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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 明治期の学校行事

 儀式や運動会・遠足・修学旅行等が行事としての定着をみるのは、わが国教育制度が一応の確立期を迎える明治二〇年(一八八七)代以降である。

 学校儀式

 国家神道の行事日である祭日を除き、非宗教的な三大節(紀元節・天長節・元旦)の祝日には、学校儀式を行うことが国の施策として早くから取り上げられてきたが、明治二四年(一八九一)には、神嘗祭・
新嘗祭を加えた「小学校祝日大祭日儀式規程」、更に明治三三年(一九〇〇)の『小学校令施行規則』が公布され、三大節での儀式の形式が次のように定められた。

 一 職員及児童「君力代」ヲ合唱ス
 ニ 職員及児童ハ
    天皇陛下
    皇后陛下ノ御影二対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
 三 学校長ハ教育二関スル勅語ヲ奉読ス
 四 学校長ハ教育二関スル勅語二基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス
 五 職員及児童ハ其ノ祝日二相当スル唱歌ヲ合唱ス

 県下の実情は、例えば『愛媛県教育史第一巻』の宇和尋常高等小学校の式次第にみることができる。

 運動会・遠足

運動会は学校教育の成果を公開するという性格の外に、記念日の祝賀行事としても盛んに行われた。ここに明治二二年一〇月に実施した風早郡北条尋常小学校秋季運動会の景況を「愛媛教育協会雑誌』(第二九号)によってみることとしよう。

 去ル十七日同校職員各学年生ヲ引率シ午前第七時出校セリ其行装ハ秋季運動ノ四字ヲ大書シタル大旗ヲ先頭二翻シ各組頭二学年別ノ赤白中旗五六旒ヲ持タシメ尚ホ大国旗七八旒赤自小旗数十旒及ヒ校名アル大旗等ヲ処々ニ配当シテ之ヲ持七シメタリ軈カテ運動場、中須賀海浜二着シ先ツ各生徒ヲシテ分列式ヲナサシメ三声ノ太鼓ヲ相図二本陣二引取リ休憩セシメ午前第九時遊戯ヲ始ム是ヨリ一戯ヲ始ムル毎二太鼓ヲ以テス。人馬・二人三脚・嚢脚・棒脚・戴嚢・旗拾・卵拾・源平旗奪(中略)其外種々ノ遊戯ヲナシ午後第五時三十分運動全ク終リ隊伍ヲ整へ帰校セリ時二午後第六時ナリ

 修学旅行

 小学校の修学旅行は桑村郡国安尋常小学校が実施した明治二二年の新居郡市ノ川鉱山への二泊三日のそれが県内最初と言われるが、三〇年代以降には盛んに行われた。
例えば、上浮穴郡久万尋常小学校沿革誌には、明治三五年に次の記事がある。

 一〇月二八日(火)晴 午前第九時出発、生徒十三名教員二名二引率サレ松山地方へ修学ノ為旅行ノ途二上ル 正午サクラ(坂本村)二着シ午食シ四時半森松二着 同駅ヨリ汽車二テ松山市二至リ三番町日野弁二投宿
 一〇月二九日(水)雨 午前第九時外側(松山)駅ヨリ汽車ニテ森松磧二至リ 機動演習ヲ陪観ス 午後四時日野弁二還リ泊ス 本日ハ雨絶間ナク降リ大々困難ヲ極ム
 一○月三〇日(木)晴 午前第七時旅宿日野弁ヲ出テ外側駅ヨリ乗車シ森松駅二下車シ 夫ヨリ徒歩帰山ノ途二就ク 土段原ヲ過クル頃砲声大二起リ機動演習ハ矢取川方面二開カレタリ 暫クシテ豆ヲ炒ル如キ銃声ト共二森松磧ヲ退走(北軍野田方面二退却ス)スル歩騎兵蟻ノ如ク見ユ 午後七時久万町二帰著ス

 学芸会

明治四〇年代の学芸会は一般に簡単な内容のものが学校や部落で行われていた。すなわち、児童による読本の暗唱・朗読、毛筆習字の実演、暗算・そろばん、お話し、唱歌更には奇術まがいの理科実験や二・三人でする舞踊などがその内容であった。また義務教育への関心や理解を深めて出席率の向上を図るといったことから、学芸会のあと父兄母姉懇談会を開いたり、部落集会を行ったりしている。