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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 初等教育

 戦前の歴史教育

 明治五年、「学制」が公布され、わが国の近代学校制度の基礎ができあがり、同年九月「小学校則」が制定され、小学校の授業内容が示された。教材としては、明治初期には、『日本外史』や、『皇朝史略』など江戸時代の歴史書の翻刻本が読み物として用いられ、漢文からかな交り文の歴史教科書が現われた。内容はやさしく簡単平易なものであり、皇室関係のことすら敬語を略していたものである。
 明治一四年の「小学校教則綱領」、同二〇年の「小学校歴史編纂旨意書」を通じて歴史教育のねらいを考えてみれば、「忠君愛国の志気を奮起し」とか「徳性を涵養」することが目的とされており、教育勅語発布の前後の文教政策の意図をうかがい知ることができる。
 明治二三年の小学校令では、その小学校教則大綱に、「日本歴史ハ本邦国体ノ大要ヲ知ラシメテ国民タルノ志操ヲ養フヲ以テ要旨トス」と述べ、国家主義的色彩は極めて強い。明治の終わりから大正・昭和の初期にかけてこの傾向は更に強まり、国体についての思想を教えること、忠君愛国の考えを児童にもたせることが教科書の内容として加えられていった。このことは、日清・日露の両戦役、及び第一次世界大戦の勝利による国威の発揚として時代の要請によるものであろう。
 第二次世界大戦に入ってからは、大東亜共栄圏、天皇への忠誠、生命を国のために捧げる考え方が強く指導される歴史教育となっていったのである。
 その間、郷土に関する史談も多く発行され、明治三〇年『愛媛県史談』も出版された。

 戦前の地理教育

 地理教育については、そのねらいを「地理ハ地球ノ表面及人類生活ノ状態二関スル知識ノ一斑ヲ得シメ又本邦国勢ノ大要ヲ理会セシメ兼テ愛国心ノ養成二資スルヲ以テ要旨トス」と小学校令施行規則に述べている。
 また、明治一四年の「小学校教則綱領」では、その内容に、「学校近傍ノ地形」から出発した地理指導が要求され、このため郷土の地理を取り扱った地方地誌が多く出版されるようになった。
 教科書は明治初期から多数の地理教科書が出版され、地誌を主とした日本地理書・外国地理書が使用された。
 教授の方法については、「地理ヲ授クルニハ実地ノ観察二基キ又地球儀地図写真等ヲ示シ児童ノ熟知セル事物二依リ比較類推セシメテ確実ナル知識ヲ得シメ又常二歴史上ノ事実二連絡セシメソコトヲ要ス」と示しており、地理学習の本筋を行く適格な指導法を明示している。後には歴史のみならず、理科との関連も重視するようになってきた。
 昭和一六年、国民学校の発足とともに地理は「国民科」の一科目となり、「国民科地理」となった。「国民学校令施行規則」には、「国民科地理」について、「国民科地理ハ我が国土国勢及諸外国ノ情勢二付テ其ノ大要ヲ会得セシメ国土受護ノ精神ヲ養ヒ東亜及世界二於ケル皇国ノ使命ヲ自覚セシムルモノトス」と定めており、これまか歴史教育と同様に国家主義的性格の極めて濃厚な授業が要求されるに至った。

 戦前の修身教育

 修身については、明治初期には「修身」という教科は確立されてなく、道徳上の基本原理を説いたり、倫理学の初歩にあたる部分を「読み物」の内容として指導にあたっている程度であったが、明治一〇年代になると欧米思想を排して、東洋道徳を中心とするわが国固有の道徳を重視する復古的傾向が強まった。
 明治二四年の「小学校教則大綱」によれば、修身のねらいを「修身ハ教育二関スル勅語ノ趣旨二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其道徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と述べており、この考えはその後、第二次世界大戦で、日本が敗戦するまで我が国教育のバックボーンとして継承されていったのである。

 明治の教科書

 宇和町の開明学校をはじめ県内各地で使用された歴史・地理及び修身の教科書(現存するもの)は次のようなものである。

〈歴史〉               〈地理〉               〈修身〉
官版『史略』 (明治五年)      『地理初歩』  (明治六年)     『勧善訓蒙』 (明治四年)
「日本略史」 (明治八年)      『日本地誌略』 (明治七年)     『小学修身書』 (明治一四年)
『萬国史略』 (明治七年)      『萬国地誌略』 (明治七年)     『女徳宝鑑』  (明治二六年)
『国史略』  (明治八年)      『日本地誌要略』 (明治九年)    『修身教範』  (明治二七年)
『新撰小学歴史』 (明治二一年)   『小学校用地誌』 (明治二〇年)   『国民修身書』 (明治二三年)
『帝国小史』 (明治二五年)     『萬国地理初歩』 (明治二六年)   『修身教典』 (明治二七年)
『日本小歴史初歩』 (明治二七年)  『日本地理初歩』 (明治二六年)   『中等倫理書』 (明治三四年)
『愛媛県史談』 (明治二九年)    『日本地理』 (明治二七年)     『小学修身口授書』 (明治一六年)
『小学国史』 (明治三三年)     『伊予国小地誌』 (明治二八年)   『国民眼』  (明治二四年)
                   『愛媛県地理歴史』 (明治三五年)

 社会科の誕生とその変遷

 昭和二二年三月に学習指導要綱一般編(試案)が発表され、続いて同年五月社会科編(Ⅰ)(試案)が示されることによって社会科は発足した。
 社会科は、戦後の新しい教科として、昭和二二年九月から授業が開始されたのである。従来の修身・公民・地理・歴史などの教科の内容を統合したものと考えられるのである。そして、教科の任務は「青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成すること」と示された。
 アメリカのコース・オブ・スタディを参考にして作られたものであり、新しい教科として耳慣れない用語がつぎつぎ紹介されたりしたこともあって、教育現場では、数多くの疑問やとまどいが生じた。
 当時の社会科は、教師が地域の状況や児童の実態に応じて作業単元を構成し、それに基づいて授業を展開するものとされ、その作業単元の構成や展開の仕方をどのようにすればよいかに教育現場の苦心があった。
 翌二三年九月に、小学校社会科学習指導要領補説が出され、作業単元をめぐる現場の疑問に対し、主題設定の参考例を示し、暗中模索を続ける社会科に一つのより所を示した。
 昭和二六年七月、学習指導要領一般編(試案)および小学校学習指導要領社会科編(試案)が出され、同二二年版のものの改訂となったのである。しかし、これは基本的には二二年版と変わりはなかった。
 同二二年版は、児童・生徒の関心と主要な社会諸機能を組み合わせて単元を構成し、経験学習・生活学習として学ばせ、社会生活の経験から、学びとれる能力、学びとろうとする態度を育てることを目指す、いわば態度重視の学力観に立脚したものであった。従って社会科では教材は固定せず、地域社会及び子供の実態に立ってということが中心となるため、実態調査が重視され、当時の社会科学習の流行にすらなっていったのである。
 同二六年版は、子供たちが、その生活において直面している問題を取り上げ、その解決を図る過程において、さまざまな知識や経験が必要になってくることを重視し、その場面が教材であり、問題を解決しようという努力が学習活動であると提示している。それらの学習を通して再構成された知識や経験の統一体が理解であるという考え方に立っている。このため、前記の調査活動や、ごっこ学習が各地で展開されたが、ここでも、子供たちが生活の中で直面している問題とは、① 日常生活的な問題なのか、② 日常の基盤にある根本問題なのか、③ それとも、かれらの抱いている知的な疑問なのか、という壁に当たり、それを解決するためにはどのような素材が選定されるべきか、その問題を解決することは、子供たちにどのような社会の認識を成立させることになるのか、その認識を発展させるためにはどのような能力を用意すればよいかというような論議を呼び起こした。
 これは、同二二年版が態度重視の学力観に立っていたのに対し、問題解決の過程を重視し、問題解決に必要な能力を重視する学力観にその焦点があったようである。
 〈昭和三〇年学習指導要領の改訂〉
 昭和三〇年一二月、学習指導要領社会科編が、従来の試案という文字を削除して発行された。
 この改訂の要点は、目標および内容の小・中一貫を図ることとともに、社会科における道徳的指導、あるいは地理・歴史・政治・経済・社会等の分野についての学習が各学年を通して系統的に行われるよう目標を具体化したことにある。
 当時、教育現場では、従来の知識よりも、知識の獲得過程、獲得方法の重視により、知識に対する極端なべっ視の傾向を生み、基礎学力、内容の系統性を重視する考え方と対立した議論がさかんに行われた。
 「はい回る社会科」という批判もおこり、問題解決学習か、系統学習かの真剣な論争がおこったのである。
 これらに対し、同三〇年版ではやや系統学習に傾斜した方向を打ち出したものとも言える。
 〈昭和三三年改訂学習指導要領〉
 昭和三三年一〇月、第三回目の全面改訂による学習要領が告示され、同三六年度から実施されることになった。
 従来、道徳的指導は社会科の内容として、主要な役割をもっていたが、昭和三三年に「道徳」が特設され、一応の分離が図られた。改訂の要旨には次のように述べられている。
 「歴史や地理教育の改善充実に努めた。道徳の時間特設に伴い、習慣形成のようなものはそれに譲って、公民的なもの、地理的なもの、歴史的なもの、こういうように内容を精選し、発展的系統的に学習の効果をあげるようにした。特に、地理・歴史教育については六学年までに、日本の地理と歴史の概観が把握できるようにした。」
 ここでは、発達段階に即応し、内容の配列を発展的に、系統性を強化し、発展性と系統性のつみ上げを考えて、従来の生活学習、経験学習のむだを省き、中学校では分野別学習を明確化し、学年配当を明示するに至ったのである。
 〈昭和四三年改訂学習指導要領〉
 続いて同四三年には第四回の改訂が行われ、基本的事項の精選と能力の育成を眼目とし、新たに「社会の成員として必要な公民的資質の基礎を養う」ことが明示された。
 この背景には、政治的・経済的な大きな変化があり、国民総生産(GNP)の世界第三位、経済の高度成長、ソ連の人工衛星打ち上げ成功等、急激な変化に対応する教育界への期待が、教育改革や教育の現代化を要求する声になっていったことがあげられる。
 教育課程審議会は、昭和四二年最終答申を発表し、その中で、社会科については、教科の目標に続いて特に「内容の精選」の項をおこし「基本的事項を精選するとともに」「精選に当たっては、時代とともに変化し複雑化する社会環境のなかで、社会についての基本的なこと、がらを考えたり、理解したりする場合に必要な能力(例えば、観察したことを適切に整理し、秩序だてて考えたり表現したりする力など)の育成を特に重視する」と述べて改訂の趣旨をうち出している。本県においては、すでに同三八年ごろより文部省山口康助や県教育委員会指導主事の指導によって内容の構造化が進められていた。
 学習指導要領では、これをうけて、教科の目標の四で、「社会生活を正しく理解するための基礎的資料を活用する能力や社会事象を観察したり、その意味について考える能力をのばし、正しい社会的判断力の基礎を養う」とうたったのである。
 また、各学年の目標にも、内容に即してより具体的な能力目標を掲げた。
 この新学習指導要領は、同四六年度から完全実施されることになったが、各学年の内容にかなりの変化がみられた。五年生では各種産業の網羅的な扱いをやめ、いわゆる「産業社会」の特色理解に視点が絞られ、経済の高度成長に合わせて教材の現代化が図られたのである。
 六年生の歴史では、人物、代表的な文化遺産、物語・伝承の活用がうたわれて神話が登場するとか、地理では羅列的な国づくしではなく、気候条件からみて特色のある世界諸地域の人々のくらしの様子を具体的に理解することに改められた。
 〈昭和五二年学習指導要領〉
 昭和五二年七月、約一〇年ぶりに改訂された学習指導要領が告示された。第五回目の改訂である。
 昭和五一年一二月に発表された教育課程の基準の改善に関する最終答申に基づいて、学校教育法施行規則も一部改正せられ、社会科では、四、五、六学年の年間標準授業時数がそれぞれ一四〇時間から一〇五時間に減り週当たり四時間の授業時数は三時間になった。
 これは、教育課程審議会の答申にうたわれた。ゆとりと充実″をめざしての精選によるもので、内容的にもかなり大幅な改訂となった。
 特に小学校中・高学年では、思いきった内容の整理・統合による精選が図られ、すっきりしたとか、あまりにも簡略化されすぎるとかの論議をよんだ。
 中学年の三学年では、市(町村)の学習から、四学年の県(都道府)という同心円的拡大の学習と順序を改め中学年を通して、市(町村)や県(都道府)を関連的に扱うこととされた。
 高学年では産業学習を綱羅的に扱うのでなく、食料生産と工業生産に絞って、そのさかんな地域の具体事例で扱い、新たに伝統工業を取り上げることになった。
 六学年では、人物や文化遺産を中心とした歴史が強調された。とくに神話・伝承が重視される扱いになっている。
 以上、五回にわたる学習指導要領の変遷を通して、新しく誕生した社会科の性格や使命を概観してきた。学習指導要領といっても、主として小学校の学習指導要領社会科編をみてきた訳であるが、中学校も一年遅れの実施であり、本質的には小学校と大きな相違はない。
 ただ、昭和三三年度の改訂から、地理的分野は第一学年、歴史的分野は第二学年、政経社分野は第三学年で学習するものとされ、いわゆる〝ざぶとん型″の学習が原則とされた。
 しかし、昭和四四年度の改訂では、教科の基本的性格および分野のねらいの明確化に重点がおかれることになり、「広い視野に立って、わが国土に対する認識とわが国の歴史に対する正しい理解を深め、その基礎の上に、わが国の公民としての基礎的教養をつちかうとともに……」(教科目標一)と示され、従来の政経社分野は公民分野と改称された。
 また分野の学年配当は、一・二学年を通じて地理的分野、および歴史的分野を並行して学習させ、三学年において歴史的分野および公民分野を学習させるという、いわゆる兀型学習が原則とされた。更に、同五二年の改訂によって、分野の学年配当は、一・二学年の地理、歴史並行学習をふまえ、三学年は公民的分野のみを扱うものとされ、分野の学年配当は完全に〝兀型〟となり、それが原則とされることになった。
 このことも、〝ざぶとん型〟〝兀型〟のいずれが是か、非かで、中学校現場では長く論議をされることになった。
 文部省から告示される学習指導要領が法的根拠をもつ基準性の強いものであるが故に、学習指導要領の改訂のたびごとに、教育現場へは大きな影響を与えていった。
 戦後、新しく誕生した社会科も、四〇年近い歴史を経たことにより伝統的な教科と比肩される位置を占めることができるようになった。もちろん、文部省の適切な指導と民間研究団体の熱心な研究の積み重ねによることは言うまでもない。
 改訂のたびごとに大きく揺れ動いた社会科の基本的性格も、定着し、学校教育の教育課程の中で、豊かな人間形成の一翼を担うまでに成長していったことを喜ばずにはいられない。

 県行政の対応

 昭和二〇年九月に文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、戦時色を払拭して正常な教育に復帰させる努力を傾けたが、他方、連合軍総司令部の指令により、修身・歴史・地理の授業は停止された。
 地理は昭和二一年六月に、歴史は同年一〇月にそれぞれ授業再開の許可があったが、修身はついに停止のままであった。同年九月から公民科が実施され、道徳教育は公民科を中心として実施されることになった。
 昭和二二年五月「学校教育法施行規則(文部省令第一一号)で小学校の教科の中に社会科が加えられ、(第二四条)中学校では必修教科の中に社会科がとり上げられ(第五四条)ここに新しい教科として社会科が誕生したのである。
 社会科の誕生にともなう種々の問題点は前記学習指導要領の変遷の中で述べたが、県内でもこの新教科の実施については論議をよんだ。とくにアメリカ新教育の影響もあって、さまざまな地域プランが発表され、コア・カリキュラムの運動にともなって、愛媛県下でも、これらの研究が実験学校を中心に試みられた。
 社会科発足当時、愛媛県学校教育課指導主事であった曽我静雄は次のように語っている。
 「まだ指導要領もない時の文部省の指導方針は、私の手元に残るノートによると、『社会科は、教師が教え込み、生徒がこれを学ぶ教育ではない。子どもの能力の発達に即して教えるのが教師の仕事である。すなわち、子どもを生活上の諸問題に直面させて、これを解決するための学習である。
 教科書があるから学校があるのではなく、教科書がなくても、子どもの生活はあるのである。教科書による画一主義を一擲して、その地域社会の独自性を生かして、人間生活の基本的側面、すなわち、自然環境への適応、他人に対する社会的関係への適応、この関係を調整するための諸制度、市民としての必要な態度・資質・能力を発展させるのが社会科のねらいである』とある。この意味において、附属校はモデルスクールではなくなり、各地域で実験的研究を発表しあうための実験学校が設定された。
 本県の社会科教師は、試行錯誤の失敗もあったけど、各地で自分の力を存分に発揮して活気に満ちていた」
 なお、教育委員会の発足とともに文部省の教育内容の改訂に伴って学校指導がなされ、学校指導の重点目標が提示され、指導主事・補導主事が、学校現場の直接指導の任務を負った。限られた人数であったが新しい教科、社会科についての伝達講習は盛況を極め、それだけ新教科に対する関心は高かったと言えるのである。

 愛媛県社会科教育研究会

 愛媛県で、戦後社会科の発足を契機に研究会を結成しようとする動きがでたのは、昭和二五年ごろからである。それは、かねがね問題をもち悩みをもち続けて研究を交流しようとする現場教師の切ない要求でもあったのである。
 昭和二六年二月三日、松山市立味生小学を会場とし、奈良女高師教授重松鷹泰(後に社会科学習指導要領の作成に当たる)を講師として社会科教育研究会が開催された。この研究会が大きな契機となり、松山市内の小・中学校社会科教師の有志が中心となって県内各地の有志に働きかけ、昭和二七年一一月八日、愛媛県社会科教育研究会がようやく発足するに至った。第一代会長は愛媛大学教授村上節太郎であり、宮本七郎・曽我静雄と続いた。ほぼ揆を一にして、四国四県の社会科研究会が発足し、昭和二七年、香川県で、第一回の西日本社会科教育研究大会を開催した。続いて、翌二八年に徳島県で第二回、更に翌二九年には高知県で第三回の西日本社会科教育研究大会を開催している。西日本とは言え、広く日本国内にも呼びかけ、多数の同好の志を集めて、熱心に研究を進めていった。この西日本大会は、四国四県が中心で、中国・九州・近畿地方へ呼びかけたが、あくまでも主体的な会運営は四国四県社会科連絡協議会がイニシヤティブをとったのである。
 毎年一回、四国四県の持ち回りで開催し、つみ上げ方式の極めて斬新なものであった。
 昭和二九年の高知大会では、「日本の歴史的現実に立ち向かう社会科教育のあり方」という大会主題を掲げ、「単元学習」「地理教育」「歴史教育」「道徳教育」の四部門、小中学校別八分科会に別れて研究を進めたのである。形の上からもようやく整いを見せ、実質的な研究協議がなされたのも、この大会の特色である。
 昭和三〇年、第四回の西日本社会科教育研究大会を松山市立番町小学校で開催することになり、実質的には、愛媛県における社会科研究会の第一回の大会となった。大会主題は「日本教育の焦点に立つ社会科の使命とその具体的展開―改訂社会科の問題点と学習指導のあり方ー」とし、九つのテーマを掲げて研究を行った。県内では初めてのこの大会に対して、県教育委員会地方教育委員会はもちろん、教育研究所、主任会等、組織をあげて事前の研究にあたり、各郡市からの研究発表者、当日の公開指導の授業者がたびたびの会合をもって共同研究としての成果を発表した。講師として文部省の教科調査官、中央の大学教授を招き指導を受けた。当日の四年「伊予ぶすり」の授業展開(三神晴子)は、文部省発行の『初等教育指導事例集Ⅳ社会科編』に掲載されている。
 その後、昭和三六年、愛媛県教育研究協議会の発足をみ、社会科教育研究会(愛社研)との合併吸収が問題となり、幾多の曲折はあったが、他の教科と足並みをそろえ、昭和三九年、愛媛県教育研究協議会(愛教研)の社会科委員会として再発足をしたのである。
 西日本大会は昭和三三年高知大会から、全国大会と呼称を改め、広く全国各地へ呼びかけて、全国規模での研究大会に変ぼう発展をとげたのである。
 愛媛県では、昭和三〇年の第四回、同三四年の第八回、同三八年の第一二回、同四二年の第一六回と受け持ち、四年に一度の大会を開催してきたが、財政上の理由や、研究期間の短いこともあって、二年に一度の開催とし、八年サイクルで当番を担当することに改められ、昭和四九年、松山市で第二〇回の記念大会を持つに至った。
 愛媛県における社会科研究の足どりを表に示すと次のとおりである。
 以上は、愛媛県社会科教育研究会が発足以来の研究会の足どりである。昭和三六年度より、愛媛県教育研究協議会の研究大会に合流し、研究を継続発展させてきた。特記すべきこととしては、愛媛県においては、西日本大会、全国大会をとわず、愛媛県高等学校教育研究会社会部会と共同歩調をとり、高等学校も研究大会に参加していることである。小・中・高等学校の一貫教育の必要が叫ばれている中で、いちはやく共同して研究会をもったことは大変に意義深いことである。
 特に、前表末尾に掲載した第二十回全国大会・愛媛大会は、まさに「愛媛社会科一家」が総力を傾けて取り組んだ大会であり、公開授業・研究発表が永年にわたる共同研究の成果をふまえた上に成りたっている点、全国の社会科教師に大きな感銘を与えた。古照遺跡のカラー写真を表紙とした大会要項と、「社会科教育」三九号の大会記念集録は、大会の成果を集大成したものであり、今後、永く、愛媛の社会科の記念碑となるであろう。
 昭和四九年をさかいに、愛媛県の教育研究のあり方も大きな転機を迎えるに至った。「豊かな人間性を育てる教育」をいっそう推進するため、従来の、教科偏重の研究から脱し、調和的人間形成を求める実践研究主題を設定し研究をすすめた。いわゆる教科別の研究大会、分科会がなくなったのである。しかし、このことは教科の研究の必要性を滅却したものでなく、教科の研究と実践研究主題の研究との調和をどう図っていくかの新たな課題を生みだしていったのである。
   〈参考〉 豊かな人間性を育てる教育
   実践研究主題
    一、自ら学ぶ力を育てる教育
    二、たくましい実践力を育てる教育
    三、豊かな情操を育てる教育
    四、連帯意識を育てる教育
 その後、社会科教育の研究大会はもたれなかったが、社会科委員会は毎年研究主題を設定し、県内各地の郡市支部へ流して、研究を浸透させていった。
 以下、年次を追って研究主題を示しておこう。

 昭和五〇年 一人一人を生かし、自ら学ぶ力を育てる学習指導
       ー価値ある目標の設定と教材の精選ー
       ー問題追求の意識を高める教材の構成ー
 昭和五一年 社会認識を深める教材の精選と教材の構成はいかにあるべきか
 昭和五二年 人間を見つめる社会科学習
 昭和五三年 人間を見つめる社会科学習
 昭和五四年 人間を見つめる社会科学習(第三年次)
       ー教材の精選と構成ー
 昭和五五年 地域に根ざした社会科学習
       ー地域理解を基盤とする学習をめざしてー
 昭和五六年 地域に根ざした社会科学習(第二年次)
       ー地域理解を基盤とする学習をめざしてー
 昭和五七年 地域に根ざした社会科学習(第三年次)
       ー地域理解を基盤とする学習をめざしてー
       第二十四回四国社会科研究大会(愛媛大会)が松山市立生石小学校・松山市立津田中学校を会場に開催さ
       れた。大会名称も、西日本大会から全国大会へ、また四国大会へと変化していった。
 昭和五八年 個に生きる確かな学習の成立(第一年次)
       ー学習問題の設定と問題意識の発展をいかに図ればよいかー
 昭和五九年 個に生きる確かな学習の成立(第二年次)
        ー学習問題を追求し、問題意識を発展させるにはどうすればよいかー
  昭和六〇年 個に生きる確かな学習の成立(第三年次)
        ー学習問題を追及し、個の問題意識を発表させる学習活動はいかにあればよいかー
 各学校において研究した主題を、県内大会をもって発表公開する機会はなくなったが、昭和三八年から毎年実施をしてきた夏期合宿研究会において、その研究の深化拡充を図って昭和六〇年第二三回を迎えるに至った。当初、夏期合宿研究会は、その年に開催される研究大会の事前研究的な性格を持ち、その年度に策定された研究主題の解説や、研究方向を検討するねらいで始められたものであるが、昭和五〇年以降は、夏期研究会が唯一の社会科研究同志が一堂に会する場となったのである。
 次にその会の会場を示して、足どりをたどってみよう。
昭和三八年 第一回夏季合宿研究会  松山市立湯山小学校
 〃三九年 第二回   〃     宇和島市立天神小学校・清渓中学校
 〃四〇年 第三回   〃     温泉郡重信町立北吉井小学校
 〃四一年 第四回   〃     今治市立美須賀小学校
昭和四二年 第五回夏季合宿研究会  愛媛大学教育学部附属小学校
 〃四三年 第六回  〃      松山市立桑原小学校
 〃四四年 第七回  〃      伊予三島市立中曽根小学校・南中学校
 〃四五年 第八回  〃      宇和島市立明倫小学校
 〃四六年 第九回  〃      上浮穴郡美川村立美川西小学校・美川中央中学校・久万町立久万中学校
 〃四七年 第一〇回 〃      東予市立東中学校
 〃四八年 第一一回 〃      西宇和郡保内町立川之石小学校
 〃四九年 第一二回 〃      松山市立湯築小学校
 〃五〇年 第一三回 〃      越智郡大三島町立宮浦小学校
 〃五一年 第一四回 〃      宇和島市立和霊小学校
 〃五二年 第一五回 〃      上浮穴郡久万町立久万小学校
 〃五三年 第一六回 〃      西条市立南中学校
 〃五四年 第一七回 〃      東宇和郡宇和町立石城小学校・宇和中学校
 〃五五年 第一八回 〃      松山市立清水小学校
 〃五六年 第一九回 〃      越智郡菊間町立菊間小学校
 〃五七年 第二〇回 〃      松山市立生石小学校・津田中学校
 〃五八年 第二一回 〃      南宇和郡御荘町立平城小学校
 〃五九年 第二二回 〃      川之江市文化センター
 〃六〇年 第二三回 〃      大洲市立大洲小学校

 資料作成の活動

 社会科研究に欠かすことのできないものの一つに資料がある。資料と一口に言っても多種多様な資料が存在する。ここでは主として文書による教材を中心に述べていきたい。
 〈『社会科教育』(社会科研究会機関誌)〉
 前記の愛媛県社会科研究会が発足すると同時に機関誌として『社会科教育』が刊行され、昭和六〇年で発行号数は四九号を数えている。昭和三九年以後は愛媛県教育研究協議会社会科委員会に引き継がれ、今日に及んでいる。その間、年二回の発行が、年一回と変わりながらも、誌面の充実等を図り、社会科研究の貴重な研究資料としての命脈を保っている。内容には、論文・テーマ解説・実践報告・図書紹介等々、多彩な内容で、県下の社会科研究方向の重要な指針ともなっている。第五〇号は記念号として愛社研草創の記として発刊される。
 〈『しゃかいか研究』〉
 昭和四四年に創刊してより同六〇年一〇月までに六三号を数えている。これは、県内社会科教育の動きをいち速く現場教師に知らせたいための速報と言える。年四回の発刊で、「今年度の研究方向」「実践例」「夏期研修の成果」「年度の成果と来年度の展望」を順次現場教師に届けている。
 〈『愛媛のくらし』〉
 『愛媛のくらし』は、昭和三〇年度から小学校四年生の社会科副読本として、毎年改訂を重ね、同六〇年度用で実に二九訂版となる。この間、『愛媛のくらし』は、四年生の社会科学習に必要な副読本として編集され、県下の全小学校で採用され大きな成果をあげている。編集は学習指導要領に沿って、愛媛県の各地域の典型教材を選んで構成され、取り上げた事例の協力的活動や計画的活動が県内でどう行われているか、愛媛県全体への広がりを図るなど工夫がなされている。また愛媛県を認識する基本資料として、自然・人口・交通・商業のようすなどの統計・グラフ・分布図等を内容とした資料編をとり入れている。(A5判 一四〇頁)
 〈教材資料〉
 愛媛県社会科教育研究会編集の教材資料は数多くあり、その中には絶版になったものを含め、一〇種類余にのぼる。『愛媛県社会科図集』(掛図)・「地方史年表」をはじめ、日本・世界の白地図、小・中学校社会科学習帳、教室常掲用歴史年表、小学校三年社会科児童用副読本『わたしたちの愛媛県』、社会科診断テスト、実力テスト、TPの製作等、教育現場の教師用または児童・生徒用として、学習効果を高めるのに大きな役割を果たしている。
 〈小学校三・四年用社会科副読本〉
 小学校中学年の社会科は、地域学習が中心になっているので、愛媛県では、それぞれの地域の教材を児童用にして発刊しているものが、ずいぶん多くなってきた。表2ー16をみるとそれがよくわかる。

 行政と教育現場の一体

社会科は昭和二二年の学習指導要領社会科編(試案)に初めて登場した教科である。当初その性格をめぐって種々のとまどいや困惑にさいなまれてきたが、たびたびの指導要領の改訂とともに、県教育委員会の適切な指導と熱心な現場教師の研究実践によって、次第に伝統的教科大肩をならべる位置を占めるようになってきた。
 特に、本県社会科教育の進展は、早くから教育委員会と現場教師とが一体となり、研究を推進した結果によるところ極めて大である。ここでは、県教育委員会発刊の「指導資料」の一部を掲げておくだけにとどめる。
  ○『学習指導上の留意点』(小学校 社会)(中学校 社会)
  ○『郷土教育資料』(第一巻・第二巻・第六巻)
  ○『義務教育の指導指針』(小学校)(中学校)
  ○『指導内容の系統性と構造性』
  ○『自主創造の教育と具体的展開(考える学習の指導)』
  ○『自主創造の実践(ひとりひとりを生かす指導)』
  ○『個人記録票の活用』(小学校)(中学校)
  ○『社会科年間指導計画例』(小学校)

 文部省発行の『中学校指導書「社会編」(昭和四五年)』の中にある「評価の観点」は、本県の個人記録票の「記録上の観点」を参考にしているようである。
 これらの「指導資料」は、すべて現場教師の協力によって作りあげられたものである。

表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり1

表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり1


表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり2

表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり2


表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり3

表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり3


表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり4

表2-15 愛媛県社会科の研究の足どり4


表2-16 小学校3・4年用社会科副読本

表2-16 小学校3・4年用社会科副読本