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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 昭和期(戦前)の農業教育

 農村の不況と農業教育

 昭和の初め、経済不況のため農村は疲弊し、農業学校への入学志願者が減少した。農林省は昭和七年(一九三一)農漁村経済振興計画を発表し、農村の自力更畿が図られ、農民精神の鍛練が強調された。愛媛では周桑郡庄内村に農事修練場が設立され、民間でも農民道場とか、塾風教育が流行した。このような風潮が教育にも影響し、文部省は、昭和四年と五年に、農業学校規程を改正し、農業教育を時勢に即応させるようにした。改正の主な事項は次のとおりである。①修業年限二か年制を認め、簡易で実際的な乙種農業学校の普及を図った。②卒業生に対する研究指導の施設を設けさせた。

 満州事変の勃発と農業教育

農村の不況で活気を失っていた農業教育も、昭和六年九月一八日に勃発した満州事変によって、食糧増産をはじめ、満州開拓のための拓殖教育、さらには銃後を守る女子農業教育が重視されるようになった。更に、同一二年(一九二七)の日中戦争・同二八年突入の太平洋戦争と、戦争が拡大するにつれ、農業教育は国策の線に沿って、次のように拡充刷新されることになった。
 〈県立北宇和農業学校創立〉 北宇和郡選出の県会議員桂作蔵が中心となって、郡内町村長会が農業学校設立運動を行い、昭和一二年三月一五日設立の認可を得て、翌年四月一七日開校した。初代校長坂本徳、定員男子一五〇名(修業年限三か年制)、女子一〇〇名(修業年限二か年制)、家政科五〇名(一か年制)、同一五年甲種昇格。
 〈組合立大洲農業学校県立移管〉 昭和一二年二月、組合立大洲高等農業専修学校は、地元の強い要望により、いったん農業学校に改組したうえ、強力な陳情を続け、昭和一五年四月一六日永年の悲願であった県立農業学校(甲種)となった。初代校長河内完治は、創立以来県立農業学校昇格へと努力した。県立初代校長池上武雄、定員男子一五〇名二二か年制)・女子一〇〇名(二か年制)
 〈県立上浮穴農林学校創立〉 上浮穴郡選出の県会議員新谷善三郎らが中心となって、昭和一一年から上浮穴農林学校の設立運動をはじめ、ようやく昭和一五年八月二八日設立が認可された。新谷善三郎は学校創設に努力し、特に、私財を投じて寮を建設し、さらに学校林購入・運動場拡張・校旗寄贈などをし、農業教育の発展に尽力した。初代校長井田浩、定員男子一五〇名(三か年制)
 〈学科増設〉 県当局は、戦時下国策の線に沿うため、県立松山農業学校既設学科(農業・蚕業・林業)の上に、拓殖科・農業土本科(昭和一四年)・獣医畜産科(昭和一六年)の三学科を新設した。
 〈乙種農業学校の甲種昇格〉 乙種農業学校の甲種昇格に関する意見書が昭和一三年一二月二〇日県会において可決された。その趣旨は、「簡易にして実際的な農村子弟の教育を施すための施設として発達し普及さぜてきたが、日進月歩の大勢ならびに本県教育の実情から時代遅れの感があり、特に同一四年四月二六日に青年学校令が改定され、青年学校男子本科四年制の就学の義務化が同二〇年に完全実施されることになり、その均衡上からも甲種に改組することは喫緊の急務である。」としている。その結果、伊予実業・北宇和農業。大洲農業(昭和一五年)・宇摩実業(昭和一六年)・新居農業(昭和一九年)がそれぞれ甲種に昇格した。

 太平洋戦争下の農業教育の拡充刷新

太平洋戦争下、昭和一八年(一九四三)一月二一日、政府は勅令を以て中等学校令を公布し、それに伴い、同年三月二日実業学校規程が公布され、農業教育は次の要旨で刷新された。①教育の目標を皇国民の錬成におき、日本農民精神の体得実践をねらいとした。②修業年限五年制の農業学校は一年短縮された。③学科を整理統合し、一二学科程度とし、そのうち、農業・林業・蚕業・園芸・農業土木・獣医畜産科の六学科の標準課程及び科目の要目を示した。④教科制を採用し、科目の整理統合を図った。国民科・実業科・家政科・理数科・体錬科・芸能科の教科を設け、その下に科目を設けた。農業科では、耕種・養畜養蚕・農業土木・農産加工・農業経済の五科目を必修とし、林業・拓殖は一科目を必修とした。
  〈女子農業教育の強化と学科の増設〉 県当局は、日中戦争以来、農業教育の拡充刷新を図ってきたが、昭和一八年公布の実業学校規程に基づき、一層農業教育の強化拡充を図ることになり、従来の各学校別の規則を改め、統制一本化した「愛媛県立農業学校学則」を同一九年一月二七日制定し、同一八年四月一日にさかのぼり施行した。以後の改正も加えて、農業教育が次のように拡充された。①銃後を守る女子農業教育強化のための専攻科(女子一か年制)設置(宇摩農・上浮穴農・伊予農・大洲農・北宇和農・南宇和農、昭和一八年四月)。②食糧増産及び里需関連の学科増設(農業土木科=伊予農、同一八年三月。獣医畜産科=宇和農、同二〇年四月。ご業科=宇摩農男女各一学級、同二〇年四月。新居農=修業年限五年制を四年制に改め、男子定員二〇〇名に改組、同一九年二月。女子部定員一〇〇名新設、同二〇年一月)

 決戦体制下の農業教育

戦時下、文部省は昭和一五年(一九四〇)一二月、「学校報国団ノ組織二関スル要綱」を指令した。県当局は、これに基づき、同一六年九月一一日、「学校報国団ノ隊組織編成並二其ノ活動二関スル件依命通牒」を出した。県下の農業学校は同年一〇月二四日報国隊を結成し、以後本部指令により、報国農場の経営、遺家族の勤労奉仕等を行うようになった。更に、太平洋戦争突人後は、戦争の激化に伴い、政府は同一八年六月二五日「学校戦時動員体制確立要綱」、更に同年一〇月一二日「戦時非常措置方策」を閣議決定して、「当面戦争遂行力増強ヲ図ル一事二集中スルモノトス」となり、学校の授業は雨天以外実施不可能となった。県当局は、同一九年三月内政部に愛媛県勤労報国隊本部を置き、「昭和一九年度学徒勤労動員要綱」を四月七日公表した。農業学校・青年学校・国民学校高等科生徒は、食糧増産・土地改良・災害復旧等に、本部の指令により動員されることになった。同二〇年になり、戦局はいよいよ本土決戦の様相を呈し、全学徒を戦力として動員せざるを得なくなり、「戦時教育令」が五月二二日に公布され、同年四月一日より翌年三月末まで、教育停止の措置がとられ、勤労動員が強化されることになった。宇和農業学校の当時の実状を例示することにする。
 〈宇和農業学校勤労動員出動情況(昭和一九・二〇年)〉 ①学校報国農場の経営(山野一〇町余を開墾し、ソバ・ナタネ・サツマイモを栽培。同二〇年には運動場・校地の空地は余すことなく大豆・サツマイモ栽培)。②応召の遺家族農家の勤労奉仕、応召等による耕作不能の水田約七町歩の経営担当。③軍需航空燃料用松根油採取作業(宇和町一帯の松山伐採跡から松根を掘り取り、学校が建設した伊賀上の松根油採取工場に運び、薪割り、昼夜続行の乾留等、これら一連の作業を行った。また松の成木に鋸の切り目を付け樹脂を採取し乾留する方法も行った。昭和一九年の採油目標は、五〇〇㎏入りドラム缶八〇〇缶であった)。④自動車燃料用木炭製造(原木伐採面積一三町歩、現地に築窯し、山小屋に宿泊当番制で製炭した。伐採跡には、松・桧を植林した)。⑤水害復旧作業(同一八、一九年の両年にわたって、南予一帯は豪雨に襲われ被害甚大であった。下宇和村皆田地区復旧作業・渓筋村復旧作業に学校あげて出動した)。⑥飛行場滑走路建設作業(同二〇年宇和町永長に軍用飛行場が建設されることになり、七・八月の炎天下、しかも敵機襲来下突貫工事が進められ、南予地区の学校・「般住民は総動員され、連日モッコかつぎ・トロッコ押し・木材運搬等に従事した)