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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

第三節 特殊教育

 俳人一茶の数多い句の中に「時雨るるや親椀たたく……」と障害児を読んだ句がある。
 小林一茶が生まれたのは、宝暦一三年(一七六三)であるが、それよりも三年前、牧師であり法律家であったアべ・ド・レペー(一七一二~一七八九)によって、フランスのパリに世界最初の聾学校が誕生していた。西欧では、既に障害者を教育の対象と考えていた。内外を問わず、障害者が生まれると、①何かの崇りだ、穀潰しだとして抹殺した時期 ②乞食、見世物の対象とした時期 ③哀れみ、同情の対象とした時期 ④教育の対象とした時期等を経ている。
 西欧と日本とでは、雲泥の差がある。しかし日本でまったく教育してなかったわけではなく、各地の寺子屋で、ぼつぼつ教育はなされていたようである。
 文部省(特殊教育百年小史)によると、幕末から明治初年にかけて書かれた留学生の報告書や帰朝者の海外見聞記等には、先進諸国の盲・聾教育に関する新知識も散見され、それらの識者の中には更に進んで我が国にも盲学校や聾唖学校を創立すべきだという建白をする者も現れてきた。その建白者の一人に宇和島藩士遠山憲美がいる。彼は、米国にも留学し、また横浜にもいたし、海外事情に詳しく、官立の訓盲院、訓唖院設立を強く要望した。明治一〇年(一八七七年)一二月一五日、京都府知事槇村正直宛『盲唖訓黌設立ヲ促ス建議意見書』を建白した。
 時に彼二八歳であった。その中で「盲唖其他ノ廃疾卜雖モ元ト天賦ノ才カハ皆ナ人同シ」といっている。この意見書は、知事の心を強くゆさぶり、知事は、〝文章モヨク建議ノ趣意モヨシ……〟と朱書している。その京都では、古河太四郎が盲唖教育の学校設立運動を起こしていた。これら両者の熱意と努力で、京都に我が国最初の盲唖院が誕生した。時に明治一一年五月二四日で、パリの聾学校創設から一一八年後のことである。
 先覚者遠山の出身県愛媛の特殊教育は、更に遅れ明治四〇年の盲人村長森恒太郎(盲天外)の私立愛媛盲唖学校創設を待だなければならない。しかしこの創設が原動力となり、現在の本県特殊教育の発展ができたのである。
 私立盲唖学校は、昭和四年県立に移管され、同二三年の盲及び聾学校の就学義務制実施、盲聾両校の分離実現によって、それぞれの障害に応じた教育へと発展し、含め細かな今日の教育へと伸展した。
 精神薄弱教育は、盲及び聾教育よりもずっと遅れて昭和二六年の川之江中学校、角野中学校の特殊学級設置を待たねばならない。それは、障害児個々の能力差に目を向けた研究成果といえる。
 さらに、肢体不自由教育については、昭和二八年の今治市の愛媛整肢療護園分校設置からである。この教育も次第に充実し、同四〇年には県立愛媛養護学校設立となり、その教育は軌道に乗った。
 一方、昭和三〇年ごろ愛媛療養所内に善意の入院教員有志によって発足した「つみ木の会」は、同三三年には、所内に分校が併設され、公的に教育が行われ、これが一四年後に県立第二養護学校の創立となり、病虚弱教育の殿堂ができた。これは、養護学校の義務制実施を控えてのことではあるが、関係者のこれまでの努力の成果である。その翌年県立第三養護学校が設立され、義務制と社会の認識によって対象児増加となり、義務制実施の昭和五四年には今治・宇和両県立養護学校設立及び精神薄弱児収容施設に県立養護学校の分校が七校併設された。
 特殊教育は、未開拓の部分が多く研究即教育の実践である。それだけに教職員に人を得なければ発展しない。その結果が教育の分化という形で現れ、言語障害や情緒障害その他の障害の教育へと拡大されている。なお、近年は、対象者が重度化、重複化、多様化してきた。すると、なおさら、意欲・教育愛・献身的な実践力・独創性等の資質を持つ人を得なければ、児童生徒の幸せはあり得ない。