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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

第一章 教育制度史概要

          は じ め に

 我が国の教育は、明治以来飛躍的な発展を遂げ、現在では世界屈指の教育国といわれるようになった。愛媛県においても、幼児の大多数は幼児教育諸施設に通園し、義務教育終了後の生徒の九六%以上が高等学校などに入学し、高等学校卒業者の約三八%が大学その他の高等教育機関に進学している。これら児童・生徒の就園率・進学率などは、全国平均を上回り、その教育成果もまた全国的に高く評価されている。このことは、幕末・明治維新以来の我が国の政治・経済・文化などの急速な発展と、それに伴う教育施策の進展が大きな背景となっているが、同時に、愛媛教育を担った数多くの先賢の努力と、県下各地において永年培われた文化の伝統に支えられた結果である。
 愛媛県の教育の歴史については、すでに『愛媛県教育史稿(旧藩時代之部)』(愛媛教育協会刊)、『愛媛県誌稿』(愛媛県刊)、「愛媛県教育史前編」(愛媛県教育会刊)によって研究・叙述され、更に、それらを集大成したものとして、昭和四四年から同四六年の間に編集された『愛媛県教育史』全四巻(愛媛県教育センター刊)によって詳しく研究・記述されている。また、影山・景浦・汲円・満田・高須賀らによる諸種の教育史的研究も刊行されている。本章は、これら過去の研究成果をもとに、幕末・明治初期から現在に至る約一二○年間の日本教育の変遷と愛媛教育の伝統と発展の過程を考察し、特に、各教科等の教育活動を中心に、その変遷を制度面から概説しようとするものである。また、あわせて特殊教育・幼児教育・郷土教育・社会教育等教育全般にわたってその推移の概要を記述した。
 教育は、国が施行する教育制度及びそれに伴う教科書制度の変遷に最も密接に関連するが、国内外からの新しい思想や教育思潮の影響も大きく、また、それぞれの地域の特性や住民の欲求なども絡んで多様に変化するものである。
 本章では、これらの教育制度や教科書制度の変革と時代思潮の変移及び愛媛の地域性などを考察して、次のように時代区分を試みた。

 一、幕末・明治維新期の教育
 明治五年(一八七二)「学制」発布以前の伊予八藩の藩校及び寺子屋・私塾などがあった時期の教育

 二、近代学校制度の発足
 明治五年(一八七二)から明治一八年(一八八五)に至る「学制」、「教育令」が施行された時期の教育

 三、近代教育制度の確立
 明治一九年(一八八六)公布の「小学校令」「中学校令」「師範学校令」により、近代教育制度が確立されるとともに、いわゆる明治検定教科書制度が施行された時期の教育

 四、学校教育の整備
 明治三三年(一九〇〇)、明治三六年(一九〇三)と続く「小学校令」の改定に伴う義務教育授業料廃止、国定教科書制度、 同四〇年(一九〇七)の義務教育年限の二か年延長など教育の国家統制が順次確立されるとともに、中等・高等教育諸学校が整備された時期の教育

 五、教育の拡充
 大正初期から昭和初期にいたる国内外の経済不況・恐慌の波を被りながらも、新しい思想や教育思潮の影響を受け、教育研究や実践活動が盛んに行われ、教育方法が充実していく時期の教育

 六、戦時体制下の教育
 大正一二年(一九二三)「国民精神作興ニ関スル詔書」発布、同一四年(一九二五)「治安維持法」、昭和三年(一九二八)「教育振興ニ関スル御沙汰」などにより、次第に教育の国家統制が厳しくなる一方、昭和六年(一九三一)満州事変勃発を契機とする日中戦争、昭和一六(一九四一)遂に太平洋戦争へと突入する戦争拡大から敗戦にいたるまでの戦時下の教育

 七、戦後の教育改革
 昭和二〇年(一九四五)「終戦ノ詔書」発布。無条件降伏、連合国軍の日本占領などを契機として、我が国の教育は大きく転換する。同年のGHQ覚書「日本教育制度ニ対スル管理政策」をはじめ、米国教育使節団報告書、GHQのコース・オブ・スタディの編集命令などを経て、日本政府は同二二年(一九四七)「教育基本法」「学校教育法」を公布。日本の教育制度は、六・三・三・四制、男女共学制へと改革され、戦後の混乱の中にも新教育制度が次第に定着していく時期の教育

 八、新教育制度の進展
 昭和三〇年代以降、数次にわたる「学習指導要領」の改訂により、教育課程及び指導内容が改善され、新教育制度が充実・進展して現在に至る時期の教育