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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 中等教育

 学制期の漢書科・文書科

明治五年布達の中学教則略には「国語・古言」等があるが、県が同八年松山に設立した英学所等は、変則中学校の性格を持ち、洋学中心で、国語科に相当する課業はない。同九年英学所を拡充整備して北予変則中学校を設置、漢書・英書並びに洋算を課業とし。「凡ソ漢書卜云フモノハ漢字ヲ以テ記スルノ書皆是ナリ故二翻訳書ノ類亦其申二在リ」と注している。同一一年北予中学校と改め、科目は、甲科(五年制)英書・漢書・数学・文書・口授の五科で、乙科(三年制)には英書科がなく習字科がある。甲科の漢書科と文書科をまとめると表2-4のとおりで、漢書科の一部と文書科とが国語科に相当し、内容は漢文教育である。県内の他の中学校も、ほぼこれと同じである。
 このころの国語教育の実状について、同一三年松山中学校(北予中学校が校名を改めたもの)に就任した村井俊明(~大正一二・69歳)は、「当時の日本は、何に因らず、旧風打破を専らとせり、此の如き塩梅故、学科目中に修身国語などいふもの無し、国語科を置かれたるは、明治一四・五年の頃なりしかと記憶す。始めて国語科を置くべき法令の出たる時、受持の教師なく、神官にても雇はんかなど評議の末、俊明、多少素養のありしを幸ひに、其衝に当たる事となれり。併し生徒の嫌がる事非常なりき。」試験について「問題を与へて一斉に答案を出さするに非ずして、一人宛呼出して、面前にて講読せしめ、其場に於て採点せしなりごと述べている。
 この村井俊明が添削を施し、評を加えた作文帳が残っている。同一四年松山中学校第六級に在学していた正岡子規(~明治三五・36歳)の「文稿」である。「文稿一」には、鉛筆書きと墨書きとがあり全部で一二篇の漢字仮名交り文の作文、「文稿三」には、七篇の漢文の課題作文と五篇の「紀事一則 松山中学校兼題○口授接続」の漢文がある。文書科は松山中学校では文章科となっていて、文章科の試験科目の六級に「口授接続文」とあり、「文稿」の口授接続は、その答案と考えられるが、どのような試験であったのかよく分からない。愛媛大学教授渡部勝己(~昭和五四・58歳)は、「当時、作文の試験が行われていて、そこでは文章表現の技能の修練が重要な課業として重んじられていた……当時の文章は、漢文体のものに殆んど終始していて、いわゆる名家の名文という典型に近づく努力を積みあげるものであったと推測」している。

 教育令期の和漢文科

明治一四年の中学校教則大綱で中学校の教育課程が定められた。教科の中に「和漢文」があり、初等第一年七、第二~四年六、高等第一・二年七の毎週授業時間数が例示された。これを受けて、県は同一四年中学校教則大綱並課程、翌年愛媛県中学校教則を布達、県独自に教授要旨を設け、和漢文については「和漢文ハ殊二必用ノ学科ニシテ最モ精密に教授スヘキモノタリコレヲ分テ読書作文ノニトス」とし、読書・作文それぞれについて、内容・指導法・目標を示している。教科課程及び教授時数と教科書は表2ー5のとおりである。県はこの教則に基づいて県内中学校を整備していった。「和漢文」とはなっているが、やはり漢文教育中心で、儒教的徳育強化か促され、洋学中心の方向が多少変わってきた時流に呼応している。

 私立学校の読書科

この漢文教育中心の状況は、明治一五年前後に設置された、中学校に類似する私立学校、例えば、松山における河東坤(~明治二七・65歳)の千舟学舎(明治15創置伺)や三輪田真佐子(~昭和二・84歳)の明倫学舎(明治17創置伺)等の学科課程にもよく表れている。これら私立学校は、修身科・読書科を置くところが多く、その他の科を置くところも、すべて漢書をもって指導し、従来の私塾の伝統をもつ漢学塾といってよい。多く使用されている教科書は、四書・五経を始め、左氏伝・孝径・小学・史記・十八史略・綱鑑易知録・元明史略・大日本史・日本外史・日本政記・国史略・皇朝史略・文章軌範・唐宋八家文読本等である。

 中学校令期の国語及漢文科

明治一九年の「尋常中学校ノ学科及其程度」に、学科としての「国語及漢文」が現れ、その程度は「漢字交り文及漢文ノ講読書取作文」となった。同二一年発足の伊豫尋常中学校の教則は「教旨 漢字交り文漢文ノ講読書取作文ヲ授ケ時々文章ヲ読誦セシメ以テ正シク国語ヲ綴り正シク国語ヲ話シ正シク漢文ヲ解シ正シク漢文ヲ綴ルヲ旨トス」「教程 初メハ専ラ漢字交リ文二付手広ク意ヲ解セシメ次ニ漢文ヲ交へ漸ク進ソテ専ラ名家ノ漢文ヲ授ケ以テ其講読ヲ自在ナラシム且傍ラ書取作文ヲ課シ作文ハ初メハ漢字交リ文ヲ綴ラシムモ漸次漢字ノ作文二及フヘシ」と示し、授業時数は表2-6のとおりである。教科書は、高等日本読本七・同八・かなづかひ教科書(以上高等小学校用、中学校へは修業年限四年の高等小学校の二年修了者が入学するのが原則であった)。和文読本・日本外史・日本政記・近世名家文紗・正文章軌範・史記伝紗である。ようやく漢文に対し国語の増加が見られるが、県内の他の中学校では、なお国語の教科書は少ない。伊豫尋常中学校では、教科書の貸与はなくなり、冊数の多い漢書をはじめ新教科書の購入で授業料の十数倍の出費が一時に必要であったという。
 同二七年「尋常中学校ノ学科及程度」が改正され、愛国心成育と日常生活向上のため国語及漢文の時間数が増え、漢文の書取作文が削られた。県では、翌年愛媛県尋常中学校規則で「国語漢文ヲ自由二理解シ且国語ヲ自由二正シク使用スル能カヲ養ヒ以テ処生上二益シ兼テ徳性ヲ涵養スルヲ以テ要旨トス」と目標を明確に示し、毎週授業時数を表2-7のとおりとし、国語講読が漢文講読と並んだ。同三一年県令で示された教科用図書は、中等国文読本全十冊(落合直文編)・教程日本文典全一冊(間中正修編)・中等教科漢文読本入門二冊(宮本正貫編)・同漢文読本全十冊(同上編)である。同一九年の中学校令で定められた検定教科書が整ってきたことを示している。

 女学校の国語

明治一九年創立の私立松山女学校の学科課程表(同20)に「読書科」があり、読方・作文に分かれ、読方は、予備科一年で小学中等科読本一~三(笠間益三著)、同二年から本科四年間に、国史擥要・日本外史・十八史略・正続文章軌範・史記列伝を使用、作文は、予備科で書簡文・仮名交り記事文、本科で仮名交り論説文、授業時数は毎学年毎週読方五・作文三である。同二四年の私立愛媛県高等女学校設置願の授
業要旨にも「読書科」があり、各学年毎週六時間である。同二八年に高等女学校規程が判定され、学科目として「国語」と「漢文」(随意科目)とがあり、「国語」の毎週授業時数は、一・二年が五、三~六年が四となっている。このころから女学校用教科書が刊行され始めた。私立松山女学校では同二八年ころ、国語は、徒然草・方丈記・土佐日記・十六夜日記・吉野拾遺・枕草子・漢文は、近古史談・左伝抄などを使用したという。

 国語科の整備画一化

明治三二年の中学校令から、同三六年の高等女学校教授要目までの一連の法令で、中等教育は整備され、全国画一化され、以後終戦まで大きい改変はなされなかった。国語及漢文は「普通ノ言語文章ヲ了解シ正確且自由二思想ヲ表彰スルノ能ヲ得シメ文学上ノ趣味ヲ養ヒ兼テ智徳ノ啓発二資スル」を要旨として、現時の国文を主として講読、近古文に及ぶこととなり、漢文は平易なものの講読となり、習字が独立教科ではなくなって、国語及漢文の中に入った。毎週授業時数は、第一学年から学年ごとに七・七・七・六・六(以下この要領で示す)で、同三一年の県尋常中学校規則よりも二時間の増になっているが、習字の三時間を考慮すると、一時間の減となる。中学校教授要目に基づいて、各中学校長は教授細目を作成することになっているが、その記録は県内で見当たらない。しかし、同四三年、県立今治中学校の「教授法概要及訓育ノ状況」は、当時の授業の進め方をよく示している。その第二章各科教授法の国語及漢文科では、講読について

 O読方終ラバ先ヅ生徒ヲシテ講ゼシメ、若シ誤アラバ他生徒ヲ指名シテ之ヲ正サシメ又ハ教師自ラ之ヲ正シ、第三学年以下ニ在リテハ教師更二講ジ、第四学年以上二在リテハ難解ノ所ノミ更二講スベシ
 ○生徒ヲシテ講ゼシムル際、若シ誤リタル解釈ヲ下スコトアルモ一々直ニ之レヲ正スハ不可ナリ、アル一段落ヲ講了セシ後教師ヨリ一々指摘シテ正スベシ、但読方ノ時ハ其都度訂正スルヲ要ス
 ○生徒ヲシテ講読ヲナサシムル際ニハ、文章ヲ適宜二短ク切リ、可成多数ノ生徒二之ヲ課スベシ
 ○或一節ヲ講了セバ生徒ヲシテ直二其大体ヲ解説セシメ、概括カノ養成二努ムベシ

以下文法・作文・習字についても細かく指示し、作文では、書簡文に力を入れ、また、「作文ハ所定ノ用紙二毛筆ヲ以テ書カシメ、即題ノ時卜雖モ文字ヲ丁寧正確二書セシムベシ」とある。なお、大正一一年の八幡浜高等女学校の入学試験に毛筆作文があったというから、毛筆による作文は、大正期にも行われたようである。
 明治三三年の宇和島中学校採用教科書目は、同三一年県令で示された教科用図書と同じであるが、文法は中等教科日本文典(杉敏助編)、それに日本文学史要(佐々政一編)が加わっている。同三三年開校した大洲の郡立喜多学校では、「各学科ノ教科用図書ハ本県松山中学校所定ノモノニ拠ル」としている。
 こうして県下中学校の国語科は、明治三〇年代から授業時間数、教科書、教授法等整えられていった。
 一方、同三二年「高等女学校ノ学科及其程度二関スル規則」には、学科目ごとの時間数が示されていないが、県は表2ー8のとおりに示している。補習科に「詠歌」がある。同三四年高等女学校令施行規則により四年制となった。習字が国語科に入り、同施行令によって国語科の毎週授業時数は、六・六・五・五となった。なお随意科目の漢文は省かれた。同三六年教授要目が定められ、県はそれに従って課程表を改訂、国語科が整備画一化されてきた。高等女学校以外の女学校も、これに倣い、整備が進んだ。

 実業学校の国語科

明治三二年の実業学校令に基づく工業・農業・商業の各学校規程の学科目には、「読書」・「作文」、
水産学校規程には「国語」がある。同三三年の愛媛県農業学校規則の読書作文の毎週授業時数は、三・二・一で極めて少なく、読書は漢字交り文で、二年から漢文が加わる。作文は記事文・日用文。同三五年に
三・二・二となり、読書は全学年現今及近古の国文、平易なる漢文となった。他の郡立農業学校は若干時間数が多いけれども、教職員に国語科専門はいない。
 商業学校では、表2ー9のとおり読書・作文の時間数が多く、作文は、商業の文書事務を含んでいたようである。
 同三五年認可の弓削甲種商船学校では、予科二年間、読書・習字・作文合わせて毎週六時間、航海科、読書・作文四・三・〇となっている。
 同四二年開校の松山市立工業徒弟学校は、三年間、国語、毎週三時間である。

 実業補習学校の国語科

明治三五年から設置された実業補習学校の学科に「国語」があり、読書・作文・習字合わせて、毎週多い学校で七、少ない学校で四時間。南宇和郡の福浦水産補習学校の教授要旨に「実業思想ヲ発達セシムベキ事項及水産業二須要ナル理化学上ノ事項ヲ記述シタル漢字交リ文ヲ授ケ」とあり、西宇和郡の喜須来農業補習学校では「農業上必須ノ事項ヲ記載シタル漢字交リ文ヲ授ケ」とあって、実業補習に徹している
が、教師の多くは、小学校の教員の兼務であった。

 国語科の安定充実

 国語科の毎週授業時数は次のように充実安定した。明治四四年中学校教授要目改正、高等女学校及実科高等女学校教授要目制定により、翌年県は中学校・高等女学校の規則を改正し、中学校の国語及漢文は、八・七・七・六・六、高等女学校の国語は、六・六・五・五となった。大正八・九年、中学校令・高等女学校令・各施行規則の改正により、県は規則改正、中学校の国語及漢文は、八・八・六・五・五、高等女学校の国語は、五年制六・六・六・五・五、四年制六・六・五・五となった。なお、農業学校の読書及作文の時間数が増加され、同八年松山四・三・三、宇和六・四・三、西条四・四・四となった。また、年々増加した実業補習学校は、すべての学校で国語科を置き、毎週授業時数二~六。同七年実業補習学校学則準則は、男七・六・五・五、女四・三・三・三とし、漢文は姿を消している。
 こうして明治末までに整備された国語科は、大正期その内容において充実した。検定教科書に現代文芸作品が多く採られ、豊かな教材が提供され、教科書の種類も多くなった。国語教育の理論と方法が考究された。その中央の新しい思潮を受容する様子が古田拡(~昭和60・89歳)の経歴に見られる。古田拡は、大正九年西条中学校教授嘱託、同一一年教諭、同年出版の垣内松三(~昭和27・74歳)の「国語の力」を読み、同一四年宇摩高等女学校に転勤、同一五年県の講習会で垣内松三に会い、昭和三年郡の講習会で芦田恵之助(~昭和26・78歳)に会って「わが一生を教壇一筋に賭けて悔いなくなった」という。昭和五年出張上京し、大正一四年に「国語国文の教育」を著した西尾実(~昭和54・90歳)を訪ねる。やがて小学校の国語教育に重点を移していったのであるが、この特にすぐれた国語教育者の場合は別としても、一般に個性豊かな教師が多くなり、多くの実際の中等学校の教室は、従来どおりの訓詁注釈を主にしながらも、内容は多様化した。
 大正八年松山高等学校が設置されたが、それ以前から高等学校への入学試験は、競争が激しく、研究社の雑誌「受験と学生」が同七年創刊、『国文解釈法』(塚本哲三著)は同五年発行になっている。中学校では、長期休業中に補習授業も行われたが、上級学校の入試に備えることは、多くは生徒各自に任せられた。しかし、授業時数は、規則どおりでなく、国語及漢文の時間を増加しているところもあった。表2-10に一例を示す(写真2-10参昭)。

 昭和戦前期の国語漢文科

昭和五年実業学校諸規程同六年中学校令施行規則が改正され、県では、同年各学校規則を改め「国語及漢文」が「国語漢文」となり、古典教材が近古文から上古文まで広がった。国民性を涵養することが要旨に加わった。授業時数は学校によって多少の増減があった。中学校には、基本・増課の両科目が置かれ、国語漢文は両科目に入れられた。
 この時期、愛媛県教育会の中等教育部門の事業として同五年から毎年、県下中等教育研究大会が開かれているが、国語科については、同九年大洲中学校で開催されている。当時同校教諭であった仲田庸幸(明治35~)は、「当時の大洲中学は、愛媛県では、一種の潑刺たる教育の源流の観をも呈していた。この中学で、前例のない中等学校国語教育研究大会が全県下の中等学校の国語教師を集めて盛大に開かれた」と述べている。講師は広島文理科大学教授鈴木敏也で、仲田の指導授業も行われている。同一四年松山中学校で県下中等教育教授研究大会が開かれ、漢文の教授研究について、講師の東京文理科大学教授諸橋轍次が病気で来られなくなり、愛媛師範学校長林傅次(~昭和34・67歳)視学官有馬純次(明治33~)が講師として、授業参観・批評・視察報告及び協議が行われている。また、「中等学校の先生にものを聴く会」が同一三年開かれていて、入学考査に現れた成績や入学後の生徒の学習状況について話し合っている。国語について、文字力の貧弱さ、仮名遣いや筆順の誤り、文章の大体の意味を直観的に読み取ることはできるが、一語一句の意味から全文を解釈する力に乏しいこと、長文が書けないことなどが中等学校側から指摘されている。

 戦時下の国語教育

 日中戦争の始まった昭和一二年、中学校・高等女学校及実科高等女学校教授要目改正、実業学校教授要目制定、同一三・一四年、県下各中等学校学則改正、一層国体の本義を明徴ならしめることが要求された。高等女学校と実業学校とに漢文の初歩が含まれることになった。
 同一八年、「国語漢文」「国語」は、「国民科」の中に含まれ、習字は、芸能科書道と変わった。教科書は国定制となった。中学校及び高等女学校の教科教授及修練指導要目が公布され、これに伴い県は、各中等学校の学則を定め統一した。しかし、戦局緊迫、勤労動員により授業は激減、教科書は開けずじまいで敗戦となった。

 昭和戦後期の国語教育

 終戦後極めて困難な中にも中等学校の授業が再開され、分冊の「中等国語」、中等学校教科書株式会社の「国語四」を使った。単元学習という全く新しい声を耳にしながら、新制高等学校が昭和二三年四月発足した。選択教科制によって、生徒の希望する講座を編成するという複雑な作業が普通科高等学校では行われた。文部省著作の「高等国語」各学年上下二冊が教科書であった。
 同二六年学習指導要領(試案)が発表され、「聞く・話す」「読む」「書く」の領域に「ことばのきまり」に関する事項を関連させて指導することになった。
 このためもあって、作文指導が低調になった。同三〇年県教育委員会は、国語科について、総合学力発揚の場としての作文指導の研究に重点を置き、同三四年、教育課程指導内容の基準の一つとして「高等学校国語科(国語甲の内の作文)」を作成配布した。
 学習指導要領昭和三一年度改訂版によって類型制となった県立高等学校の国語科教育課程をまとめると表2-11のとおりである。
 系統学習が唱えられ、政訂学習指導要領が告示されたのは同三五年であるが、これに基づく国語科教育課程をまとめたのが表2-12である。
 同三五年ころから、県教育委員会は基礎学力の充実を重点にして、研究指定校を設けた。同三七年から同五八年までに、国語科について、九校が研究発表を行い、生徒の実態に即した、授業を中心とする堅実な研究成果を積み重ねてきた。学習指導要領は、さらに同四五年、同五三年と改訂告示されたが、それに伴い県教育委員会の示す国語科の努力目標は、年度によって異なるけれども、「生徒の実態に応じた効果的な指導法の研究」は一貫した目標となっている。なお、愛媛県教育研究所の主体的学習の研究は、予習課題学習などについて高等学校国語科に影響を与えた。西条高等学校の同四八年教育研究集録に、同校国語科のこの研究の成果が示されている。

 愛媛国語国文学会

昭和二五年春ころから、星加宗一(~同50・74歳)・近藤佶(~同36・58歳)ら県内高等学校の国語科教員と愛媛大学の武智雅一(~同59・79歳)・和田茂樹(明治44~)らとで、国語学・国文学の研究会を作ろうという気運が起こっていた。前述の愛媛国語研究会が中心となって同二六年開催した第二回全国大学国語教育学会の研究大会に参加した大学・高校の教員がその設立を相談、その後準備を重ね、愛媛大学文理学部長井手淳二郎(~同51・84歳)を初代会長とし、同二六年一一月総会・研究発表会を開いて、愛媛国語国文学会が発足した。この会を常に中心となって推進したのは、武智雅一であり、これを助けたのが、和田茂樹であった。県教育委員会指導主事森元四郎(明治45~)は、愛媛国語研究会、続いてこの会に協力、以来両会の運営に参画した。会員二〇五名、県下の大学、国・公・私立高等学校の国語科担当者の全員を網羅し、毎年六月に支部総会(東・中・南予)、一一月勤労感謝の日に研究発表会・総会を開き、本格的研究論文に地方資料も加えた、多角的な内容の会誌「愛媛国語国文」(第二号以降『愛媛国文研究』と改題)を毎年発刊した。
 国語教育の研究に関心のある高等学校教員は、愛媛国語研究会にも加入していたが、愛教研・高教研の組織確立とともに、この会から離れて、高教研国語部会で活動することとなった。

 高教研国語部会

 昭和三六年発足した愛媛県高等学校教育研究会(高教研)に、愛媛国語国文学会は規約上で参加し、翌年から研究大会・総会は、高教研の一二月の統一教育研究大会に合流した。そのため、従来の国語学・国文学の外に国語教育についての研究発表・協議も行われることになり、学習指導要領の改訂に伴う指導計画の立て方今現場での問題点が取り上げられ、実態に即した研究発表・協議が展開された。同四八年国語部会会則作成、高教研国語部会が愛媛国語国文学会に加入するという形となり、同五三年から会誌の編集発行、一二月の研究大会を国語部会単独で行うこととした。愛媛国語国文学会の研究発表会・総会は、同五四年から、もとに返って毎年秋に行うことになった。
 同五八年一一月、全国高等学校国語教育研究連合会第一六回研究大会愛媛大会を高教研国語部会の総力を挙げての運営により、みごとに豊かな内容のある大会として成功させた。

 地区別高校国語教育研究会

 県教育委員会と愛媛国語国文学会の東・中・南予の各支部(高教研国語部会ができてからは、その各支部)との共催で、各地区ごとに毎年六月国語教育研究会が開催されている。授業参観・研究発表・研究協議・講師の講演が行われるのが例である。講師は、昭和二七年から同五五年まで愛媛大学で担当、特に武智雅一が二一回、和田茂樹が三一回も指導に当たっている。研究発表は学術・教育両面の高校教員の日ごろの研究・実践に基づくもので、研究大会における発表とともに高校国語教育に寄与してきた。
 研究協議に提出される議題には、各学校の問題点や悩みがよく表れている。同二七年から、ほとんど毎年提出されているのが「作文」(同五七年から「表現」として)で、その指導計画・指導法・時間配当・事後処理・評価などについて繰り返し協議されている。次に漢字指導も、ほとんど毎年出ていて、書取・全校一斉テストの方法等が協議され、そして文語文法をいつどの程度どのような方法で指導するかなどの文法の問題も同様である。以上の作文・漢字・文法は、戦前においてもよく研究協議の議題になっていた。次に、国語乙・古文・古典の問題は、学習指導要領改訂実施の同三一・三八・四八・五七年を中心に出ている。漢文は、同四二年までは毎年のように問題とされ、それ以後はほとんど現れていない。同四〇年から読書指導・図書館利用指導・視聴覚資料が毎年協議される。また、予習課題・家庭学習などが取り上げられ、能力差の問題、学習意欲の問題が急増する。同四三年から高校進学率の上昇に伴い、指導法や授業形態が問題となる。同五〇年から共通一次対策が出る。同五四年から改訂学習指導要領による指導計画の作り方に集中して協議され、これまでの改訂時にはなかった盛況を呈した。文学史については、その位置づけが繰り返し協議されている。同和教育の視点に立っての協議は、同五一年から活発になる。
 この研究協議は、日ごろの授業実践に基づき、相互に情報を交換し協議し、県教育委員会の指導と協力を得て再び各学校に持ち帰り、日ごろの授業実践を高めてゆく上に大きな力となっている。
 なお、各高等学校の発行している研究紀要の中に、国語教育や教材研究に関する珠玉の論文が見出される。

愛媛国語国文学会及び高教研国語部会の歴代高校側役員を就任順に挙げると次のとおりである。
 末平芳美・金本林造・阿部新・森田虎雄・大野静・近藤佶・池田義孝・尾海孝平・柳原勇・栗村真次郎・松林六郎・森元四郎・星加宗一・桜井久次郎・川崎弘・左右津平吉・忽那和市・家久甫・藤崎一隆・高橋保・加藤纓・黒田定雄・村上弓弦・坂村昂・福田直記・須山宏・森巍・・魚田清明・兵頭保・永田政章・近藤光五郎・大塚靖・鈴木朔郎・清家巖・池田三男・五葉道全・中川貴好・池内寿夫・鈴木清・武井耕作・高浜宗一郎・麻生耕三・谷岡武城・松岡覚・千葉昭夫・佐野幸一郎・玉置福雄・頼本冨夫・藤井善市・羽藤清忠・菊池啓泰・佐伯滋・石丸弘之・西川哲心・石丸和雄・坂和守広・砂田肆朗・宮崎教雄・丸木一秋・秋田忠俊・忽那哲・三浦斉・中井勉・森実規知雄・上田哲司・大塚千代吉・五嶌正之・二宮伸弘・横田武敏・奥田利彦・河村雅行・藤堂邦男・松浦巻夫・村上諭・藤田計博・金井観三郎・藤田徹・西本松郎・佐伯亨・寺尾節男・青野文敏・秋山久恵・村下満・伊賀上道夫・阪本謙一・篠崎充男・松岡繁・小野理行・市村通泰・山田孝昭・白石裕司・今村威・高津明児・森幸子・岡村彰・政岡博・浅井勝彦・泰山慧寿・松木安夫・松岡義勝・芝嘉也

表2-4 北予中学校規則

表2-4 北予中学校規則


表2-5 愛媛県中学校教則

表2-5 愛媛県中学校教則


表2-6 伊豫尋常中学校規則 教則第九条授業の時数

表2-6 伊豫尋常中学校規則 教則第九条授業の時数


表2-7 伊豫尋常中学校規則 学科課程及毎週授業時間数表

表2-7 伊豫尋常中学校規則 学科課程及毎週授業時間数表


表2-8 愛媛県立松山高等女学校規則課程表

表2-8 愛媛県立松山高等女学校規則課程表


表2-9 愛媛県立商業学校規則 学科目課程及毎週授業時数

表2-9 愛媛県立商業学校規則 学科目課程及毎週授業時数


表2-10 松山中学校昭和四年度入学者 使用教科書・毎週授業時数

表2-10 松山中学校昭和四年度入学者 使用教科書・毎週授業時数


表2-11 昭和34年度県立高等学校入学者 国語科教育課程(全日制)

表2-11 昭和34年度県立高等学校入学者 国語科教育課程(全日制)


表2-12 昭和34年度県立高等学校入学者国語科教育課程(全日制)

表2-12 昭和34年度県立高等学校入学者国語科教育課程(全日制)