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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 青年教育の組織化と地域青年の勃興

 若者組の社会教育機能

明治以前から、藩政下の村落に自然発生し、独自の年齢集団として社会教育的活動を展開していたものに、若者組(若連中・若衆組)があった。加入年齢は、地域によって若干の違いがあったが、一般的には一四・五歳であった。加入する場合は酒一升を振舞うのが慣習であった。どの若者組においても、加入年齢に達した若者は加入することを義務づけられていたようである、が、北宇和郡三浦村(現宇和島市)では長男に限り加入が許され、長男が結婚し脱退した時に二男が入組するというしきたりの所もあった。脱退は結婚するか二四・五歳になると退くというところが多かったようである。
 若者組のなかには、宇和島市戸島嘉島若ノ者組のように元締二名、大世話四・五名、下世話四・五名、目付四・五名を以ってあたるといった役員組織の形式の整ったところが多かった。三島村(現三瓶町)では組頭を置き、組頭が絶大な権力を有し、指揮統率の任に当たったといわれる。また若者組には「若者条目」とか「若連中規約帳」といったものがあり、それからの逸脱を厳しく禁じていた。よく問題となっだのは、酒を飲んでの乱暴・盗み・賭博等であったらしい。岩松村(現津島町)若衆連では、条目を破った被制裁者は「黒星」または「墨消し」として連名簿より除名された。極めて厳しい統制機能を持っていたとみていい。三瓶町に明治二八年の二及東若連中の規約帳が残っているので、次に参考までに挙げておくことにする。

    規約帳(明治二八年)―東若連中規約附込帳―
  第一条 若連中に於ては、毎年七月十四日、十五日、十六日の三日間は必ず早朝より東浜又は上下両宿に集まること。
  第二条 若者は祭礼、其の他、節句又は祝日・宴会等の時に大幟を必ず立つものとす。但し、若一ヶ年中十二度の立て下ろしを六度以上欠勤した者は十五銭以上の科料に処す。
  第三条 若者にて妻を持ちし者は七月十五日限り若者連中を退くものとす。
   第一項 毎年七月十五日以後、妻を迎へし者は、翌年七月十五日までとす。
   第二項 例へば、十六歳以上にしても妻を持ちし者は、第三条第一項により処分す。
  第四条 若者中にして妻を持たざる者は、満三十歳に至るまでは必ず退く事相成らざるものとす。
  第五条 押船の人、二十歳以下は勝手次第にせるものとす。
    右の箇条必ず相守り申すべく候、此分よりてここに連名捺印す。

 この二及東若連中の場合もそうであるが、若者組に加入した者は泊り屋に宿泊することが原則であった。泊り屋は宿親の姓をもって名称とした。いわゆる若者宿である。長浜町青島では、男子は一七歳から若い衆宿に宿泊することになっていた。費用は自己負担であった。宿でのしきたりとして、全員揃うまでは所定の座につき、一言も発せず、つくばみ、かしこまって揃うのを待った。席次は青年頭から若い衆に至るまで座る場所が決められていた。全員揃うと青年頭の合図で初めて膝をくずし、一日の反省を行い、訓辞・雑談の時間となった。以後九時半まで自由時間、それぞれ遊びに出て行き門限がくれば全員床を並べて寝る。朝は自分の仕事の関係で適当な時に家に帰り、食事をして就労する。下の者は上の者の言に絶対服従で、厳しいしつけが行われた。また若者宿によっては、ムシロ編み、俵編み、縄ないをしたり、宿主が夜学(読み・書き・ソロバン)を教えたりしているところもあった。いずれにしても新しい社会教育活動が行われていた。女子の宿もあり、娘宿・別嬪宿と呼んで、主婦として必要な和裁や礼法などの指導が行われ、未婚女性の修養の場所として機能していた。
 若者組は青年にとって社会教育の場であったと同時に、次のような社会的機能を担っていた。それは、①祝儀の手伝い、祭礼行事の執行、角力・盆踊り等の村の娯楽、催し物の主役 ②村の警備、火の用心、風紀の取締まり ③それに病人が出た時、三、四里の山路を医者を送迎するといった役割の担い手として位置づけられていた。

 若者組から夜学会へ

ところで、維新後の一連の近代化施策によって従来からの自給自足体制が徐々に崩壊し、また開化啓蒙の諸価値が浸透してくるに伴って、明治一〇年代から二〇年代にかけて、若者組の規律の乱れたところが多くなり、彼らの粗暴な行動や卑狼な言動が新しい道徳律から非難さればしめた。特に小学校教育の障害物として若者組が問題視されはじめた。「学童児童の常に多く接触する所のものは、これら団体の青年に
して、従って団体の行動は児童に影響を及ぼすこと少しとせず、……既に児童の学校を出づるや亦自ら団体の一員となり、若し団体にして不潔不良の者たらしめんには学校幾年の教育も為めに全く其の効果を抹殺せられ……小学教育を保護し、更に児童の前途に縣して其の学校卒業を確実ならしめんと欲せば、勢ひ必ずや此等団体の改良に向かって着手せざるを得ざるなり、」(帝国教育会機関誌弐百九拾七号)という状況に陥っていた。
 若者組の弊害を矯正すると共に、彼らに文明開化の教養や技術を身につけさせなければ、村の発展も期待しえないと考える先覚者や教育者が各地に出てきだした。例えばかつて若者の間に賭博の流行した高山村(現明浜町)では、明治一三年川津南部落の酒造業芝久茂が「一銭講」を創立し、青年を組織している。一銭講とは、毎月一銭を貯蓄する講組のことで、親の助けを借りずに青年自ら働いて得た金一銭(一口)を貯金するというものであった。ただし数口加入することもできた。村の休みの午前中に働いてえた薪、草、縄、草履の類は芝氏が全部買取ってそれを貯金させていた。こうした試みの外に、従来の若者組の性格を根底に忍ばせながらも、青年の風紀の改善と知識・技術の向上を計るべく夜学会が組織されていった。明治一〇年代後半から従来の若者組から夜学会へ入会する青年が増加するにっれて、若者組は青年会へと脱皮していった。夜学会というのは、多くは小学校の教室を会場として、読・書・算・修身作法を小学校教員や有志者が講師となって進められた夜間の勉強会である。

 徴兵令と夜学会・青年会の普及

 夜学会が開設されるに伴って、次第に青年会が発足していった。明治一七年一一月二三日松山城北青年会が発足し、会員五〇余名で講演会等を開いている。同二〇年一二月二二日付の海南新聞によれば、小松町の小松青年談話会は、毎日曜日に会合を開き、外交論・農工・事物を疑って取捨を誤る勿れ・美人は麻酔剤に非ず・外交論を聞いて感あり・小松人に告ぐ・交際を論ず等の演説等を行っている。同じころに久万町や和気郡安城寺村(現松山市)等にも青年会が組織され、学校教員を講師として勉強会を持っていた。またこのころ磯崎浦(現西宇和郡保内町)では夜学会で日本外史の素続を行ったとの記録がある。その他多くの地域で夜学会が開かれ、青年会が設立されていたが、それの普及に一層の拍車をかけたのが、明治二二年(一八八九)の「徴兵令」の改正と「町村制」施行であった。徴兵令の改正によって、兵役義務者の範囲が全青年(壮丁)に拡大されたため、夜学会がその特別教育をほどこす機関としても促進され、また町村制施行によって町村共同体の将来の成員たる中流以下の尋常小学卒業程度の青年が「思想堅実ならず、世の悪風に感染することを防備する」という意図から、青年会の設置が指導者層によって積極的に進められていったのである。
 以後夜学会の開設、青年会の設置が進められていったが、数の増加だけでなく内容の充実も計られていった。例えば先の保内町磯崎浦では明治二五年ごろには青年会の事業として夜学会を積極的に進め、一年間の開会日数を七〇日から一三〇日間、毎夜二時間ぐらいの授業時間で、読書・算術・作文などを中心として修身を加えた勉強会が開かれている。ただし毎週一夜は演説討論会・談話会・かるた会等の娯楽会も開いていた。出席者も増加し、明治二〇年当時は五・六名であったのが、このころは二〇名を割ることがなかったといわれる。更に明治二七・八年の日清戦争を契機として生まれた、国民的自覚に基づく青年たちの学習意欲に支えられて、夜学会は広範囲に実施され、質の高い内容を持つものとなっていった。越智郡鳥生村横田・北宇和郡下灘村成浦・東宇和郡山田村西山田・温泉郡古三津村等に夜学会が、また伊予郡郡中町・東宇和郡魚成村・同郡下宇和村皆田・北宇和郡成妙村・温泉郡和気村太山寺・同郡新浜村・周桑郡千足山村石見等に青年会が生まれたのが、このころであった。

 青年会の会則と活動

当時設立された青年会がどんな活動を行っていたのか。当時とすれば画期的な会則を制定し、活発な活動を展開した伊方村(現在、伊方町)の伊方青年道義会を事例としてみてみよう。これは明治二六年一〇月二九日湊浦若連中を母体として結成されたが、次のような近代的な会則を制定していた。

    伊方青年道義会会則
第一条 (名称)本会ハ、伊方青年道義会卜名スク。
第二条 (目的)本会ハ、会員互二知識ヲ交換シ、兼ネテ、処世ノ法ヲ講読シ村内ノ風俗慣習ヲシテ醇良ナラシムルヲ以テ目的トス。
第三条 (組織)本会ハ、正会員・準会員・客員・名誉会員ノ結合ヨリ成立ス。
第四条 伊方村在籍、年齢一四歳以上三〇歳以下ノ青年ニシテ、尋常小学校卒業以上ノ学カヲ有スルモノハ正会員トス。
第五条 他県郡市町村ヨリ寄営セルモノニシテ、前条ノ学力及ビ年齢ニアルモノハ、準会員トス。
第六条 伊方村二居住シ、年齢三〇歳ヲ超過スルモ、相当ノ学カヲ有スル篤志者ハ客員トス。
第七条 本会ノ正準会員及客員ニアラズシテ、本会事業ヲ賛成幇助スルモノヲ名誉会員トス。
第八条 (事業)本会ハ、会ノ整理ト共二左記ノ事業二従事スルモノトス。
 一、討論会 一、演芸会 一、決議会 一、談話会 一、講習会 一、聴講会 一、夜学会・婦人会・尚歯会(老人会)ノ発起 一、応兵者ノ送迎 一、名望家ノ送迎 一、三大祝節(三大節とは紀元節・天長節・四方拝)、有志懇親会ノ発足等、
第九条 (会期)正会員及客員ハ、毎月十日会場二参集スベシ。但八月ハ休会トス。
第十条 (役員)本会ハ、事業ヲ整理スルタメ、会員ノ互選ヲ以テ左ノ役員ヲ置ク。但任期ハーケ年トス。
 一、会長一名 一、副会長一名 一、幹事五名
第十一条 (役員ノ任務)会長ハ会ノ議事・談話等スベテ会の事業ヲ統理シ、副会長ハ会長欠席ノ際事務ヲ掌リ、幹事ハ会長ノ指揮ヲ受ケ、庶務会計ヲ掌ルモノトス。
第十二条 (会費)本会ノ事業二要スル入費ハ、正準会員及客員ノ出金及有志者ノ寄附金ヨリ支弁ス。
第十三条 (会場)伊方尋常小学校ヲ会場卜定ム。
第十四条 (雑則)会員中不品行ニシテ、会ノ名誉ヲ毀損スルモノアル時ハ、会員協議ノ上退会ヲ命ズルコトアルベシ。
第十五条 (雑則)本会ノ事業二関スル細則ハ、会員ノ協議ヲ遂ゲ別二定ムルモノトス。

 この青年道義会は、学校の教員・警察官を準会員として加え、会の事業を随時海南新聞に投稿して世の批評を得て会の発展に資していたといわれる。事業の中でも最も力点が置かれていたのは、参加者がふた手に分かれて同一議題について正否を論じあう討論会で、論題としては「飲酒の可否」「小説を読むの可否」「農商いずれが良きか」「売娼婦存廃論」「全力の優位性」等であった。「甲論スレバ乙駁シ互二鎬ヲ削リテ舌戦何時尽クベクモ計ラズ」「互二論駁ヲ試ミ其ノ間ソヤソヤ、ノウノウ等ノ声大イニ起リ、何レモロ角泡沫ヲ吹キ舌戦其際涯ヲ知ラス」といった真剣な討論が行われ、午後一一、二時近くまで続けられた。この例にみるように当時の青年会は、青年の智徳修養と風紀改善とをねらいとした活動を行っていたようである。
 以上のように青年会は次第に普及し、活発な活動を行っていったが、しかし県内の趨勢からみると従来の若者組がまだ大勢を占めていた。青年自身の側にも近代的な青年会を維持発展させていく自覚がまだ少なく、ようやく発足した青年会も、十分な活動をすることなく、数年で消えてしまったところもあった。

 日露戦争勃発後の青年会の設置促進

明治三七年二月、日露戦争が勃発し、わが国は官民一致して非常時体制に入り、全国の市町村でもこの時局に適合した事業を展開していった。その事業の一つとして青年会を設立して銃後活動の中枢にしようとするところが少なくなかった。本県でも、こうした町村の督励と義勇奉公の使命感に燃える青年たちによって、温泉郡正岡村・河野村・粟井村・五明村・興居島村泊・垣生村・上浮穴郡・伊予郡南山崎村などに青年会が結成された。このころの青年会は、次の宇摩郡金生村青年会々則にみるように、銃後活動の担い手としての役割を多く持ち、組織の面でも次第に官製的な傾向をおびはじめたのである。

      宇摩郡金生村青年会々則(抄)
  第一条 本会ヲ金生村青年会卜称シ、会場ヲ五明院二置ク
      目的
  第二条 本会ハ明治二十三年教育二関スル勅語ノ聖旨ヲ奉体シ、仏教ヲ参酌シ、金生村青年ノ修身道徳ヲ振興スルヲ以テ目的トス
      事業
  第三条 忠君愛国ノ志気ヲ涵養シ義勇奉公ノ念ヲ発揮セシムルコト
  第四条 父母二孝順ナラシメ兄弟ノ友情ヲ厚クシ夫婦ノ情好ヲ温メ一家ノ団欒ヲ謀ルコト
  第五条 農商工業ノ改良発達ヲ謀ルコト
  第六条 衛生ヲ重ンジ家屋内外身体衣服ヲ清潔ニシ摂生二注意スルコト
  第七条 村ノ弊風ヲ革新シ風俗ヲ矯正スルコト
  第八条 奢侈遊情ヲ戒メ勤勉倹素ヲ旨トシ勤倹貯蓄ノ美風ヲ養成シ以テ富強ヲ謀ルコト
  第九条 村ノ貯金規約ヲ督励シ勤倹貯蓄ノ実行ヲ期スルコト
  第十条 軍事又ハ慈善事業其他有益ナル公共事業二対シ寄附ヲナシ博愛心ヲ養成スルコト
  第十一条 軍事其他公共事業二付必要卜認ムル事ハ率先尽カシ以テ公共心ヲ養成スルコト
  第十二条 出征軍人ヲ慰問シ出征軍人家族ヲ保護スル等総テ軍人ヲ優待スルコト
  第十三条 夜学校ヲ設ケ青年ノ学識道徳ヲ増進スルコト
  第十四条 徴兵検査二合格シ入営スルモノニ対シテハ入営前特二学術ヲ授クルコト
  第十六条 納税義務ノ重キヲ知ラシメ滞納者ナカラシムコト
  第十七条 毎月一回以上会員会ヲ開キ、僧侶学校教員ハ講師トナリ教育勅語ノ趣旨二依リ講演ヲナシ、又ハ学術経験アル者ヲ聘シ有益ナル談話ヲ請ヒ、且ツ会員ハ各自意見ヲ吐露シ、以テ智識ヲ研磨交換シ或ハ時事問題二付講究スルコト

 このほか会員や役員などについての規定があり、会員は「忠孝ヲ旨トシ信義ヲ重ンシ同心協力相助ケ忍耐自重己二克チ摂養健康ヲ保チ且ツ将来独立自営ノ道ヲ講スル、各自身分二応シ勤検貯蓄ヲナシ自ラ模範トナリ村内各戸二貯金ヲ奨励スル」「第二一条・第二二条)ことを使命とし、会員会へ出席することを義務づけている(第二七条)。また役員は会長・副会長・幹事長・幹事・理事・評議員からなり、それぞれの職務について明記している(第二八条・第二九条)。そして付則として「本会ハ……官ノ監督ヲ受クルモノトス」(第三四条)と定めている。
 以上のように教育勅語の精神が強く打ち出され、附則の「官ノ監督ヲ受クルモノトス」にあるように、青年会は官製的な性格を持ちはじめたのであった。そして活動としては時局を反映して、値兵金・軍用品献納・出征軍人の歓送迎・慰問・出征家族や遺族の援護・幻燈会・活動写真会の開催・慰霊祭等を行いはじめていった。

 青年会の組織化

こうした戦時中での青年会の動きに、内務省も文部省も注目し、それの発達奨励を促す通牒を発した。内務省は青年が農業改良・納税完遂・道路修理・植林等の地方改良事業の中心的な担い手となるべきことを期待し、また文部省は青年に対する補習教育実施機関としての青年夜学会の存在に注目したのである。この通牒を受けた本県は、明治三九年一月一五日知事安藤謙介の名で、郡市長に対して次のような通達を出し、青年会(青年団体)の健全な発展のために適宜指導するようにとの指示を行っている。

 近来各地方二於テ風儀ノ矯正智徳ノ啓発体格ノ改良其他各種公益事業幇助等ヲ目的トスル各種青年団体ノ設置ヲ見ルニ至レルハ通俗教育上二於テモ其効果尠カラザルコトト存候二付、是等団体ヲシテ其発達ヲ遂ケシムルト同時ニ、旧来ノ習慣二依レル若連中等ノ青年団体二於テモ、其弊習ヲ排除シテ其益ナル活動ヲナサシムル様適宜誘族指導相成様致度依い令此段及移牒候也、

 そして翌四〇年三月、更に県知事安藤は郡視学会において、小学校教育の効果を完全なものにする補習教育の観点から青年団・青年夜学会の育成と指導にあたるよう訓令を行った。これに基づき各郡の郡長・郡視学は郡内町村長会・学事集会等で青年会の設置を督励した。このことと、明治四一年一〇月戊申詔書が発布されたこととが相まって、町村長・小学校長らを会長とする青年会が各地に続々と設立されはじめた。表3-1にみるように明治四三年度に県内二九七町村のうち二三五町村に八〇三の青年会が誕生していった。同年県当局から郡市長会議において青年団体組織の内容に改善を加えるようにとの指示が出され、その改善策として新居・温泉・伊予・喜多・北宇和などの青年会が一町村単位に統合整理された。その結果、翌四四年度には四八一の団数に減ったのである。また郡内にある青年会を系統だてる試みも見られ、明治四一年には新居郡と伊予郡に、同四三年には東宇和郡と上浮穴郡に、更には同四五年に喜多郡に郡長を団長とする郡青年団ないし郡青年会連合会が結成されていった。青年会の系統的組織化が急速に進行していったのである。

 国民教育機関としての青年会へ

青年会の急速な系統的組織化は、地方改良運動の下に、内務省主導で進められてきた。そのために青年会の事業が、本県の場合にしても、農事督励・肥料共同購入・試作田の共作・防火練習・貧民救助・道路の修繕・林野の取締をはじめとして桑園の設置・養魚・養鶏等の目に見える仕事を主とする傾向にあった。こうした青年会の事業団体化の進行に対して、文部省の側には精神的に青年を導いて向上心を発展させるという点が欠けているとの意見が強く、文部省としても実習補習教育発展のために積極的に青年会活動の指導に乗りだすこととなったのである。
 明治四〇年の地方長官会議では文部大臣(牧野伸顕)が青年団体改善を力説、同四二年には『地方自治と青年会』を発表し、ついで、四三年には全国に一、一七六存在すると報告された青年会のなかから文部省は八二団体を選び、優良団体として表彰した。この優良団体のなかに田処青年会夜学会(現在大洲市)があり、「補習教育の施設宜しきを得、成績もまた見るべきものあり」として金三五円の奨励金を交付され表彰されている。(当時米価六〇㎏約四円八〇銭)こうした政府の青年会に対する認識に力を得て、同四三年四月二六日、名古屋市で我が国最初の全国青年大会が開かれた。本県を含め各府県から一、九一四名の参加があったが、そこで協議された「青年団規十二則」は、一、教育勅語並に戊申詔書の御趣旨を奉体すべきこと 一、忠君愛国の精神を養うべきこと 一、国体を重んじ祖先を尊ぶべきこと等を内容としていた。また同年の大逆事件以後政府にとって青年の思想対策が大きな問題となっていたこともあって、時の小松原文相は、社会教育振興策として、通俗教育委員会・文芸委員会の設置とともに、「各町村に於て、教育勅語の御趣旨の実践を旨し、有志の設立せる諸会又は青年会等、開会の場合には成るべく学校職員をして、之に出席せしめ、地方の有力者と共に、勅語の御趣旨に就て、講話講演等を行い、一般に之を貫徹せしむ様努める」ことを要求した。
 これらの影響を受けて、北伊予青年団(現在松前町)会則にみるように、「教育勅語並二戊申詔書ノ御趣旨ヲ旨トシ智徳ノ修養・風紀改善・身体ノ練磨・勉学力行ノ美風・共同自治ノ美風ヲ養フヲ目的」とする青年会が増え、講話会・談話会の開催、補習教育・実業教育を行うことを事業の第一位に置くように変わってきたのである。つまりは、青年会が、文教政策上、実業補習学校と並んで、青年に対する国民教育のための機関としての役割を担いはじめたのである。

 補習教育・夜学会の状況

具体的には補習教育や夜学会に力を入れだしたということである。本県では明治三七年の日露戦争勃発により「一般志気の興奮せるを機とし之を奨励せしかば各地競ふて開設せるに至り」、同年末の調査では補習教育及び夜学会は、表3ー2にみるように普及していった。補習教育というのは、丁年未満の尋常科卒業者を毎日一・二回あるいは夏季休業に四・五日間、学校に召集して、その学校の教員が毎日二・三時間ずつ修身・国語・算術を主として、時として地理・歴史・理科・農業・商業・会議事項を教えるというものであった。それに対して夜学会は年間を通して開会されるものもあったが、多くは農閑・商閑・漁閑を利用し(時期は一定せず)二時間から三時間、修身・国語・算術・実業科学・軍隊事項を中心とし、間々歴史・地理・体操等を加えた学科が教えられていたようである。生徒の学力がそれぞれ違い教授程度は一定していなかった。指導者は当時教員または有志者であった。
 夜学会は、軍隊入営準備として、特にその予習を主としていたが、農・工・商業等の実業科学を加えて教えるところも少なくなかった。というのは、本県の場合、勤労者少年のための公的教育機関としての実業補習学校の設置が遅れていたため、夜学会がそれの代わりを務めていたためである。本県での実業補習学校は明治三五年度に一二校開校したのが最初で、同三六年度に一七校、同三七年度に一四校、同三八年度に三六校が開校されるといった程度で、同三九年八月末においても実業補習学校は小学校数のほぼ五分の一に当たる一二五校しか存在しないといった状況であった。以後明治末期から大正初期にかけて、実業補習学校の設置が進むにつれて、夜学会は次第にそれに転化されていった。

表3-1 明治43~44年度愛媛県内青年団数

表3-1 明治43~44年度愛媛県内青年団数


表3-2 尋常科卒業者短期補習教育並夜学会調べ

表3-2 尋常科卒業者短期補習教育並夜学会調べ