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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 大正期から昭和戦前期の書道教育

 小学校の習字教育

 大正期は日本的なものの形態と内容を消化し、これを展開させた時期といえる。第一次世界大戦による社会の変化に対応して、学校教育においてもこれを改革しようとする思潮の激しい時期であった。国語の一環としての習字教育もこうした影響を受け、次のような論議が起きている。すなわち、漢字を廃止して仮名専用にする論である。これは、日本文学の学習負担が多すぎるという面からの論議である。さらには表記に際してのローマ字採用論さえ出されている。したがって書写書道においても、その芸術面を鑑賞するという余裕が失われ、日常生活に役立てば事足りるとする見解も現れた。そして、毛筆はすでに時代に適さず、ペンや鉛筆で書くことこそ現代的であるとするもので、当時の文相中橋徳五郎もこの持論であったといわれる。
 大正七年(一九一六)より同一二年にわたり、新たに『尋常小学国語書き方手本』が完成した。この手本の特徴としては、文字の筆法の系統に着眼し、これを固守したところにある。例えば、第一学年用の新手本に、「ノメクタ」と斜画字を列挙し、筆づかいや文字形態の書法を重視したことにある。これは技能教育に偏し、無意味な文字の羅列となり、児童の学習意欲をそこねる結果となった。
 こうした国定教科書に対する批判は昭和期に入って、近代芸術としての地位をめざす書道会等の動勢から、手本内容改善の要求となって現れた。そこで文部省はこれの改訂に着手、昭和八年以来、新しい筆者(甲種 鈴木翠軒、乙種 高塚竹堂)による画期的な手本を発行し、同一三年その完成を見た。(国定制度第四期本)これら新手本編集の要旨は次のとおりである。①趣味的編成に重点をおく。②児童の生活環境に即した教材配列、③書写能力の本質的陶冶をはかる大字精習主義。④毛筆書写に便利で、芸術的に品性を保つ書写体(筆写体)の採用、⑤書道史の理解、書芸の趣味、鑑賞眼を善うための教材の添加、⑥手本の体裁を長方形から草紙風に改め、学習の便を図った。なお、書写体の採用は、後の当用漢字等の字体整理時代の端緒となったといえる。
 昭和一六年国民学校と改称。習字については、「芸能科習字」となり、次の目的が示されてある。
  芸能科習字ハ文字書写ノ技能ヲ修練セシメ、鑑賞スルノ能カヲ養ヒ国民的情操ヲ醇化スルモノトス
  初等科二於テハ〝カナ〝楷書及行書ノ書法ヲ授クベシ 高等科二於テハ其ノ程度ヲ進メ草書ヲ加フペシ
  国民科国語トノ関連二留意シ生活ノ実際二適切ナルモノヲ選ブベシ (施行規則第一五条)
 ここで習字は、独立教科として芸能科の中に位置づけられた。手本の編集や指導体系も一新され、従来の甲乙の類別を廃して一種に統一し、筆者に井上桂園が選ばれた。(国定制度第五期本)特徴として、語句は戦時体制下の影響を受け、大字中心で雄大剛健な書風を期している。なお、初等四年から古典を鑑賞用として掲げている。

 中学校の習字教育

大正八年「中学校令」改正公布、国語及漢文の毎週時数は、一・二学年が各八時、三学年が六時、四・五学年が各五時と改正されているが、習字がこのうち一時間ずつ配当されることや程度については、前述のものと変わらなかった。
 昭和六年「中学校教授要目」の制定により、習字指導に関する考え方を次のように示している。

 習字ハ楷書・行書及仮名ヲ課シ間架結構ノ大要ヲ知ラシメ且実用二適切ナラシメンコトヲ期スベシ 尚特二習字ノ時間ヲ設ケザル学年二在リテモ作文書取其ノ他ノ場合二於テ常二正確ナル書方二注意セシムベシ

 この改訂によると、国語漢文の中で、第一学年の習字は毎週一時間であるが、第二学年は隔週一時間、第三学年以上は特別に時数を指定していない。これは当時の中学校は、上級学校入学資格として、英語・数学・国語漢文(講読)等の科目を重視したため、習字等の技能科が軽視されたものと思われる。
 昭和一八年「中学校教科教授修練指導要旨」の公布により、習字は書道と改称され、音楽・図画・工作とともに芸能科に属し独立教科となった。書道に関する教授要旨及び週時間配当は次のとおりである。

  芸能科書道ハ書写に習熟セシメ書蹟鑑賞ノカヲ養ヒ国民的情操ヲ涵養シ人格ノ陶冶二資スルモノトス
  芸能科書道ハ「カナ」及漢字ノ書法、書式ノ実習及書蹟ノ鑑賞ヲ課スベシ
  第一・二学年は毎週一時間、第三・四学年は芸能科全体で各三時間配当

 この改正による書道の新面目は、書写の習熟と共に鑑賞力を養い国民的情操を涵養し、人格の陶冶に資するという心枝一体の修練をめざし、従来の実用的書道とは異なる面を見出すのである。