祉に貢献するため社会教育は喫緊の要事である。我々は、これが基盤たる公民館の運営と事業の強化確立に渾身の努力を傾注し、民主的にして文化的な地域社会の建設に寄与せんことを誓う」との宣言を行い、次のような決議を行ったのである。

   決議文
   終戦と共に生れ変った我が国は国際情勢の窮迫する中を多大の困難を克服して民主的な国家の再建にひたむきな努
  力を続けて来た。
   しかしながら、制度の上で民主化された我が国も運用にあたる人々の心理的な革命がなされない限り、真の民主化の
  望み難いことは論を俣たない所である。
   時あたかも、講和を迎えて政治的にも経済的にも思想的にも多大な困難を予想されるとき、我々に期待されるものは
  極めて重大である。
   この時にあたり、我が国民主化の最先端を行く全県下の公民館運動に携る者が一堂に会して、愛媛県公民館連絡協議
  会を結成するに際し、左の条項をあげてこれを忠実に履行することを誓う。
  一、我々は文化国家建設に寄与するため相携えて自己研鑽に努め、社会教育の画期的充実を図る。
  一、我々は相互の連絡を密接にし、相助け公民館運動を推進する。
  一、我々は互に生活の向上を図り、住みよく明るい社会を作るために、生産力の増大に積極的努力を続ける。
  一、我々は地域社会の発展のため、その熱意と愛情をつくして奉仕活動に努める。
  一、我々は世界平和に貢献するため、建全なる身体を育成し、建全なる思想を保持し、全ての自由を守り、民主日本の
   再建に努力する。
   右決議する。

 この結成時での役員は、会長森千代松・副会長藤田茂・古谷綱隆・事務局長大元茂一郎・庶務会計花山一郎であったが、大元事務局長の辞退申出があり、後任事務局長として八坂公民館主事曽我武雄に決まった。事務局は、松山市の八坂公民館に置くこととなった。
 以後、本県の公民館活動は、一層活発化し、常に全国的にもトップレベルを走り続けることとなった。本県に於ける社会教育の充実発展は、一つには公民館の充実発展によってもたらされたとみていいであろう。

表3-10 昭和22年余土公民館使用状況

表3-10 昭和22年余土公民館使用状況


表3-11 昭和22~35年度公民館設置状況

表3-11 昭和22~35年度公民館設置状況


表3-12 吉井村公民館の利用状況

表3-12 吉井村公民館の利用状況


表3-13 分館組織

表3-13 分館組織