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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

八 新教育制度の進展

 昭和二七年四月、平和条約が発効し、我が国は独立国としての地位を回復した。困難な条件のもとで発足した新教育制度も、同年公布の「義務教育費国庫負担法」が翌二八年から施行され、施設・設備、教員の給与・定数などの国庫補助に関する法律が相次いで公布されて充実への道が開かれた。また、「理科教育振興法」「へき地教育振興法」「学校図書館法」、また特殊教育諸学校への就学奨励に関する法律などの施行と県の改善努力により、学校も次第に整備、充実が図られていった。
 昭和三〇年代に始まる児童・生徒の急増、進学率の上昇、過密と過疎、及びこれらに伴う学校の新設や統廃合、危険校舎の改築、経済の高度成長、技術革新による教育需要の多様化など、諸種の社会情勢の変化に対応して施策が講じられ、教育費予算額の県総予算額に対する比率も、同三五年の三七・二六%を最高に同三〇年代は平均して、三一%を超えている。
 教育内容については、戦後の潮流となっていた経験主義や生活単元学習などについての反省が起こり、基礎学力充実の要請が高まり、昭和三〇年、まず小・中学校社会科の改訂が行われて、内容に系統性を持たせ、また、道徳教育に対する社会科の役割が重視された。次に「小学校学習指導要領家庭科編」が改訂され、小学校家庭科が安定した。同三三年小・中学校に毎週一時間の道徳の時間が特設され、「学習指導要領道徳編」が公示された。同年文部省は「小・中学校学習指導要領」の改訂を告示、小学校は昭和三六年度、中学校は同三七年度から全面実施することとした。改訂の主な内容は、小学校においては、教育課程の領域を各教科・道徳・特別教育活動及び学校行事などとし、地理・歴史教育の改善、国語・算数に関する基礎学力の充実を図るため時間数の増加、算数・理科の内容の充実が図られた。中学校においては、教育課程の領域を小学校と同様とし、教科の授業時数については、数学・理科の時間数が増加された。また、図画工作が美術、職業・家庭が技術・家庭と改められ、選択教科の科目が増加された。
 社会の進展と我が国の国際的地位の向上を背景に、「期待される人間像」の中間草案が発表され、また「小・中学校学習指導要領」は全面改訂され、小学校は昭和四六年度、中学校は同四七年度から完全実施されることになった。小学校では、教育課程の構成を各教科、道徳及び特別活動の三領域とし、各教科と道徳の授業時数を標準として示し、弾力化を図った。中学校でも同様の改訂が行われ、時代の進展、科学技術の発展に応じ、教育内容の向上、特に算数・数学、理科の教育内容の現代化が図られた。また、各教科にわたり指導内容の精選と集約が行われた。
 文部省は、昭和三一年から全国的な抽出学力調査を始めた。当時、本県では勤務評定紛争が激化の一途をたどっていた。昭和三三年、本県も抽出校小・中・高四七校により全国学力調査を実施、以後年を追って希望参加校が増加し、学力向上をめざして努力した。そのため成績も急速に上昇し、本県の成績は、どの教科もすばらしい順位を示した。
 中学校卒業者の高等学校進学率は、昭和三〇年五一・五%(愛媛県五〇・五)、同四〇年七〇・七%(六七・二)、同五〇年九一・五%(九二・七)と急激に上昇、高等学校は大部分の青少年を教育する国民的教育機関としての性格を強めるに至った。そのため、小・中・高等学校の教育を一貫して内容を精選し、ゆとりのある学校生活を送らせることを目指して、同五二年「小・中学校学習指導要領」の全面改訂を告示、小学校は同五五年度から中学校は同五六年度から完全実施することとなった。改訂の基本方針として、道徳教育や体育を重視、各教科の内容を精選して創造的な能力の育成を図り、標準授業時間数を削減して、ゆとりのある学校生活を送らせるため、学校や教師の自発的な創意工夫によってゆとりの時間の活用を図り、人間性豊かな児童・生徒の育成をめざすことを掲げた。また、小学校低学年では、二つ以上の教科の関連を重視した合科的な指導を従来以上に推進し、中学校では選択教科の範囲を広げた。
 高等学校の教育課程については、昭和三一年度より学年進行により新「高等学校学習指導要領」が実施され、従来の選択教科制に代わって、類型制(コース制)が採用され、必修教科・科目が増加された。ついで、急速な進学率の上昇に伴う生徒の多様化に対応するため、昭和三五年「学習指導要領」の改訂を告示、同三八年度より学年進行により実施されることになった。この改訂の主な内容は、科目を必要に応じて類型化できるようにしたこと、必修科目を絶対必修科目と学科別必修に分けるようにしたこと、「倫理・社会」が新設され、領域として新たに「学校行事等」が設けられたことなどである。
 昭和四〇年代に入り、経済の高度成長に伴って高等学校への進学率はますます上昇するとともに、科学技術の革新、社会の進展に対応するため、同四五年告示、同四八年実施(学年進行)の「高等学校学習指導要領」が公布された。この改訂では、教育課程編成に弾力性をもたせて、必修教科・科目数及びその単位数示削減され、数学・理科・外国語などの教育内容を改善するため、新たに「数学一般」「基礎理科」「英語会話」などが設けられた。また、「クラブ活動」について週当たり一単位時間が必修とされた。
 同五三年、更に多様化した生徒に対して、多様な教育課程が編成できるよう、その基準を弾力化し精選を図るため、全面改訂を行い、昭和五七年度から学年進行により実施されることになった。この全面改訂では、多様な選択科目が履習できるよう、共通必修教科・科目及びその単位数を更に削減し、卒業に必要な最低単位数、全日制課程各学年の週当たり授業時数、及び職業科の専門教科・科目の必修最低単位数がそれぞれ引き下げられた。また「現代社会」「理科I」など新しい必修科目が設けられ、「各教科以外の教育活動」を「特別活動」と改称、学科として「体育」「英語」が新設された。勤労体験学習・道徳教育・体育などが重視され、特色ある学校づくりがすすめられた。
 これらほぼ一〇年ごとに施行された小・中・高等学校の「学習指導要領」改訂(表1ー3)に呼応して、愛媛県教育委員会は、毎年度、教育重点目標・指導指針及び各教科などの指導目標を設定して各学校に配布するとともに、教育課程趣旨徹底講習会その他の研修会・講習会を開催、県下全教職員の理解を図り、指導力の向上に努めた。愛媛県教育研究協議会や愛媛県高等学校教育研究会の研究大会はそれらの使命をよく果たしてきた。
 一方、高等学校への進学率の急上昇に対応して、高等学校の新設・改編なども逐次行われた。昭和二九年から同三四年にかけて、独立定時制高等学校が全日制課程に切り替えられ、同三五年新居浜市に市立新居浜商業高等学校、同三七年八幡浜・壬生川(現東予)両工業高等学校が設立され、同三九年北条・新居浜南の両高等学校が分校から全日制独立校となった。その後は、学科の新設、生徒募集定員の増加、小学区制から東・中・南予の三つの大学区制への切り替え、生徒急増時の私立高等学校の絶大な協力などによって生徒の受け入れ態勢を整えてきた。昭和四九年、松山西高等学校、同五八年今治東・伊予両高等学校が新設され現在に至っている。なお、昭和二四年設置された愛媛県立農科大学附属農業高等学校は、同三一年国立に移管され、国立大学では類のない愛媛大学附属農業高等学校となり、弓削商船学校は同一二八年国立弓削商船高等学校と改称され、その後高等専門学校となった。
 昭和二八年「高等学校の定時制教育及び通信教育振興法」が公布され、国庫補助か得られることになったが、本県の定時制課程の生徒数は同三八年を境に下降した。同四〇年には独立校はなくなり、分校もやや減少し、同五八年には、併設校一六、分校四校で生徒数も一、一九九名に過ぎない。通信教育では、同三一年度から県立宇和島東高等学校通信教育部を廃止。同三〇年新たに物理・化学・工作の三科目を加えることによって卒業資格の八五単位を超えることになり、通信教育による高等学校卒業資格が認められることになった。また、同三三年からラジオ放送の利用が面接指導時間の一部として認められ、同三六年「学校教育法」の一部改正によって「通信制の課程」が、全日制・定時制とならぶ課程として位置づけられた。なお、技能連携制度も生まれ、同三七年には一、四〇〇名を超す生徒が県立松山東高等学校通信制課程に在籍した。同五八年度の生徒数は六七六名である。
 私立高等学校は、生徒急増期に施設・設備の整備に膨大な金額を要し、その財政負担に苦しみながらも、建学の理想をかかげて、学校運営の健全化に努めている。同五八年現在一一校が開校している。
 特殊教育については、盲・聾学校の義務制が同三一年度で完了し、通学区も定められ、校舎の改築も進んだ。同四〇年、肢体不自由児のための県立愛媛養護学校(のち第一養護学校と改称)開校、整肢療護園分校も設置された。同四七年には第二養護学校(病弱・虚弱)、翌四八年第三養護学校(精神薄弱)が開校した。なお、同四七年には愛媛大学教育学部に附属養護学校(精神薄弱)が設置されている。また、同五四年養護学校義務制完全実施により、今治・宇和の両養護学校(精神薄弱)が設置され、それぞれ三分校とともに開校した。現在、県下の県立特殊教育諸学校は本校八校、分校八校となり、訪問教育も実施されている。
 特殊教育の学習指導要領は、昭和三二年「盲・聾学校の小・中学部一般編」が示され、同三九年には「同小学部編」、同四〇年「同中学部編」が告示された。同三八年「養護学校小・中学部精神薄弱教育編」「小学部肢体不自由教育編」「同病弱教育編」、同三九年「中学部肢体不自由教育編」「同病弱教育編」、同三六年「盲・聾学校高等部一般編」がそれぞれ告示され、これらは同四一年改訂された。その後小・中学部については同四六年、高等部は同四七年の改訂を経て、同五四年盲学校・聾学校・各種別養護学校の小学部・中学部・高等部についてそれぞれ「学習指導要領」を改訂公布し現在に至っている。
 県内の幼稚園は、国立・公立・私立を合わせて、昭和三〇年七五、同四〇年一一二、同五〇年一六一、同五九年二一○園と年々増加した。同三一年「幼稚園教育要領」が刊行され、同三九年改訂、幼稚園における教育課程の基本的な考え方及び基準を示した。同四三年から指導書なども出され、愛媛県幼稚園連合会は毎年研究大会を開催、幼稚園教育の推進に努めて来た。
 以上、主として学校教育制度の変遷、特に「学習指導要領」の改訂に伴う教育課程の改変、指導内容の改善などについて述べてきたが、次に戦後教育の大きな特徴として、同和教育・視聴覚教育・生徒指導(生徒会活動を含む)、体育活動などの充実進展について述べる。
 同和教育については、戦前・戦後を通じて地域によってはその萌芽がみられたが、昭和三一年県教育委員会が予算を計上して同和教育研究大会を開催、啓蒙に努め、同三四年文部省の「同和対策要綱」及び研究指定校委嘱などにより、研究が軌道にのりはじめた。同四〇年国の同和対策審議会の答申が提出され、国民的課題として、すべての学校の教育の中に位置づけ、積極的に行うよう指導がなされ、モデル地区の育成や指導者の養成に力が注がれた。同四三年愛媛県同和教育研究協議会が結成され、翌四四年には「同和対策事業特別措置法」が公布されて、同和教育は急速に進展することとなった。同四八年に愛媛県同和教育基本方針を策定し、同和教育班を設置した。翌四九年には同和教育室に、同五二年には同和教育課へと拡充されて、指導体制も整備された。小・中学校及び高等学校では、同和対策審議会答申を機に、愛媛県教育研究協議会には同和教育委員会、また、愛媛県高等学校教育研究会には同和教育部会がそれぞれ研究団体として組織されて、研究を推進することとなった。各学校には同和教育主任が置かれ、県下各地域ごとに小・中・高等学校の同和教育推進を図る同和教育推進主任が配置された。また、小・中・高等学校の同和問題学習資料も発刊され活用されている。
 県下各市町村では、社会教育指導員(同和教育担当)を置き、同和奨学資金事業の啓蒙や一般県民の教育に努力している。行政・学校教育・社会教育・運動団体・企業などが一丸となって結成されている愛媛県同和教育協議会は、県知事を会長として「対話・協調・連帯」を基本路線に「差別の現実から深く学び、未来を保障する教育」の確立をめざして、各種の研修会・研究会・現職教育など多彩な事業を推進し、県民すべてが取り組む同和教育の充実に努力を続けている。昭和六一年度には、全国同和教育研究大会を松山で開催することになっている。
 視聴覚教育については、急速な科学技術の進展・技術革新に伴って、その発展はめざましいものがある。戦後昭和二〇年代は、戦前と同様、主として視覚的教材が利用されていたが、同三〇年代に入ると、NHKの学校放送を授業に取り入れる学校が増加し、更に同三四年のNHK教育テレビの放送開始によって、放送教材を利用する学習が急速に伸張した。その後の録音・録画技術の発達はめざましく、スライド・映画とともに学校放送番組の録音テープやVTRを駆使した画期的な学習指導法へと発展した。現在、多くの学校では視聴覚教室を設置するとともに、各教室にラジオ・テレビ・オーバーヘッドプロジェクターなどを設備し、小・中・高等学校ともに各地域に設置された視聴覚ライブラリーあるいは視聴覚教材センターなどを活用している。また、VTRなどによる自作教材の開発なども普及し、視聴覚教育に関する研究・実践は年を追って盛んになっている。
 一方、戦後、初等・中等教育において広く世間の注目を集めている問題として、青少年による非行の激増がある。青少年非行の発生率のピークは、まず昭和二六年で、戦後の混乱期に生きるための非行が大部分であったが、戦後の復興とともに減少した。しかし、復興から高度成長へと変化した時期から非行発生率は再び上昇、同三九年に第二のピークを迎えることとなる。豊かな社会の中から発生する非行の型が目立ってきた。その後一時下降するが、同四六年から再び上昇し、交通事故関係・不純異性交友・せっ盗・社会逃避などが増加した。オイルショック以来経済の低成長期に入ると、非行の低年齢化、女子非行が目立ちはじめ、校内暴力・家庭内暴力などが急増し、同五五年は戦後最悪の年といわれた。このような非行の急激な増加と非行の型の変化は、学校内外における生徒指導の在り方に大きな影響を与えることになった。県教育委員会では、生活指導について具体的な指導資料を作成配布、実験学校や研究指定校を設置、研修会・研究会などの開催、生徒指導主事・カウンセラーの設置など、その防止対策に努力を傾け、各学校もまた、PTA、関係機関・団体、地域住民と一体となって校外補導協議会を構成、非行防止の活動を展開している。
 また、戦後の大きな変化として生徒会活動がある。生徒の自主的な活動を育成する目的をもって誕生した生徒会は、一時的に学生運動の影響を受けようとしたこともあるが、部活動の興隆と相まって健全に育成され、校内各種行事(運動会・文化祭その他)や校外奉仕活動などに主導的役割を果たしている。全国を驚嘆させた昭和五五年度全国高等学校総合体育大会(五五総体)における歓迎応援などもその表れである。
 体育活動については、同四三年以来、学校の教育活動全体を通じて充実を図ることが強調され、学校体育施設は急速に整備された。対外運動競技については、同三二年中学校、同三八年続いて同四七年県立学校の対外運動競技実施要領が公布された。中学校・高等学校の総合体育大会や各種競技会が毎年開催され、体育各部の部活動も盛んになった。今後は更に質の向上が望まれている。
 最後に、教育行政及び教育研究団体の変遷について述べる。戦後発足した教育委員会制度は、昭和三一年「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」公布により、教育委員は任命制となった。県教育委員会は、同三一年から同三二年にわたる県教員組合の激しい闘争による勤務評定問題紛争、続いて同三三年の小・中学校教員研修会参加阻止紛争、同年日本教職員組合指令による統一行動、同三九年から四〇年にわたる全国学力調査をめぐる紛争など大きな紛争に遭遇したが、これらを克服して教育の正常化が図られた。昭和三八年には県立理科教育センター、同四一年には教育研究所を統合して愛媛県教育センター(現総合教育センター)を設立し、教員の研修・研究に多大の効果を挙げている。同五四年教育委員会制度発足三〇周年を迎えた。
 一方、明治二〇年誕生した愛媛教育協会(大正一四年愛媛県教育会と改称)は、長年にわたり本県の教育研究団体の主軸となって活動を続けた。しかし、戦後の教育改革に伴ってこれを解消した。その後、各教科ごとに自主的に設立していた教育研究団体を発展的に解消し、昭和三五年小・中学校関係の教育研究団体は、統合されて愛媛県教育研究協議会(愛教研)となり、高等学校関係は同三六年愛媛県高等学校教育研究会(高教研)を結成した。この愛教研・高教研が県教育委員会と一体となって、教育の正常化と発展をめざして研究実践活動を続けている。なお、現在、愛教研研究部は二〇委員会、高教研は二二部会によって構成されている。

表1-3 学習指導要領改訂の推移

表1-3 学習指導要領改訂の推移