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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 紀行・日記・書簡

 概 観

 紀行には、明治期以来、子規・虚子・碧梧桐らの俳人をはじめ、末広鉄腸・大和田建樹・高橋新吉らの文人、安倍能成・矢内原忠雄・中野好夫らの学者、その他の作品がある。
 明治期前半には、奈良の近衛高鳳尼が松山に旅した歌物語風の旅日記「伊予下りの記」があり、後半には、子規の「かけはしの記」「はて知らず」等の国内旅行記、碧梧桐の「三千里」全国行脚、また末広鉄腸の世界一周旅行記、大和田建樹の二回にわたる郷里宇和島への旅行記など、文人たちの作品が残されている。大正期には、九州日日新聞に連載して好評を博した高群逸枝の四国遍路記のほか、河東碧梧桐・安倍能成・矢内原忠雄らの旅行記が次々と書かれ、新鮮な目でとらえたヨーロッパの風物が紹介された。
 昭和期に入ると、前期には、虚子のヨーロッパ旅行記のほかは、迫り来る戦争への危機を反映して、安倍能成の朝鮮・中国・台湾の旅行、高橋新吉の樺太旅行、矢内原忠雄の南洋群島旅行など、近隣地域に目が向けられるようになった。戦後は、安倍能成・中野好夫・矢内原忠雄・二宮源兵ら学者たちのアメリカ旅行記をはじめ、久松定武・平田陽一郎・山本徳行・井上宗和らの外国旅行記など、世界に広く目を向けた、多くの旅行記が書かれた。また、種田山頭火の四国遍路日記、森連翠の「秩父阪東霊場巡拝道中記」が刊行されたことも忘れることができない。
 日記・書簡には、子規・虚子・加藤拓川・山頭火・前田伍健・矢内原忠雄・宮本武之輔らに、それぞれその人柄をうかがわせるものがある。

 第一期

 明治一三年五月、奈良法華寺住職・近衛高鳳尼が伊予松山石手寺の当住権少教正高志太了に招かれて約一か月の旅をした記録が「伊予下りの記」である。五月二日、西京の近衛家に立ち寄って暇乞いして、「いつしかと思ひし程の旅立も けふのかと出となりにける哉」と旅立った。京都七条より陸蒸汽に乗り大阪梅田に出て一泊。そこから舟で多度津・三津浜に渡り、三日を費してようやく石手寺に着いて、高志教正に迎えられた。
 松山では、温泉に体を休め、また仏事・語らい・遠出を楽しみ、二〇日に松山を出発して帰路についた。道中金刀毘羅宮に詣で、博覧会を見物して、二六日に奈良に帰着、「かへりきて思へば遠きいよの国 舟ちも更に夢のここちせり」と安堵している。文中巧みに歌を詠みこんだ文語体の紀行文で、簡潔な表現の中にも 叙情味あふれる文章である。

 第二期

 正岡子規は、俳句短歌の革新に奔走して、三五歳で夭折したが、明治二二年以来の病身にかかわらず「かけはしの記」(明24)、「はて知らずの記」「鎌倉一見の記」(明26)、「高尾紀行」(明28)などの国内旅行を記している。東北の旅行(はて知らずの記)では、夏の松島を訪れ、「松島の心に近き袷かな」の句を残している。また子規には、漱石・虚子・碧梧桐らをはじめ、親友知友と交わした書簡も多く、真摯な人柄と共にこゝにも俳句短歌革新への強い意欲がうかがえる。
 虚子と共に子規門の双璧と称された河東碧梧桐は、子規没後、虚子と対立して新傾向に進んだが、句仏上人の援助を頼りに、明治三九年から四〇年にかけて東北・北海道に旅し、さらに四二年から四四年にかけては、中部・北陸から中国・四国・九州など西日本全域を廻って、いわゆる全国「三千里」の大行脚を敢行し、一日一信の形で新聞「日本」・「日本及日本人」に連載した。この大旅行によって碧梧桐の主張する新傾向俳句は全国的なものとなった。後に、『三千里』(明43)、『続三千里』上巻(大3)にまとめられ、刊行された。
 政治小説の先駆者・末広鉄腸は、明治二二年、横浜を出発してアメリカに渡り、さらに大西洋を越えてヨーロッパに遊び、東回りにコロンボ・サイゴンを経て神戸に帰る世界一周旅行を行った。これが「唖之旅行」前後続篇(明27合本出版)である。この紀行は、「太平洋ノ船中倶ニ語ルベキ者ナク 日々無聊ヲ極ム 偶々出発前ノ戯言ヲ思ヒ出シ、始メテ稿ヲ起スコトトナリ」道中の見物、失敗の数々をつづって「之ヲ紀行ト為シテ世間ノ喝釆ヲ博セン」とした。前篇は、大平洋を横断して桑港に滞留するまでとし、明治二二年に刊行。後篇は、大陸横断の汽車旅行・紐育・大西洋の船旅・倫敦行までとして明治二四年に刊行。そして続篇は、倫敦を出発してマルセーユ・地中海・紅海・さらにコロンボ・サイゴンを経て神戸に帰り着くまでで、明治二四年に刊行した。序に言う「此行定メテ失敗アラン」の通り、言葉の通じない唖となっての面白い道中記である。
 「鉄道唱歌」の大和田建樹には、東京にあって、郷里宇和島を訪ねた二つの旅行記がある。「ふるさと日記」(歌文集「雪月花」 明30)、「宇和島日記」(紀行漫筆「したわらび」 明35)がそれである。「ふるさと日記」では、明治三〇年四月二日、一〇年ぶりに故郷を目指して、「天つ雁いざいでたたん 故郷にいそぐはわれも同じ心を」と、新橋より汽車に乗る。途中、浜松・神戸に宿泊し、尾道・広島を経て宇品より乗船、三津浜を経て、ようやく六日、郷里宇和島の毛山氏(宇和津彦神社)宅に落ち着いた。「十年あまりわかれし友にあひにけり いざわかかへり昔かたらん」と、友と語らい、墓参・文学講話などに日を過ごして、二四日、帰路につく。船で八幡浜・三津浜・今治・淡路島と進んで、神戸より汽車、名古屋に一泊して帰京している。「宇和島日記」は、三四年八月二日、東京牛込の家を出て、前回同様のコースをたどり、約一か月で「ふるさとの高嶺の空に唯ひとりただよひのこる雲のさびしさ」の歌を残して帰京した紀行文である。
 この時期の日記として忘れられないのは、矢内原忠雄のそれである。矢内原は、明治四〇年七月から昭和二六年四月まで、途中に一部の中断はあるものの、四〇余年にわたって日記を書き残している。内村鑑三の聖書研究会入門、新渡戸稲造の一高校長辞任、父の死、留学、特高警察の来訪のことなど、淡々とした筆致で記されている。明治四五年三月、数年来病床にあった母の危篤を知って

 三月二一日 午后十時半、母危篤の電報、予て期したる事なればさ程にも騒がず。明朝の最大急行にて帰国の途に就かんとす……わが悲観的の態度の不可なるを悟り、母の全快は神意なれば疑ふべからずとの希望を以て長文を認め、父母に発送せしは実に昨夜の十時なりき、あゝ母は必ず治せん われはこの希望を捨つる能はず 母よ母よ 天下に唯一人の母よ 天下に最も愛深き母よ 母よ母よ 母よ母よ

 と書いたが、その痛切なる祈りも空しく、翌二二日に母は他界した。絶望の数日を過ごした空白の後、「四月四日、慟哭三日三晩 我は淡き平安を覚えぬ……」と最も長い文章で悲しみを綴っている。

 第三期

 大正期に入って第一次大戦があり、人々の目は次第にヨーロッパに向けられたが、その時流の中で、河東碧梧桐・矢内原忠雄・安倍能成らが相次いで渡欧し、紀行文を書いた。河東碧梧桐は、大正四年に、江洲伊吹山・妙義山・大山に遊んだ(「日本の山水」 大4)が、七年には中国・香港(「支那に遊びて」 大8)そして九年から一年余にわたって、マルセーユ・ニース・ローマ(「異国風流」)に旅した。
 安倍能成もまた、四年に津軽に旅したが、(「津軽半島より」)一四年には、ローマ・シチリア・ハイデンベルヒ・ウィーン・オランダ・ブタペスト・ベルリン、さらにはギリシア(「旅心」)にまで旅行している。
 矢内原忠雄は、九年八月から一二年二月までの二年半、ヨーロッパに留学し、ベルリン(「ベルリン便り」 大11)、パレスチナ(「パレスチナ旅行記」 大11)に旅行している。矢内原は留学中、友人妻子に対して多くの手紙を書き、妻の愛子には無音を心配し、幼い長男伊作には倫敦動物園の模様を伝えるなど、愛情こまやかな配慮をのぞかせている。
 この時期に、四国遍路の一人旅をした高群逸枝に「娘巡礼記」(大7)がある。高群は明治二七年、熊本県に生まれ、熊本女学校修了。日本女性史の研究家と知られ「高群逸枝全集」全一〇巻を残している。高群は第一次大戦後の不景気が深刻化して米騒動が起こる不安な世情の中、九州日日新聞の後援を得て四国遍路の旅を思い立ち、七年六月、熊本市京町の専念寺を出発した。大分から船で佐賀関、八幡浜に渡り、南に進んで高知に向かうという逆順で遍路の旅を続けた。二四歳のうら若き女性の一人旅は、障害の多いものであった。時に野宿をし、また「冷えてコツコツの御飯に生の食塩では、何うにも咽喉を通らない」苦労の旅が評判となり、一〇五回にわたる連載の道中記となった。

 第四期

 不景気と戦争の暗い谷間の時代に入って、人々の目は、ヨーロッパから次第に、中国・朝鮮・台湾・樺太・南洋諸島と近隣諸国に移っていった。
 高浜虚子は、昭和一一年、ヨーロッパ・中近東を巡る旅(「渡仏日記」 昭11)に出て、各地に吟行し、またオペラ見物・句会などを楽しんだ。巴里では、「我宿は巴里外れの春の月」と詠み、ポツダムでは、ビュルガ姉妹らと句を案じている。更にアラビアの亜典では「亜典とは鬼棲む地かや上陸す」と驚く。虚子はまた、一一年以来「句日記」を刊行し没後の昭和三五年までに六冊句日記を残している。
 安倍能成・矢内原忠雄・高橋新吉らは、この時期、近隣の中国・朝鮮・樺太・南洋群島に旅行している。安倍能成は、三、四年にかけて朝鮮(「京城雑記」 昭3・「京城風物語」 昭4)、中国(「瞥見の支那」 昭3・「済南一宿」 昭4・「ハルピン散策記」 昭4)を旅し、さらに八年には台湾(「台湾風景」 昭8・「蕃社を訪ふ記」昭8)に旅行している。
 矢内原忠雄は、昭和八年から三六年まで、自らの伝導旅行記を「通信」に載せている。南洋諸島・小笠原諸島・ヤップ島等に伝導旅行して、「南洋群島旅行日記」(昭8)、「ヤップ島旅行記」(昭9)を書き、また「満支旅行日記」を書いている。詩をはじめとして、小説・評論にも多彩な才能を発揮している高橋新吉には、「樺太紀行」(昭15)があり、豊原・真岡等を訪ねている。河東碧梧桐は、北海道の狩勝峠・十勝平原の旅行記を「山を水を人を」(昭8)に収めている。
 遍路記には、高群逸枝に再び「お遍路」(昭13)があり、東福寺管長尾関行応の詳細な巡拝旅日記「四国霊場巡拝日誌」(昭11)がある。
 日記・書簡には「拓川集」全六冊(昭5~8)がある。「拓川集」は、外交官・政治家加藤拓川の遺稿集。拓川は、安政六年(一八五九)、松山市に生まれ、司法省法学校中退後、外交官となり、ベルギー公使・特命全権大使などを歴任後、衆議院議員・貴族院議員となる。請われて郷里松山市長を勤めた。日記・書簡はそれぞれ全集の一巻として収められている。

 第五期

 戦後の復興が緒につき人々の心が再び安定を取り戻し始める。アメリカへ、中国へ、そしてヨーロッパへと 貧欲な知識欲を持って次々と旅立って行った。久松定武「南北米だより」(昭33)、平田陽一郎「あめりか・附ヨーロッパ回想」(昭31)、二宮源兵「世界旅行記-古代文化の跡をたずねて」(昭38)、山本徳行「欧米旅日記」(昭39)、井上宗和「地中海紀行」「船とワインと地中海と」「ヨーロッパ・古城の旅」(昭59)などがある。
 安倍能成は、アメリカのシャロッツヴィルに、三人のアメリカ大統領の遺跡をたずねた印象を「シャロッツヴィルを訪う記」(昭28)にまとめ、さらに翌年は新生中国に渡る。国慶節を見、周総理と会い、偶像化されつつある毛沢東を感じ「新中国見聞記」(昭29)を書く。
 中野好夫は、マッカーシー旋風の吹き荒れるアメリカを見て歩き「アメリカ感傷旅行上っ面見聞記」(昭29)にまとめ、さらに翌年、南米ボリビアについて「ある隷属国の悲劇」(昭30)を書いた。矢内原忠雄に「米国日記」(昭25)、「欧米日記」(昭31)があり、その長男矢内原伊作は、昭和二九年から三一年にかけてパリに住み、北イタリアを旅してリルケの墓をたずね「ヴァレリー紀行」(昭51)を書いた。
 外国紀行が陳腐になると伝統ある巡礼の旅が復活する。松田富太郎「四国八十八ヶ所霊場巡拝記」(昭38)ドナルド・キーン「四国さかさ巡礼記」、森連翠「秩父阪東霊場巡拝道中記」(昭43)などが書かれた。
 山頭火の『四国遍路日記』は、昭和一四年一一月一日から一二月一六日までの一月半の旅日記。大山澄太によれば「四国へんろとしての正装もせず、ただ着物にへこ帯で、しりからげに地下足袋はいて無笠、さんや袋だけを首に吊している」乞食の風体で、まことに惨めな旅であった。その後、山頭火は松山の一草庵に定住し、「松山日記」(昭和一五年二月一一日~八月二日)、「一草庵日記」(昭和一五年八月三日~一〇月六日)を記し、八月一一日ここで没した。山頭火には多くの俳友に書き送った手紙が残されている。丁重な言葉遣いで心をこめたものが多い。
 日記には企画院次長宮本武之輔「宮本武之輔日記」二二巻(昭46)、愛媛川柳文化連盟の会長前田伍健の「たぬき日記」(昭31)などがある。