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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 中等教育

 学制以前の和算の教育

 〈和算〉本県に和算がひろまったのは、江戸時代末期になってからで、松山の大西義全をはじめ小島馭季・山崎昌龍・温泉郡新浜村の伊崎義昌・新谷の岩田清・瀬戸田の手島大助など、関流や宅間流の流れをくむ多くの和算家が活動し、この地方の和算は、地方としては相当高い水準に達していた。伊佐爾波神社(松山市道後)・太山寺(松山市)・郡中稲荷神社(伊豫市)・山口神社(大洲市新谷)・内子八幡神社
(内子町森)・大浜八幡大神社(今治市)などの神社仏閣に現存している奉納された算額は、最も古い天明八年(一七八八)から、新しい明治一七年(一八八四)・昭和一二年(一九三七)にわたって、その数三〇面にもなり、全国的にみても、埼玉・群馬・岩手・長野に次いで多く、その当時の和算家の活動状況を伝えている。
 和算家の教授は、主として個人指導であった。門弟に数理を詳説して系統的に指導するというのではなく、問題を提示してこれをみすがらの力で解かせるという方法がとられた。そして門弟が解くことができると、次の問題を与えて程度を高めるが、解くことができなければ、そのまま考えさせておくといった指導法であった。また和算家の中には家を出て、各地に遊歴し、出張教授をして歩いた者もあった。和算家の中にはグループをつくって、同好者が互いに問題を作ったり、解いたりして、研究し合うということも活発に行われていた。
 和算家には、暦算・測量・航海並びに砲術洋算などの心得があり、量地術家(測量家)として農地・河川改修などで活動した者も少なくない。藩の御用掛を命じられ、家老や軍用方に伴われて測量製図に従事し、砲台の築造や海岸の補強などに勤め、重く用いられた者もいる。
 和算は、学問的内容においても、指導方法においても、洋算に比較して整備された体系をもっていなかったことはいなめない。明治維新を迎えて公的教育機関から和算が排除されるようになると、和算を学ぼうとする者がほとんどなくなり、急激に衰微するようになったのである。しかし、和算から洋算への中継者として私塾・寺子屋の数学教育から近代学校の数学教育への仲介者として、和算家の果たした役割は高く評価されているのである。
 〈洋算の移入〉 鎖国政策をとっていた江戸時代、医学・天文暦術などのいわゆる蘭学は、長崎で通商を許されていた唯一の国オランダを通じて輸入された。数学についても、天文・暦算・測量・航海術などに関連して、一方では直接オランダ人から、また一方では中国の訳書によって間接に、ある程度までは西洋数学に接触していたのであるが、その影響するところはあまりなかった。外国船が日本の近海に来訪し、緊迫した極東の情勢の中で、ペリーの来航を先頭としての「黒船」によって開港を迫られるにいたった幕府は、その対策に奔狂し、軍事面の充実を図るとともに、洋学所を建て、オランダ人から洋学・航海術などを学ばせたのである。
 日本における西洋数学の正式な教授は、軍事とりわけ海軍から始まっている。つまり、国防の問題が西洋数学導入の手引きをなしていたのである。当時のわが国の数学者は、自発的に西洋数学の優秀さを認めてこれを積極的に採用したのではなく、航海術・機械学・戦術などを学ぶ必要上から西洋数学を修めるようになったのが実情である。明治維新とともに西洋数学は急速に普及されはじめ、啓蒙的洋算教科書があいついで発行されるようになってきた。和算から洋算への転換は、もはや時代の激流によって規定されたといっても過言ではない。系統的に西洋数学が伝えられ、一般に普及するのは、「学制」期にはいってからである。

 「学制」頒布以後の数学教育

〈「学制」下の数学教育〉 明治五年の「学制」によって規定された中学校は、小学校につづいて各中学校区に設立し、上等小学四級二一か年)を修了した生徒を入学させ、普通の学科を授けるところとされていた。その「数学要目」は下等中学校(三か年)と上等中学校(三か年)の課程を左のとおり規定している。

    下等中学校(三個年)                   上等中学校(三個年)
  六級 算術(6)最大等数より分数まで          六級 幾何(4)平面及立体、代数(4)一元一次方程式
  五級 算術(6)小数より比例まで            五級 幾何(4)三角法、代数(4)多元一次方程式
  四級 算術(6)開平、開立、求積            四級 幾何(4)、求積曲面、代数(4)累乗及開方
  三級 算術(4)商業算、利息算、幾何(2)幾何用字解  三級 幾何(3)体求法、代数(3)二次方程式
     代数(2)名義、記号               二級 幾何(2)体求法の続、代数(2)比例及級数、
  二級 算術(2)利息算、幾何(2)円             測量大意(2)、重学大意(2)
     代数(2)加減乗除                一級 幾何(2)温習、代数(2)温習
  一級 算術(2)対数用法、幾何(2)円内多辺形法       測量大意(2)、重学大意(2)
     代数(2)最大等数約分まで
 中学校でも、小学校と同じように、数学科の時間数が多く、この教科が重視されていたのである。しかも、その教授内容は、伝統的な和算にかわって、幾何・代数を系統的に取り入れているので、西洋数学教科書そのまま(原書)を使用するか、翻訳書にたよるほかなかったのである。
 しかし、この教則は、多くの場合空文に過ぎなかった。当時の大多数の中学校は変則中学校か外国語学校であったため、要目どおりの課程は実際に行われていないことが多かったのである。
 〈「教育令」下の数学教育〉 明治一〇年代にはいると、画一的中央集権的な教育制度・内容に対する反発が地方において強まってきた。明治一二年には、明治五年の画一的な「学制」が廃されて、新しく「教育令」が制定された。このいわゆる「自由教育令」の施行に伴って、全国的に就学率が低下したのをはじめとして、学資の出費拒否などの事態が生じた。このような状態に対して文部省は明治一三年になると自由化の政策を統制する方向へ転換し、「教育令」改正が同年一二月に行われている。
 本県では、明治一四年一一月、同年七月文部省制定の「中学校教則大綱」を伝達し、明治一五年一一月には、同一五年制定の文部省教則にのっとって、「愛媛県中学校教則」を制定している。
 明治一五年制定の文部省教則は次のようになっている。
    初等中学科                    第四年前期 代数(2)順列、錯列、級数
  第一年前期 算術(5)加減乗除、分数、小数            幾何(2)立体幾何
  第一年後期 算術(5)諸比例、百分率、開平      第四年後期 幾何(2)立体幾何、常用曲線
  第二年前期 算術(2)開立、級数、求積
        代数(2)整数四術              高等中学科
  第二年後期 代数(2)分数四術、幾何(2)平面幾何  第一年前期 三角法(2)八線変化、対数用法
  第三年前期 代数(2)方程式、幾何(2)平面幾何   第一年後期 三角法(2)対数用法、三角実算
  第三年後期 代数(2)方程式、幾何(3)平面幾何   第二年においては数学科を欠く。

 数学教育の整備充実

 〈尋常中学校の数学教育〉 明治一九年制定された「中学校令」により、中学校は尋常中学校と高等中学校に分けられ、同年制定の「尋常中学校ノ学科及其程度」によって、中学校数学の程度が定められ、中学校数学教育は飛躍的な進歩をとげ、多くの数学教科書が出版されるようになった。
 尋常中学校の数学科の課程は、算術・代数・幾何・三角法を五学年間に配当している。
    尋常中学校課程(数学)        数学科程度
  一年(4)算術・幾何初歩      算術ー比例及利息算・諸則の理由
  二年(4)算術の復習・代数・幾何  代数―釈義・整数四則・分数・一次方程式・自乗・開平開立・指数・根数・
  三年(4)代数・幾何             二次方程式・準二次方程式・比例・等差級数・等比級数・調和級数・
  四年(4)代数・幾何             順列・組合・二犯法・対数
  五年(3)代数・三角法       幾何―定義・公理・直線・直線形・円・面積・平面・立体角・角錐・角柱・
                        球・円錐・円柱
                    三角法―角度・三角法比・対数表用法・三角形・距離等の測法・球面三角
                        法
 「学校令」によって、中学校が制度的に安定すると、数学教育もまたその内容において進展している。横書きの数学教科書が現れたのもこの時期であるが、まだ大部分が翻訳書であった。
 <数学教育の統一> 明治二四年一二月、「中学校令」の改正によって、一府県に二校以上の公立中学校を置くことが認められるとともに、中学校の種類として高等女学校を設けることができるようになった。同三二年二月には、「中学校令」の改定、「実業学校令」の公布が行われ、続いて「高等女学校令」及び「高等女学校ノ学科及其程度二関スル規則」が制定されるなど、中等教育の著しい振興を見たのである。
 このような情勢に伴い、各学校の教育内容の改善を図るため、明治三五年に「中学校教授要目」、同三六年には
「高等女学校教授要目」が制定されたのである。
    〔中学校数学科教授要目〕
 第一 算 術 第一学年(毎週四時)緒論、整数及小数、諸等数、整数の性質、分数、比及比例
        第二学年(毎週二時)比及比例の続き、割合、冪及根
 第二 代 数 第二学年(毎週二時)緒論、整式、方程式
        第三学年(毎週二時)方程式の続き、整式の続き、分数式、方程式の続き
        第四学年(毎週二時)無理式、比及比例、級数、順列及組合、二項定理、対数
 第三 幾 何 第三学年(毎週二時)緒論、直線、円
        第四学年(毎週二時)円の続き、面積、比例、比例の応用
        第五学年(毎週二時)比例の応用の続き、平面、多面体、曲面体
 第四 三角法 第五学年(毎週二時)角の測り方、円関教、直角三角形の解法、円関数の続き、角の和に対する公式、
        三角形の辺と角の円関数との関係、対数表の用法、三角形の解法、高さ距離等の測定及之に関する実習
     〔高等女学校数学科教授要目〕略

 数学教育の改造

 〈数学教育改造運動と教授要目の改正〉 明治三五年の教授要目は、教育内容を国家的・中央集権的に統制し、教育の統一を図るうとしたものであったが、要目選定のより所は分科主義的・論理主義的立場に立つものであって、直観的・実験実測的立場を排撃し、イギリスのペリー・アメリカのムーア・ドイツのクラインなどによって提唱された数学教育改造運動の精神とは全く反対で、数学教育の進展に逆行するものであった。
 その後欧米の数学教育改造運動が少しずつ紹介されるようになり、明治四四年に文部省は、中学校及び高等女学校の数学科教授要目を改定している。これは国際的な数学教育改造運動の精神を取り入れようとする数学教育界の動向を反映したものであった。この要目によると、中学校の数学科時間数は、第一・二・四・五学年が週四時間、第三学年は週五時間となっているのに、高等女学校は第一・二・三・四学年とも週三時間である。内容についても、中学校と高等女学校の間には格段の差があり、高等女学校は、算術が主であって、代数・幾何の初歩を第三学年以上で授けてもよいことになっているに過ぎなかった。この時の中学校数学科教授要目では、これまでの分科主義的な考え方に修正を加える姿勢を示していることに注目すべきである。
 〈数学教育改造の進展〉 大正期の自由教育運動と数学教育改造運動は、互いに重なり合いながら理論的・実際的な活動を展開し、昭和にはいるとともに大きな流れとなってその実を結ぶ方向へと進んでいる。「数学科教授要目」に対する不満が、いろいろな形で表明され、しだいに各学校別に要目改正への建議という形になって積極化してきたのである。文部省は、中学校教育が普及し、その卒業生の進路が多様化してきたこと、学科目の内容が社会の進歩と学校の実情にそぐわなくなってきたこと、とくに実業的教育の必要性が高まったことなどの理由により、昭和の初頭から中学校教育の大改訂をめざして検討を重ねてきたが、昭和六年一月に中学校令施行規則の改正を行い、同年二月に中学校教授要目の改正を公表したのである。
 この改正のねらいは、中学校教育を準備教育の弊害から救うこと、中学校教育を実際生活に適切なものにすること、中学校教育の画一性を排除すること、の三点であった。改正された施行規則は、中学校の学科目を共通な内容を教える基本科目と能力・志望に応じて学ばせる増課科目とに分け、増課科目の内容によって、第一種課程と第二種課程に分けたことが大きな特徴である。この改正規則で最も大きく変わったのは数学科である。改正規則によると、第一種及び第二種の基本科目の中に数学ははいっていないし、増課科目の中でも数学は必ずしも選択しなくてもよいことになっている。教授時間数の上からみると、第四学年から第一種・第二種制にしようとする場合は、基本科目としての数学は第一・二学年で三時間、第三学年で五時間、増課科目としての数学は、第一種は第四・五学年とも二~四時間、第二種は二~五時間となっている。しかも、この課程は、教授内容についでもいろいろ細目を述べないで、極めておおまかな大綱を示すにとどめ、実際の運用は教授者の考えに任す方針であったので、編成のしかたによっては、非常に新しい教育を行うこともできるし、反面入学試験準備の教育を行うこともできるというものであったのである。

    数学科教授要目
   本要目ハ算術・代数・幾何・三角法ノ区別ヲナサズ、単二教授内容ヲ列挙スルニ止メタリ。而シテ其ノ取扱ハ或ハ之
  ヲ分科シ或ハ之ヲ綜合スル等教授者ニオイテ任意工夫スベキモノトス。
   第一種及第二種ノ両課程ヲ第四学年ヨリ分ツ場合ニオケル要目ヲ甲トシ、第三学年ヨリ分ツモノヲ乙トス。
  [甲] 第一学年(毎週三時)整数、小数、分数、正数、負数、一次方程式、幾何図形
   第二学年(毎週三時)二次方程式、直線形、円
   第三学年(毎週五時)分数方程式、比例、相似形、鋭角三角関数
   第四学年 増課教材 第一種(毎週二時乃至四時)第二種(毎週二時乃至五時)
        基本教材ノ補充、級数、対数
        第一種課程二在リテハ特二実業二必要ナル事項ヲ選ビテ為前記ノ内容ヲ適宜斟酌スルコトヲ得。第五学
        年ニオイテモ亦之二同ジ。
   第五学年 増課教材 第一種(毎週二時乃至四時)第二種(毎週二時乃至五時)
      平面及直線、多面体、曲面体、三角関数及其応用、全課程ノ総括及補充
 注意 一 歩合算・軌跡・作図題・求積等八本要目二列挙セル事項二連関シテ適宜之ヲ授クベシ。
    二 第一学年ニオケル幾何図形ヲ教授スルニハ立体ノ観察測定、平面図形ノ作図、模型ノ作製等二依リテ空間
      二関スル観念ヲ明瞭ニシ且後学年ニオケル学習ノ基礎タラシムルコトニカムベシ。
    三 教材ハ成ルベク実際生活二適切ナルモノヲ選ブベシ。
    四 教授ノ際常二関数観念ノ養成二留意スベシ。
    五 珠算ハ適宜之ヲ課スルコトヲ得。
[乙] 甲との違いは、第三学年における鋭角三角関数が甲では基本教材の方に、乙では増課教材の方にはいっているだけであるので省略する。

 戦時下の数学教育

 〈青年学校の数学教育〉 青年教育については、昭和一〇年四月の「青年学校令」により青年学校が制度化され、それまでの実業補習学校と青年訓練所とが統一されることになり、同一〇年一〇月一日をもって青年学校が全国一斉に開校された。同一二年五月に「青年学校教授及訓練要目」が制定されたが、たまたま日中戦争がぼっ発し、「国家総動員法」が公布されるような情勢の中で、同一四年四月「勅令」をもって、青年学校の就学義務制が実施されたのである。
 青年学校の数学については、青年学校普通科の教授要目の中に、各学年ともこれを課すべきこととしているが、なんら具体的な内容とその系統を示さず、教授要目ではただ次のように述べているに過ぎない。

  数学は一般教材との連絡を保つと共に特に職業に関連せしめて之を課することとしたり。
  実施上の注意事項
  数学においては日常生活に須要なる数量に関する知識を明確にし、数理的なる考え方を養い、数理処理の方法に熟達せしむべし。殊に歩合算・統計・測量・実用的幾何図形等に重きを置き、関数観念に留意し、又算術・代数・幾何の別にとらはるることなく、夫等を自在に活用せしむべし。尚珠算の練習をも重んすべし。

 教材の配列や内容については、青年学校長にいっさい委ねられていたのである。しかし、当時の青年学校では、制度の上からも、学校や生徒の実情からも、その運営が極めてむずかしく、緊迫した戦時下においては、生徒に十分な教科内容の修得を期待することは困難であった。
 〈昭和一七年の教授要目とその特徴〉 昭和六年の教授要目があまりにも大まかであったことが一つの発端となって、細目の研究が推進された。同時に教授要目自身の研究も促進されて、再び教授要目改正の気運が起こってきたのも当然の流れであった。昭和一〇年に小学校の新しい算術の教科書(いわゆる緑表紙教科書)が発行され、この「尋常小学算術」で育った児童がやがて中学校へ入ってくる時代に備えで、中学校の教授要目を再検討する必要があったのである。このような情勢に加えて、昭和一二年には日中戦争が始まり、同一四年にはノモンハン事変が起こり、科学技術の劣勢をいやというほど知らされた軍部から、科学振興の要望が高まり、しだいに国家主義的軍国主義的色彩が濃厚になるにつれて、中等学校の数学教育を再構成する必要に迫られ、中学校及び高等女学校の制度の改革に先がけて中等学校数学教授要目を改正したのである。
 昭和一七年の教授要目には、きわだったいくつかの特徴があるが、同六年の教授要目に比べて、同一七年の教授要目はかなり詳しいものになっていること、同六年の時に新しい考えで取り入れられた基本教材と増課教材の考え方は今回の改正では姿を消したこと、同六年の教授要目では、算術・代数・幾何・三角法という区別を取り去って教授内容を列挙するに止めたのであったが、同一七年の教授要目では、これを主として数式に関した内容である第一類と、主として図形に関した内容である第二類に分け、これらを相互に開連させつつ指導するようになっていることなどがあげられる。さらに、同一七年の改正の重要な特徴の一つは、内容的には思いきった大胆な進歩的方針がとられ、新しく解析幾何・微積分の概念・画法幾何・統計法などの基本的な内容を取り入れ、それらを統合一体として数学科を構成しようとしている点である。また、教授要目改正の目標を皇国民の錬成という点におき、全般にわたり国防・産業の観点に立って指導するようにという趣旨がとりあげられていることは、太平洋戦争突入直後に改定された教授要目であるだけにうなずくことができるが、これまでの教授要目にはない極めて異例なことであった。
 昭和一七年の教授要目で忘れてはならないことは、高等女学校の教授要目が三〇年ぶりに改正され、その内容がこれまでの教授要目に比べて極めて程度が高くなっているということである。これまでは高等女学校の数学といえば、算術のほかは「代数ノ初歩、幾何ノ初歩ヲ授クル場合二ハ次ノ要目ニヨリ第三学年以上ニオイテ之ヲ授クベシ。代数、簡易ナル代数式及方程式。幾何、簡易ナル平面図形及立体図形」(明治四四年制定、大正九年改正)という状態であった。それが中学校とは詳しさの差こそあれ、解析幾何・微積分の概念にまで進むことになったのは一大飛躍というべきである。国の非常事態に直面し、女子もまた大きく前進することを要求されたのである。
 〈理数科数学と戦時非常措置〉 昭和一七年三月に新しい教授要目が制定されながら、それに準拠した教科書は一つも発行されないままに放置されていた。昭和一八年一月には、「中学校令」・「高等女学校令」・「実業学校令」を廃止し、新に「中等学校令」を公布し、これによって中等学校を四年制に改め、新しい観点から各教科の再編成を行い、それに従った教授要目が制定された。教科を国民科・理数科・体錬科・芸能科・外国語科の五つに分け、理数科を理数科数学、理数科物象、理数科生物に分けたのである。理数科数学の内容は、昭和一七年の教授要目が五学年分であったものを四学年分に圧縮して配当したものである。大きな項目だけをあげると、次のとおりである。
  第一学年  第一類 1図表卜式      2正ノ数卜負ノ数  3一次関数(其ノ1)
        第二類 1測量        2図形の画き方   3対称・回転・合同
  第二学年  第一類 1一次関数(其ノ2) 2二次関数     3式ノ計算
        第二類 1平行ト相似     2直角三角形    3円卜球
  第三学年  第一類 1個数ノ処理     2系列ノ考察処理  3近似値ト誤差
        第二類 1対数        2三角関数     3軌跡
  第四学年  第一類 1連続的変化     2統計
        第二類 1立体図形表現
 太平洋戦争の戦局の進展に伴って、教育に関する戦時非常措置方策や学徒勤労動員実施要綱などが相次いで決定され、中等学校の生徒が順次県内及び県外の軍需工場その他へ勤労学徒として動員されるようになり、しだいに戦時非常措置のもとで十分な授業を行うことができない状態になった。このような事態の中で、中等学校教育に関する措置要綱が制定され、中学校・高等女学校・実業学校の校種別に勤労動員の期間に応じた学年別授業時数の基準が示され、勤労動員中の授業を確保するよう要請されている。通年動員の場合は、一週六時間の授業を特設することを原則とし、国民科・理数科の中から必要なものを適宜選択して重点的に要点を課することとなっている。六か月程度の場合は、特に数学の授業時間数の基準が示されている。勤労動員のため正常な授業を行うことがむずかしい情勢の中でも、数学は重視され、指導が続けられるように配慮されていたのである。戦時下にわずかにその命脈を保っていた数学教育は、「戦時教育令」や「戦時緊急措置法」が公布され、終末的な戦況が深まるにつれて、その実践が不可能となり、終戦を迎えることになった。

 占領下における数学教育

〈学制改革と学習指導要領〉 終戦直後からGHQが我が国の教育改革についての諸政策を押し進めていく中で、文部省は米国教育使節団の勧告に従って、昭和二一年一二月、六年の初等教育に続く三年の中学校を義務制とし、高校三年、大学四年のいわゆる六・三・三・四制の新しい教育制度を実施することを決定し、昭和二二年度から新制中学校を、同二三年度から新制高校を、同二四年度から新制大学を発足させることになった。教育基本法と学校教育法が早急に作成され、同二二年三月三一日に公布されている。
 新教育では教育の指針を示す学習指導要領がまず定められ、教科書はそれを実現する一つの手段として作られるという仕組みになっている。学習指導要領一般編の精神に基づいて算数科・数学科の基準を示したのが学習指導要領算数科・数学科編である。これは同二二年五月に発行された。高等学校については、同二二年四月に新制高等学校の教育課程に関する通達が小・中学校の学習指導要領一般編の補遺として出され、さらに、同二三年一月に「高等学校学習指導要領」(試案)が発行された。
 〈新制高等学校の数学教育〉 旧制度の中学校の数学は、代数的なものを第一類、幾何的なものを第二類とした二系統を同時に学習する方法をとっていた。また、高等学校では代数学・三角法・解析幾何学といった学問的な分け方で学習するようになっていた。そこで、新制高校ではどちらの類型をも解体して、新しく解析I・解析Ⅱ・幾何の三教科(同二四年六月、教科と科目を区別する以前は教科と呼んだ)に分類し、その中の一教科を選択必修とし年間一七五時間をあて、他の二教科は自由選択ということになった。
 解析Iの内容は旧制中学の一類2と二類3を主体とし、それに一類1の一部分がはいっているほか、旧制中学にはなかった不等式の性質、二次不等式、虚数、複素数の計算、絶対不等式、対数方眼紙、逆三角関数、三角方程式の一般解、三角関数の和と積の変換公式などが加えられた。解析Ⅱの内容は旧制中学の一類3と一類4を主体とし、新しく重複組合せ、二項定理、数学的帰納法、Σの用法、関数の極限、無限級数、置換積分法、二角関数の積分、第n次導関数と曲線の凹凸、不定積分が逆三角関数となるもの、運動点の加速度、積分による重心の求め方などが加えられた。
 幾何(1)は初等幾何で、その内容は旧制中学の二類1と二類2を主体とし、新たに正多面体、公理、辺と角の大小関係、調和点列、軌跡の証明法、逆・裏・対偶、アポロニウスの円、作図題の解析・作図・証明・吟味などが加えられた。幾何(2)は解析幾何で、第1章座標、第2章平面上の直線、第3章空間内の直線と平面、第4章座標変換・ベクトル、第5章円・球、第6章二次曲線、第7章二次曲面となっている。
 幾何(1)、(2)を一か年(5単位)で済ますことは不可能であったので、文部省は同二三年八月に「幾何は幾何(1)て足りるから、幾何(2)は自由な立場で指導してよい」と指示したので、これによって解析幾何は事実上高等学校で扱われないようになった。

 昭和二三年一〇月に新制高等学校教科課程改正の通達が出され、同二四年度から数学は解析I・解析Ⅱ・幾何・一般数学の四教科とする旨公布され、一一月に一般数学の内容が公表されたのである。新しくもうけられた一般数学は、将来あまりむずかしい数学を必要としない方向に進む生徒のためにつくられたものであって、中学校に引き続いて、生活中心の考え方に従って取り扱うべき性格のものであるので、各学校では地域性と生徒の実態に応じて適当に単元を設定して学習を進めていった。しかし、同二四年度から加わった一般数学を大学入試の対象とするかどうかが問題となり、大学によっては選択する科目を指定したり、一般数学を入試科目から除外したり、共通問題を出題するなどさまざまな事態が生じた。これをきっかけにして、混乱が生じた根源は高校の科目編成にあるとして高校の教育課程を改正する動きが活発になってきた。
 〈昭和二六年度の学習指導要領改訂〉 昭和二六年七月に、同二二年度に発行された学習指導要領一般編が改訂され、同時に中学校・高等学校学習指導要領数学科編(試案)が文部省から公表された。これによって数学科の教育課程の基準が示されたのであるが、この学習指導要領は、数学科において、何をどのように教えたらよいかという点について、教師に役立つよい示唆を与えようとするものであって、これによって教育を画一的なものにしようとするものではないという点て、戦前の教授要目とその性格を異にするのである。
 この改訂では、数学科の科目編成は高等学校発足時から実施されてきた解析I・解析Ⅱ・幾何・一般数学の四科目に変化がなく、そのうち一科目が選択必修とされた。各科目の内容については、改訂にあたって解析I・Ⅱのコースと幾何とて、数学として重要な事項がある程度共通になるように配慮されている。例えば、解析Iでも図形の性質の重要なものは必ず扱い、幾何でも代数的な方法についてはその基本的なことは学習するといった形にしたことである。また、幾何に解析幾何の一部が加えられた。

 数学教育の現代化

〈昭和三一年度の学習指導要領改訂〉 この改訂では、全般の方針として、高等学校の教育は、この段階における完成教育であるという立場を基本とすること、高等学校の教育課程は、各課程の特色を生かした教育を実現することを眼目として編成することが強調されている。特に普通課程においては、教育にいっそうの計画性をもたせるため、第一学年において生徒が履修する科目及びその単位はできるだけ共通にす
ること、上学年に進むにつれて生徒の個性や進路に応じて分化した学習を行い得るようにすること、生徒が自由に科目を選択履修する建て前を改め、学校が定める類型(コース)のいずれかを生徒が選択履修することを建て前とすることをあげている。いわゆるコース制が採用されたのである。
 この方針に従って改訂された高等学校数学科は、まず、教育の効果を高めるため、科目の編成を改めて数学I・数学Ⅱ・数学Ⅲ・応用数学の四科目とし、各科目の単位数は、各課程の必要に応じ得るように幅をもたせ、数学I六単位または九単位、数学Ⅱ三単位(数Iのうち少なくとも六単位の履修が終わってから履修を始める)、数学Ⅲ三単位または五単位、応用数学三単位または五単位と定めている。数学Iはすべての生徒に履修させる科目であって、代数及び幾何の初歩的基本的な分野の学習を通じて、数学的な考え方の基本を会得させ、あわせて、他教科並びに数学科の他の科目の学習に必要な基盤を作るものである。数学Iを九単位として課すか六単位として課すかは全教科についての学校の教育課程を編成する立場から定める。数学Ⅱは数学Iに続いて履修する科目であり、数学Ⅲは特に数学を必要とする方面に進打生徒や数学に深い関心をもつ生徒に対して、数学Ⅱに引き続き、微積分及び確率・統計の初歩的基本的な分野の学習を通じて数学科の目標をさらに高い程度に達成することをねらいとするものである。応用数学は数学Iあるいは数学Ⅱに続いて履修させる科目であって、数学をよく用いる職業課程の専門科目の学習を容易にするためのものとして作られたのである。この改訂により、高等学校数学科の内容は、解析I・解析Ⅱ・幾何・一般数学の選択という旧学習指導要領より一歩進んで学年指定の方向へ進められ、指導内容も一段と整理されたものとなったのはいうまでもない。
 特に注目すべきことは、今回の改訂で数学I・数学Ⅱ・数学Ⅲの内容の中に代数的内容及び幾何的内容を系統的に示すと同時に、これらの内容を通して一般化すべき数学的な考え方を、中心概念として欄を設けて例示した点である。数学Iでは、概念を記号で表すこと、概念・法則などを拡張すること、演えき的な推論によって知識を体系だてること、対応関係・依存関係をとらえること、式や図形について不変性を見いだすこと、解析的方法と図形的方法の関連などがあげられ、数学Ⅱ・数学Ⅲでは、関数の大域的な性質や局所的な性質をとらえること、統計的な事象を量的にとらえること、極限によって量をとらえることが加えられている。中心概念は、実際の指導にあたって、それだけを特別に取り出して指導するのではなく、代数的内容と幾何的内容を中心として指導し、その中に適宜中心概念の指導を織り込んでいくべきものであり、それは機会あるごとに強調して指導することが必要であるとされている。
 〈数学教育の現代化運動と昭和三八年度の学習指導要領改訂〉 小・中学校において激しく論議されていた単元学習をめぐる混乱は、昭和三〇年ごろを境として一応終止符がうたれ、小・中学校の学習指導の方向は、しだいに系統学習を重視する方向に進んでいった。それは、次の科学技術教育振興の時代を迎えて急速に変化していったともみられる。昭和三二年(一九五六)九月ソ連の人工衛星打ち上げが成功し、アメリカでは各方面特に数学・理科教育への批判をひき起こし、科学技術の振興と科学技術の充実のための国家的対策がとられるようになり、これが翌年の国防教育法の成立につながっていったのである。しかし、全世界の数学教育界はすでに新しい数学教育をめざして数学教育の現代化運動を進めていた。それは、数学の研究の驚くべき進歩、産業機械のオートメーション化のための数学の必要性、電子計算機の発達などのため、学校数学を新しい考えで再整備する必要があった。このような情勢の中で、昭和三三年一〇月に、小・中学校の学習指導要領の改訂が基礎学力の充実と科学技術教育の向上を基本方針として行われたので、引き続いて高等学校の学習指導要領も数学教育現代化の観点から改訂しなければならなかったのである。
 昭和三八年度から学年進行で実施された学習指導要領の改訂は、同三五年三月の教育課程審議会の答申に基づいて六月に改訂草案が発表され、一〇月一五日に告示された。この教育課程の改訂は、小・中・高校の一貫性をもたせるとともに、同三一年度改訂の精神をいっそう徹底し、時代の進展に即応するようにすることをねらいとしている。数学の改訂については、基礎学力の向上と科学技術教育の充実という基本方針に基づいて、最近の科学技術や数学教育の進展に即応して、基本的な事項の学習に重点をおいて、学力の充実を図るため、指導内容の精選充実を図り、生徒の能力・適性・進路などに応じて教育を行うため、数学ⅡにA・Bの二科目を設け、そのいずれかを履修させるようにしたのである。
 高等学校の数学科は数学I・数学ⅡA・数学ⅡB・数学Ⅲ及び応用数学の五科目で組織され、その単位数はそれぞれ五・四・五・五・六となっている。しかし、昭和三一年度の単位数は、示されている一種類または二種類の単位数以外の単位数は認められないとする限定単位数であったのに対し、今回の改訂では、新しく標準単位という考えを用い、必要に応じその単位数を中心にして上下に幅を認めるということである。すべての生徒が履修しなければならない必修科目は、従前では数学Iの一科目だけであったが、今回は必修科目を二科目とし、数学Iをすべての生徒に履修させた後、原則として数学ⅡA・数学ⅡB・応用数学のうちいずれか一科目をすべての生徒に履修させることになった。このほか、小・中学校の算数数学科の指導内容に関連して、高等学校でも「集合の考え」がとり入れられ、まとめて指導しても他の内容と関連して指導してもよいことになったこと、前回には強調された中心概念が指導内容から除かれたこと、数学Ⅲの内容として平均値の定理・微分方程式が、また、応用数学の内容として行列式・画法幾何・球面三角法がとり入れられたことなどが大きな特徴である。
 〈昭和四八年度の学習指導要領改訂〉 昭和三八年度から実施された高等学校の学習指導要領は、その当初からベビーブームの影響で高等学校への進学率が急激に上昇し、学級増による施設の拡充、一学級あたりの生徒数の大幅な増加など、新教育課程を実施する上で多くの困難な問題をかかえていた。各学校においては、特に高校への進学者の増大に伴う能力差・学力差に対応する学習指導のおり方、高校教育に重大な影響を及ぼす大学入試の改善などの問題が注目されるようになり、高校の数学教育の動向か、内容についての吟味とともに、その内容を指導する方法の研究に向けられていった。
 昭和四八年度から学年進行で実施された高等学校学習指導要領は、同四四年九月の教育課程審議会の答申に基づいて改訂の作業に着手し、同四五年五月に草案を発表、一〇月一五日に告示された。高校への進学率が毎年上昇し、高等学校がこの年齢層の青少年の大部分を収容する教育機関となり、これに伴って能力・適性・進路なども著しく多様化していき、生徒ひとりひとりの可能性の開発に応じるためには、将来をも見通して教育課程を改善し、それを弾力的に編成する必要があった。また、数学そのものの進歩発展はもとより、科学技術の高度の発達、産業・経済・文化など社会各般の急激な進展、その中で果たしている数学の役割がますます増大しつつある実情に即応するためには、数学科の指導内容を現代化し、その質的な改善を図るとともに、基本的事項の精選集約を図る必要があったのである。
 数学科の改訂の要点は、まず数学科の目標が現行のものでは六項目が列記されているのに対し、「事象を数学的にとらえ、論理的に考え、統合的発展的に考察し、処理する能力と態度を育成し、また、社会において数学の果たす役割について認識させる」という数学科がねらう総括的な目標を前文として掲げ、続いて具体的な目標が五項目に分けて列記されていることである。また、生徒の能力・適性・進路などに応じて履修することができるようにするため、新しい科目として「数学一般」六単位を設け、数学Iの標準単位を五単位から六単位に改めたのである。新しく設けられた「数学一般」は、数学の履修を一科目で終わる場合を前提として設けたもので、内容は基本的事項について平易に構成するとともに、具体的な事象について、実験・実習などにより問題を体験的に考察させるようにしたものである。数学一般は数学Iとともにそのいずれか一方をすべての生徒が履修しなければならない必修科目としで位置づけられている。
 〈昭和五七年度の学習指導要領改訂〉 昭和五七年度から学年進行で実施された高等学校学習指導要領は、同五一年一二月の教育課程審議会の答申に基づいて改訂の作業に着手し、同五三年八月に告示された。これにより、高等学校教育の指針ともいうべき教育課程の基準が定まったのである。数学科における前回の改訂では「現代における数学の進展と社会で果たす数学の役割を考慮して、新しい観点から内容を質的に改善し、基本的な概念が十分理解され、数学的な見方や考え方がいっそう育成されるようにすること」をねらいとして、数学教育現代化の方向にそった考え方や内容を、小・中・高等学校にわたって大幅に取り入れた。これに対して、今回の改訂は 「小・中・高等学校相互の関連や児童生徒の発達段階を考慮し、内容の程度・分量および取り扱いがいっそう適切になるよう基本的な事項に精選する」という基本方針に基づき、教科・科目の目標や内容についての精選・集約や重点化を図った。したがって、今回の改訂は、これまでの実践や研究の成果をふまえて数学教育現代化の軌道修正を図り、より着実な現代化の推進をねらったものといえる。
 数学科の改訂の要点は、まず、数学科の目標が従前の総括的な目標と具体的な目標を集約し、教科・科目の中核的な目標を簡潔平明に示すようになったこと、また、科目の編成について、必修課目が従前の「数学一般」または「数学I」という二本立てになっていたのをやめて、新しい科目「数学I」を低学年において生徒全員が履修する基礎的・基本的な科目として設けたこと、選択科目については、従前の「数学I」・「数学ⅡB」・「数学Ⅲ」の各科目の内容を再編成して、「代数・幾何」・「基礎解析」・「微分・積分」及び「確率・統計」からなる領域別の選択科目を設けたこと、さらに、主として職業教育を主とする学科において履修させる科目として設けられていた従前の『応用数学』を廃止したことなどがあげられる。まさに画期的な改革であるといえるのである。
 新制高校発足以来の数次にわたる教育課程の変遷は、大綱的には、昭和二三年から同三〇年までの大幅な科目選択制が建て前とされた時期、昭和三一年から同四七年までの類型選択制と必修教科・科目の増加の時期、昭和四八年以降の能力・適性・進路などの多様化した生徒に対応するための教育課程編成の弾力化の時期の三つに分けてとらえることができるのである。

 高等学校教育研究会数学部会

〈高等学校数学研究会の独立〉 戦後六・三制の発足に伴って復活した愛媛県数学教育会は、小・中学校を主体として研究活動を進め、すぐれた成果をあげてきたが、高等学校については、組織的な研究にほとんど見るべきものもなく、積極的に各学校の交流を図る手だてもなかった。従って、県内の数学教育研究大会を開催しても、高校部会は研究授業を公開することぐらいがせいぜいで、日程の上からも全く小・中学校のお添えもののように扱われていたのが実情であった。
 昭和三一年度から学年進行で実施された高等学校学習指導要領によって数学科の教育課程が大幅に政訂され、数学科の科目が従前の解析I・解析Ⅱ・幾何・一般数学から新しく編成された数学I・数学Ⅱ・数学Ⅲ・応用数学に変わっただけでなく、これまでの科目の選択履修から、新しい科目の履修学年を指定し、設けられた類型を選択履修するように改められたので、各学校においては、各科目に新しくとり入れられた内容の研究をはじめとして、教育課程の編成や効果的な学習指導法についての研究など、新事態に対処して多くの重要な課題と取り組まねばならないことになったのである。
 このような情勢の中で始められた高等学校の東・中・南予の地区別数学教育研究会が、各学校の要請にこたえて年ごとに充実し、昭和三三年度から実施された数学科の研究指定校の研究成果と相まって、高等学校における研究活動が活発に行われるようになり、これを組織化・計画化して研究活動を推進する高等学校独自の組織を作ろうという気運がしだいに高まっていった。たまたま、昭和三四年六月に四国地区数学教育研究大会(四国各県回り持ち)が本県の西条市で開催されたが、これを機会に高等学校の研究活動の組織化が当面の課題となり、小・中学校との調整を図りながら検討が進められ、昭和三五年七月二九日愛媛県数学教育会から分離独立して愛媛県高等学校数学研究会示誕生した。この年の一〇月に昭和三八年度から学年進行で実施される高等学校学習指導要領が公示された。
 〈高等学校数学研究会の業績〉 高等学校数学研究会は、県教育委員会と緊密な提携のもとに、地区別研究会、研究指定校の発表会を含めて毎年二回の研究大会、夏季休業中の研修会などを開催し、その都度県内の大学の先生方や全国的に著名な数学者を招へいしてその指導を受けるとともに、各学校の研究成果を発表する機会をつくり、本県数学教育の充実進展に寄与する多彩な活動を続けてきた。また、大学入試問題集・就職問題集の編集や新入生テスト・診断テスト問題の作成などによって、学習指導の資料を提供する一方、他教科に先がけて数学コンテストを実施して、直接生徒の学習意欲高揚に努力し、短い期間に大きな足跡を残したのである。
 昭和三八年度から改訂された高等学校学習指導要領が実施され、基礎学力の向上と科学技術教育の充実という基本方針に基づいて、数学科の内容が精選充実され、現代化の観点から新しい事項が加えられたので、集合の考えの指導、ベクトルの取り扱い、大学入試問題の考察などが当面の課題として浮かび上がってきた。三八年一〇月松山市で開催された西日本数学教育研究大会(四国地区数学教育研究大会を拡大したもの)における高校部会の研究発表に、これらの問題が取り上げられている。
 この年から四国地区数学教育研究大会は、増加の一途をたどるいろいろな研究大会を整理するという立場から、隔年ごとに開催されることになった。
 昭和三八年一一月一八日愛媛県高等学校数学研究会は、他の各教科をはじめ定時制通信教育・視聴覚教育など一六に分立していた高等学校関係の研究団体と大同団結して、愛媛県高等学校教育研究会を結成し、その数学部会として新たな第一歩を踏み出すことになり、従来の研究活動を継続しながら部会としての責任を分担することになった。第一回の愛媛県高等学校教育研究大介が同年一二月二二、二三日の両日にわたって開催された。
 〈高等学校教育研究会数学部会の活動〉 高等学校教育研究会数学部会は、組織の拡充に伴い、従前の研究指定校の発表会や夏季研修会、東・中・南予支部ごとに開かれる研究会などが定着し、就職問題集の編集や診断テスト問題の作成、数学コンテストの実施などをとおして着実に成果をあげてきた。なお、昭和三九年度には、初めて職業科数学研究会を開催し、農業科・工業科・商業科における数学教育の問題点の究明に取り組み、職業科の数学研究委員会を常置することを決定した。また、従来数学部会から発刊していた数学研究会誌の外に、昭和三九年度の新事業として数学部会の研究成果や会員の研究論文などを収録する研究紀要を発刊することになった。
 昭和四〇年度には、数学部会の研究組織として教育課程研究委員会・和算研究委員会をおき、研究活動がさらに拡充されたが、独自に実施してきた夏季研修会は同じ時期に県教委の新任教員の研修会が全教科にわたって行われるようになったため中止された。また、昭和三八年度から実施された学習指導要領によって教育された生徒が大学に進学する年に当たり、大学入試問題の改善が全国的に重要な関心事となり、本県でも九月に県教委と共催で四国の各大学の先生方と大学入試懇談会を開き、除外範囲や新教材の取り扱い、入試問題の程度などについて大学側に要望した。
 昭和四一年度には、数学部会の機構改革が行われ、総務部・事業部・研究部のもとに事業や研究を推進するため各種の専門委員会が設けられ、研究部には職業科数学委員会・和算研究委員会・教育課程研究委員会がおかれた。大学入試懇談会は範囲を拡大して中国・四国の各大学の先生方と六月の数学部会の総会に合わせて開催された。また、高校進学者の急増に伴い、生徒の能力差・学力差による遅進生徒の指導対策として教科書傍用の最低基準を示す「数I基準問題集」の作成に着手し、翌年三月に初版を刊行した。定時制や能力の低い生徒の指導に利用され、著しい成果をあげたのである。夏季研修会は同年八月に松山東高等学校で実施された。
 昭和四〇年一〇月丸亀市で開催された四国地区数学教育研究大会の各県代表者会および全体会において、近く改訂を予定されている算数数学科の教育課程について各県の共同研究による四国案を作成することが議決された。爾来、二年間、前後五回にわたって高校数学科教育課程改訂四国案作成各県代表者会が開催され、四国案がまとめられたのである。改訂案作成の基本的な考え方は、今後の高校教育の多様化や高校進学者の増加に伴う能力差の拡大に即応して、それぞれの課程や学科の必要に応じて数学が履修できるように、科目の構成や指導内容の編成を考慮すること、数学教育現代化の名のもとにいたずらに程度の高い数学をとり入れてきたこれまでの流れを是正することなどにあった。この案は文部省の指導主事会議や日本数学教育会の教育課程研究委員会を通して中央に反映され、九州案などとともに昭和四五年の学習指導要領の改訂に有力な資料として活用された。
 高等学校の教育課程の実施に伴う指導上の問題点を研究討議し、その解明を図り、教職員の指導力の向上に資する目的で昭和三八年度から実施されてきた県教委主催の高等学校教育課程愛媛県研究集会・文部省主催の高等学校教育課程研究発表大会における研究成果をふまえて、昭和四二・四三年度には、数学部会の研究活動は、指導内容の研究とともに学習指導法の研究特に能力別指導や教育機器を使った学習指導の研究が取り上げられるようになった。同四三年六月に第一回中国・四国数学教育研究大会が倉敷市で開催された。この研究大会は、毎年、中国と四国とで交互に開催し、関係各県が指導助言者や研究発表者を開催県に派遣して互いに協力し、学習指導要領改訂の内容や学校現場の問題点を取り上げて研究討議を重ねてきた。
 昭和四三年度から従来行われてきた数学コンテストと研究紀要の刊行がとり止められた。
 これまで、教学部会の研究部には、教育課程研究委員会を置いていたが、同四四年度からこれに換えて学習指導法現代化研究委員会を設置した。また、同四五年度から新学習指導要領研究委員会を置き、新しい教育課程の研究体制を整えている。
 昭和四六年度には、数学部会は研究部に学習指導法現代化研究委員会・新学習指導要領研究委員会・職業科数学研究委員会の外に、新しく電子計算機研究委員会を設け、教育センターとも協力し、「手引き」の作成に向けて研究を始めている。同年八月二〇・二一の二日間にわたり、市民会館を全体会場、松山東高校を高校部会場として第四回中国四国数学教育研究大会が松山市で開催され、多数の参加者があり、大きな成果を収めた。
 同四八年八月徳島市で開催された第六回中国四国数学教育研究大会は全国数学研究大会を兼ねていたので、本県からの参加者は、他県に比べて多数に昇っただけでなく、各分科会で優れた研究成果を発表し、全国的にも高く評価されたものが多かった。
 小・中学校に引き続いて、同四八年度から高等学校の新しい学習指導要領が実施されたことに伴い、学習指導要領の実践的研究や学習指導法の研究を進めるうえからも、小・中・高等学校の一貫性を図り、学校種別間の連携を深める必要性が高まり、同四九年度には、中学校・高等学校数学科連絡研究協議会が高等学校教育研究会数学部会と愛媛県教育研究協議会数学委員会の主催により、松山市教育委員会の共催の下に、同五〇年二月に松山北高等学校で開催された。この数学科連絡研究協議会は、毎年、高等学校側と小・中学校側を交互に会場として開催され、昭和五〇年度は同年一二月に勝山中学校で、同五一年度は同年一一月に松山南高等学校で、同五三年度は同年一一月に余上小学校で、同五三年度は同年一一月に松山西高等学校で開催されている。
 昭和五〇年度は、高等学校における現行の学習指導要領が実施されてから三年を経過し、その完成年度に当たる。高校への進学率の上昇による能力適性の多様化に伴い、学習不適応を示す生徒が急激に増加し、この学習上の消化不良を起こしている生徒の指導対策が各学校の問題になってきた。数学部会では、学校現場の要望により昭和四七年度から刊行を中断していた「数I基準問題集」を復活し、新しい学習指導要領に準拠した「数I基準問題集」の新訂版を作成した。昭和五一年度以降もその刊行を継続し、遅進生徒の指導対策の研究に努めた。
 昭和五四年度には、第一二回中国四国数学教育研究大会が同年一〇月二五・二六に二日間にわたり松山市で開催され、市民会館を全体会場松山北高校を高校部会場として、中国四国各県だけでなく、九州近畿地区からも多くの参加者があり、本県の数学部会の研究体制や研究成果が関係各県の注目するところとなった。
 昭和三八年度から実施された学習指導要領以来、科学技術の高度な発達や社会全般の急激な進展に即応し、科学技術教育の充実という基本方針に基づいて学習指導要領が改訂され、各教科の指導内容の質的な改善と充実が図られてきた。県教育委員会においては、昭和四五年度から科学技術教育研究指定校を置き、その翌年度に研究成果を発表させてきたが、同五〇年度以降はその年度内に成果の発表をさせている。
 科学技術教育(数学)研究指定校は次のとおりである。( )内は発表年度である。
  小松高等学校(昭和四六年度)  東温高等学校(同四七年度)     宇和島南高等学(同四八年度)
  今治西高等学校(同四九年度)  新居浜東高等学校(同五〇年度)  松山北高等学校(同五一年度)
  大洲高等学校(同五二年度)   土居高等学校(同五三年度)    長浜高等学校(同五四年度)
  野村高等学校(同五五年度)   今治北高等学校(同五八年度)   新居浜南高等学校(同六〇年度)

表2-35 歴代愛数教会長(部長、委員長)と義務教育課指導主事

表2-35 歴代愛数教会長(部長、委員長)と義務教育課指導主事


表2-36 歴代愛媛県高等学校数学研究会・高教研数学部会会長

表2-36 歴代愛媛県高等学校数学研究会・高教研数学部会会長