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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 啓蒙と教化としての通俗教育

 通俗教育と愛媛教育協会

文部省に社会教育関係の行政機構が生まれたのは、明治一八年(一八八五)一二月各局宛文部省通達によって、学務局第三課が「通俗教育二係ル事」を処理すると規定した時からである。このころから明治四四年ごろまでの間が、一般に通俗教育期と呼ばれる。明治一〇年代半ばごろには社会教育という言葉がある程度一般化していたのに、文部省がどんな意味で通俗教育という言葉を使ったのか、またそれ以後三〇年代後半に至るまでどんな行政施策を行ったのか、現在のところその実態を明らかにする資料は見つかっていない。制度上通俗教育に関する方策が取り上げられたのは、三〇年代後半からであったようである。
 このように制度上は三〇年代前半までは空白状態であったが、本県の場合この期間に積極的に通俗教育に関わったものに愛媛教育協会(以下愛教協と呼ぶ)がある。就学率が五〇%を割り、当時の教育界にとっては簡易小学校の設置等と並んで、この就学率を上げることが急を要する課題であった。こうした状況のもとで、「愛媛県管内教育ノ改良進歩ヲ図リ会員相互ノ気脈ヲ通スル」ことを目的として、明治二〇年六月一二日に愛教協が設立され、会則に「地方ノ需二応シ会員ヲ派出シテ教育談話ノ依頼二応スルコト」(第六条第三項)と定め、通俗教育への関わりを事業の一つとした。ここでいう「教育談話」が通俗教育のことで、教育のことをわかり易く話をする会を持つといった意味であった。愛教協が通俗教育に取り組もうとしたのは、子供・青年を国民教育に組み入れるために、一般民衆に対して教育とは何かをやさしく話し、教育に対する理解を深めさせることが必要だったからである。こうした学校教育を補足するために行われた通俗教育が、この時期の社会教育の中心的活動であったといえる。
 愛教協は、三二年には「必要二応シテ通俗教育等ヲ各地二開キ或ハ会員ヲ派遺スルコト」(第十条六)と会則改正を行い、先の会則で漠然と表現されていた「教育談話」を「通俗教育会」と明確化した。更に同年帝国教育会への加盟に際して、再び定款の改正を行い、愛教協内部に学制部・学術部、編集部と並んで社会教育部を設け、第十条六を第十条四に格上げして「通俗談話会等ヲ各地二開キ社会ノ改善ヲ図ルコト」とした。以上の会則・定款の改正からして、当時愛教協が如何に通俗教育に力を入れていたか、また次第に積極的になっていったか、ある程度うかがうことができよう。

 通俗教育活動の実際

 愛教協が各地で実施した通俗教育は、具体的にどんなものであったろうか。「愛媛教育協会雑誌」を見ると、「教育幻燈会ヲ勝山小学校内二催シ、予ジメ会券ヲ配布シ、十五日ハ婦人、廿三日ハ男子トセシニ、両日共二百名以上の来観者アリ。中ニハ会券二限リアルヲ失望シタルモノアルヨシ。当夜映画シタルハ天文生理地理歴史二関シ、加フルニ理化学等ノ実験ヲ交ヘタレバ、暗二裏二幾分ノ利益ヲ及ボシタルナラン」(第一号)という記事がある。また、学校を開放して父兄母姉に学校の器械標本、絵画等を観覧させ、それを通して彼らに学校教育を理解させる試みも行われていた。学術共進会という名で、次のように開催されていた。「松山高等小学校及外側尋常小学校ノニ校連合シテ生徒書、画、文、及裁縫品、共進会ヲ開設シ、父兄母姉二其縦覧ヲ許シ、且所属ノ器具標本ノ類ヲ陳列シ其使用方等ヲ説明シ、尚近年実施ノ学科即チ唱歌体操理科等ノ諸科ハ平日ノ通リ之ヲ実地二演シ、夜中ハ同校職員ノ手ニナリタル簡易幻燈器械ヲ以テ種々ノ物影ヲ顕出シ、之ヲ方便トシテ学校教育ノ状態ヲ知ラシメタリシガ、来観入非常二多ク、三日間ニテ一万人ノ上二出デタルヨシナレバ、地方ニハ大二利益ヲ与ヘシナルベシ。……単二此方法ニノミヨルベキニアラザレドモ、抑亦世人二教育心ヲ起サシムルベキ方策ノ一タルコトハ信ジテ疑ハザルナリ」(第六号)。
 こうした記録を通しても分るように、愛教協は、教育談話会だけでなく幻燈会・共進会等の開催を通して、通俗教育に積極的に取り組んでいる。また同三三年四月の第十三回愛教協総会では、社会的道徳の振作方法如何といった問題等を討議するなど、愛教協の「管内教育ノ改良進歩ヲ図ル」活動は活発化していった。

 通俗図書館としての協会記念図書館の設立

図書館にしても一般民衆を対象とする公共的図書館として誕生した最初のものは、本県の場合、愛教協附属のそれであった。愛教協は「第一条本館ハ明治三十三年五月十日皇太子殿下御婚礼大典奉祝/記念トシテ設置シ内外古今ノ図書記録及新聞雑誌ノ類ヲ募集保存シテ広ク公衆二閲覧セシムルモノトス」から始まる「愛媛教育協会記念図書館規則」を定め、同三六年一〇月一四日に松山市にこれを開館した。この図書館は、単に愛教協会員のためにのみ設置されたものでなかった。その設置趣旨書によれば、図書館は「教育ハ音二幼児少年若クハ青年二向テ必要ナルノミナラズ」おとなにとっても必要である。新聞、演説、講談、演劇等の社会教育的手段は何れも何事かの弊害、欠陥を伴い、読書だけが「各人ノ任意ノ時ヲ選ビ任意ノ閑ヲ窺ヒ任意ノ方向二向テ任意ノ修養ヲ行ヒ得ル」ものであって、一般民衆の社会教育上極めて適切有効なものである、との趣旨でこの図書館を設置したとあり、極めて公共的性格の強いものであった。私立伊達図書館が宇和島市に開館したのは、同四四年一一月で、通俗教育期の終わりの時期であった。ともあれ、以上のように当時の社会教育の多くは、通俗教育談話会・教育幻燈会、あるいは図書館活動等を積極的に進めてきた愛教協の力に大きく負う形で、進められていたのである。
 青年会による通俗幻燈会

しかし愛教協だけが社会教育の担い手だったわけではない。後で詳しく触れるが明治一七年ごろから各地に誕生していた青年会も幻燈会等を通して通俗教育活動を行っていた。例えば伊方青年道義会(現伊方町)は明治二七年四月に、一般民衆に対する社会教育を進める意図から、村当局・議会・有志等に幻燈機購入方を次のように陳情し、実際に幻燈会を開催している。「ソモソモ村内ノ風俗慣習ノ改良ヲ計ランド欲セバ、先ズ耳目ヲ喜バシムベキ器械ヲ使用シ平易ナル説明ヲシテ、之ヲ導クノ外他二良策ナキ様思考仕候近時幻燈トテ、夜間燈火ヲ用ヒ美麗ナル絵画ヲ映出シテ、其ノ談話ヲナスノ会流行致シ、為メニ視聴者二非常ノ感動ヲ与エテ、大二美風良俗ヲ養成シタルコ卜砂カラザルハ度々耳ニスル所二有之……略」との陳情書を提出する一方、「百聞ハ一見二如カズ」と資材】切を借用し、八幡神社の境内で幻燈会を開催し、集まった二百余名に深い感銘を与え「拍手ハ境内ノ木々二木霊シテ止ムヲ知ラズ」だったという。しかし幻燈機の購入が実現したのは明治三三年四月で、以後青年たちは中之浜を皮切りに全部落を巡回して幻燈会を開催していった。他の地域においても、青年会による通俗幻燈会は行われていたと思われる。

 日露戦争後通俗教育

 明治三七年(一九〇四)二月一〇日日露戦争が起こり、国内は挙国一致の体制がしかれた。本県でも日
清戦争のころとは比較にならないほどの戦時色にぬりつぶされていった。学校・役場・寺院・社殿・公会所・劇場等を会場に、学校の休業日や農家の休日等に、多くは夜間に戦時講話が開催された。幻燈を使用したり、地図絵画を掲げたり、公報・新聞・電報・軍人の通信等を示したりして、戦争の由来、戦局発展の状況、列国の国力の比較等を明らかにする講話会や幻燈会を盛んに開き、「忠君愛国ノ志操ヲ鼓舞シ勤倹博愛ノ美徳ヲ奨励シ又ハ戦時二関スル知識ヲ授ケ」ていった。
 戦時下という特殊な情況のなかで通俗談話会や幻燈会が著しく普及していった。この教育効果に着目した文部省は、これを平時においても一層普及、定着させようと、明治三九年二月、次のような通牒を発した。これが、文部省による「通俗教育」への本格的な着手の始まりであった。
  今回ノ戦役中各地方二於テ特二開催セラレタル通俗講談会幻燈会等へ教育上多大ノ利益ヲ与ヘタルコトト存候処今後二於テモ尚此種ノ施設ヲ継続シ益拡張普及セシムルハ通俗教育上頗ル有効ノ儀卜認メ候二付中等諸学校及小学校其他適当ノ場所二於テ右通俗講談会等ヲ開催候様御奨励相成度尚祝祭日其他ノ休業日二於テ学校ヲ開放シ器械標本絵画模型等ヲ公衆ノ観覧二供シ之力通俗的説明ヲ与フルカ如キハ通俗教育上稗益不尠ト被存候条是亦御奨励相成候様致度依命此段及通牒候也。

 通俗教育調査委員会の設置

 明治四一年文部大臣に就任した小松原英太郎は、「教育普及に対する目下の急務は、社会教育普及の改善に在りとし、通俗講演会・教育幻燈会・巡回講話会等を奨励し、一面学校との連絡を鼓吹している」と報じられ、「文部省の教育施策方針は、小松原文相に至って著しく社会的教育的傾向を帯び来れり」(『教育時論』第八八八号)と評される程に、社会教育を重視していった。そして、同四四年五月一七日通俗教育調査委員会が設置され、文部次官を委員長として、通俗教育全般に関する文教方策を検討していくこととなった。同年六月二日、第一回の委員会が開催され、文部省が作成した通俗教育調査委員会の事業方針の原案が審議された。審議の結果可決された「通俗教育調査及ヒ施設二関スル件」は次の通りであった。

 一、通俗教育調査委員会二於テハ最有効適切ナル通俗教育ノ方法及事業ヲ調査シ之ヲ施設スルコト 
 二、通俗教育二関スル講演者ヲ派遣シ又ハ紹介ヲ為スコト 
 三、講演ノ資料ヲ収集編纂シテ之ヲ配布スルコト
 四、通俗教育二使用スヘキ幻燈ノ映画及活動写真ノ活動画ヲ選定シ又ハ之ヲ調製スルコト、映画及活動画ノ説明書ヲ編纂スルコト
 五、映画及活動画ヲ備へ置キ要求二応ジ之ヲ貸付スルコト
 六、通俗教育上有益ナル読物ヲ選択シテ広ク図書館等二通知スルコト、通俗教育上必要ナル読物ヲ編纂スルコト、通俗教育上必要ナル読物ノ懸賞募集ヲ為スコト
 七、通俗図書館巡回文庫及其他各種有益ナル展覧事業ノ普及改善及利用ヲ図ルコト、図書及列品ノ選択購入等二関シテハ成ルヘク便宜ヲ与フルコ卜
 八、本邦及欧米諸国二於ケル通俗教育二関スル施設ヲ調査スルコト、調査ノ結果ハ之ヲ配布シ通俗教育二関スル施設上ノ参考二供スルコト
 九、通俗教育二関スル講演会ヲ開催スルコト、

 そして翌七月、この「施設方針」に対応するために、調査委員会は「委員会部会規則」を定め、次の三部会を設けた。第一部ー読物の選定編纂懸賞募集並通俗図書館巡回文庫展覧会事業等を担当 第二部ー幻燈の映画並活動写真の「フィルム」の選択・調整・説明書の編纂等を担当 第三部ー講演会に関する事項並講演資料の編纂及び他部に属せざる事項を担当、とした。当時社会教育の対象とされていたものが、これら三つの内容から成り立っていたといえる。
 以後調査委員会は、この方針にそって活動を展開した。まず、同年一〇月、「通俗教育調査委員会通俗図書審査規程」と「通俗教育調査委員会幻燈映画及活動写真『フィルム』審査規程」を定めた。文部省もこの「通俗教育調査及ヒ施設」の決定を契機として、通俗教育に関する行政的活動を積極的に展開し始めた。つまり、府県を通じて地方教育会を動員し、それらの教育会を活動主体として、通俗教育調査委員会の施設方針の実行を促進していったのである。本県の場合、先に見たように愛教協がその活動主体として、通俗教育の拡充を計っていった。