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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

1 映画脚本

 映画は昭和のはじめ頃から演劇の主流としてひろく大衆娯楽の王座を占め、俳優は時の顔でもあった。無声映画からトーキーに、さらにカラー映画に、ワイドなスクリーンに、世の流れを映し出していった。しかし、テレビの普及によって、昭和三〇年代後半ごろからその王座をブラウン管にゆずっていく。しかしながら、映画愛好者は依然として根強く、映画そのものも新しい企画や技法によって問題作を提供している。映画の制作は業者・制作者・脚本家・監督・俳優・カメラマン・美術家・音楽家などの総合によって創作されるものであり、脚本家は監督のためにのみ、あるいは俳優のためにのみシナリオを書くのではない。すぐれた映画を創作したいために脚本を書く。伊藤大輔・伊丹万作・佐伯清など、愛媛出身の映画監督はそのいずれもが脚本書きから出発した。

 伊藤 大輔

 伊藤大輔(明31~昭56 宇和島市出身)昭和五二年春の日本シナリオ作家協会総会で第一回の「シナリオ功労賞」を受賞した。松山中学校を卒業。呉海軍工廠の製図工、筆耕業など転々とするが、この間、小山内薫と文通をつづけ、その師風に傾倒して上京し、松竹キネマ研究所に入る。「新生」(ヘンリー・小谷監督)、小唄映画「水藻の花」「女と海賊」などのシナリオを執筆してその才能を発揮し将来を期待される。小山内の門下生には、のちに日本映画の指導者となる村田実・牛原虚彦・島津保次郎、北村小松などがいたが、伊藤は松竹脚本部にあって「酒中日記」「山の線路番」「なすな恋」その他の脚本を書き、帝キネに移って(大12)「酒中日記」を初監督した。以来五〇余年にわたって活躍する。帝キネでは約三〇本の脚本・七本の監督作品をつくり、東邦映画製作所・連合映画芸術家協会・伊藤映画研究所を経て日活京都へ入社する(大15)。大河内伝次郎と組んでの「長恨」(大15)と「忠次旅日記」三部作(昭2)での人間描写、阿部五郎主演「下郎」での移動撮影は映画の主題と手法に文学的視点を与えたものであった。「血煙高田の馬場」「新版大岡政談」「一殺多生剣」「新人斬馬剣」などはこうした系譜のうえにある作品といえる。戦争中は新興キネマから大映の永田雅一のもとにあり、戦後も日本の独立に至るまでは不振な時期であった。本来の持ち味を生かして晩年の活躍を示すのは阪妻を使っての「素浪人罷通る」「王将」であった。内田吐夢の最後の監督作品「真剣勝負」ではその脚本を執筆し、武蔵と闘う宍戸梅軒を描いたが、撮影中、吐夢は世を去り友情を実らせることが出来なかった。前記以外の代表作に「続大岡政談・魔像篇」「素浪人忠弥」「興七新選組」(昭5)、「侍ニッポン」「御誂次郎吉格子」(昭6)、「明治元年」「薩摩飛脚・東海篇」(昭7)、「丹下左膳・第一編」「堀田隼人」(昭8)、「唄祭三度笠」(昭9)、「新納鶴千代」(昭10)、「四十八人目」「あさぎり峠」(昭11)、「剣豪荒木又右衛門」(昭12)、「鞍馬天狗」(昭17)、「決闘般若坂」(昭18)、「東海水滸伝」(昭20)、「山を飛ぶ花笠」(昭24)、「遙かなり母の国」「われ幻の魚を見たり」「レ・ミゼラブル」(昭25)、「獅子の座」(昭28)、「番町皿屋敷・お菊と播磨」(昭29)、「明治一代女」「王将一代」(昭30)、「女と海賊」(昭34)、「切られ与三郎」(昭35)、「秘剣揚羽の蝶」(昭37)、「徳川家康」(昭40)、「幕末」(昭45)などがある。

 伊丹 万作

 池内義典(明33~昭21 松山市出身)。それまでの日本映画にはかってなかった散文精神の持ち主として、死後四〇年の今もその映画を通じて追慕される。松山中学校に二歳年長の伊藤大輔がいた。回覧雑誌「楽天」を作り生涯を通じての親友となる。卒業して父の仕事により樺太に行くが半年にして東京に出て洋画家たらんと志し、伊藤の下宿三畳に同宿し、池内愚美と号し少年雑誌に挿絵を描く。兵役除隊後、松竹で脚本を書きはじめていた伊藤の下宿に再び同居する。伊藤の帝キネに移るに及び伊丹は松山に帰りおでん屋「瓢太郎」を開業するも失敗、上京の途次京都に伊藤を訪ね三たび同居し、伊藤にすすめられて脚本を書き俳優として映画出演したりする。千恵蔵プロの発足にともない稲垣浩の処女監督「天下太平記」の脚本を書き、助監督をも兼ねた。これを機として同プロに入社、自作脚本により「仇討流転」を監督し、そのまま監督に転向する。文才にぬきんで特異な脚本を書き次第に映画界の注目をあびるが、虚弱な体質は映画監督の激しい消耗に耐えず療養のため松山に帰り(昭4)、わずかに友人監督のため脚本を執筆して自らを慰めていた。しかし意外に短期間のうちに京都にかえり、引きつづいて千恵蔵プロ作品「逃げてゆく小伝次」(昭5)、「国士無双」「研辰の討たれ」(昭7)、「刺青奇偶」(昭8)、「武道大鑑」(昭9)と快調に作品を制作し、ついで「忠治売出す」(昭10)、「赤西蠣太」(昭11)と年間最高級の傑作を送り出した。日独合作映画「新しき土」日本版監督となりファンク博士に協力したが成功したとはいえなかった。再び病魔におかされ戦時を耐えるが敗戦の翌年、伊藤大輔に見守られて逝く。執筆した脚本を列挙する。「花火」「伊藤主水」「草鞋」(昭2)、「天下太平記」「源氏小僧」「仇討流転」(昭3)、「絵本武者修業」(昭4)、「春風の彼方へ」「源氏小僧出現」「逃げ行く小伝記」(昭5)、「御存知源氏小僧」「金的力太郎」「花火」(昭6)、「忠臣蔵」(昭9)、「忠治売出す」「気紛れ冠者」(昭10)、「木綿太平記(日暮硯)」(昭18)。脚色監督、もしくは脚色したもの(・を付す)に次のものがある。吉川英治「・金忠輔」(昭4)、林不忘「・元禄十三年」伊勢野重任「国士無双」(昭6)、村松梢風「闇討渡世」木村錦花「研辰の討たれ」長谷川伸「刺青奇偶」(昭7)、佐伯清「渡鳥木曽土産」(昭8)、山手樹一郎「武道大鑑」長谷川伸「江戸ッ子神楽」(昭9)、志賀直哉「赤西蠣太」(昭11、金子洋文「故郷」 岡本綺堂「権三と助十」(昭12)、レ・ミゼラブル「巨人伝」翻案脚色監督(昭14)、岩下俊作「・無法松の一生」(昭16)、山本有三「・不惜身命」(昭17)、田村一二「・手をつなぐ子等」(昭19)、依田義賢「・東海道中膝栗毛」(昭20)など。

 佐伯  清

 (大3~ 松山市出身 東京都在住)資料編文学の「愛媛文学人名録」の資料回答の主要作品欄に、佐伯は次の脚本を記入している。原作「渡り鳥木曽土産」(昭8)、脚本「大利根の夜霧」(昭24)、「恋の蘭燈」(昭25)、「残侠の港」(昭27)、「殺人現行犯」(昭31)、「抜打浪人」(昭33)、「大岡政談」(昭34)、「風雲六十二万石」(昭35)。純文芸的なと思われるものが少ない。多種多様な映画を監督しているが、それらは良心的娯楽映画といってもよい。佐伯は松山中学校を卒業すると大先輩伊丹万作の弟子となり脚本の指導をうける。師伊丹の監督で佐伯の脚本「渡鳥木曽土産」が映画となる(昭9)。この年、伊丹の推薦で千恵プロに入り、伊丹の助監督となる。以後、日活太秦・新興キネマ・千恵プロ・JO・東宝と転々、終始伊丹に全力を傾注して従った。海軍報道班員として南方戦線に従軍、復員後は東宝映画撮影所(~昭24)、東映東京撮影所(昭24~52)、以後フリー。東宝での監督起用「エノケンの天晴れ一心太助」は娯楽編である。監督作品群の中には「悲劇の将軍・山下奉文」の戦記伝記もの、「夕陽と拳銃」などの仁侠大陸もの、「東京べらんめえ娘」などの美空ひばりもの、「昭和仁侠伝」シリーズから「新網走番外地・さいはての流れ者」にいたるやくざ路線、「富士山頂」「望みなきに非ず」「早稲田大学」「花と竜」のわずか四本ではあるが文芸もの…など幅広い映画を作っている。

 棚田  吾郎

 本名慎吾(大2~ 宇和島市出身 東京都在住)電機学校卒後、関東配電入社。兵役五年後復員、大映入社。「シナリオ文芸」に掲載された脚本「わたしの東京」は、ひっそりと人の心に沁みる細々とした善意に満ちたシナリオとして好評であった。「君かと思いて」の原作執筆(脚本八木沢武孝 監督島耕二 折原啓子・若原雅夫主演 昭21)。脚本「花咲く家族」(監督千葉泰樹 若原・折原・三条美紀・小林桂樹・相馬千恵子)は小市民の哀歓を描いた生活派抒情というべきシナリオであった。この外の主要な脚本に…「轟先生」(島耕二)・「いつの日か花咲かん」(牛原虚彦)=昭22、「美しき豹」(千葉泰樹)=昭23、「歌の明星」(佐伯幸三)=昭24、「妻の部屋」(滝沢英輔)・「戦慄」(関川秀雄)・「レ・ミゼラブル 前・後篇」(伊藤大輔)・「ジルバの鉄」(小杉勇)・「天皇の帽子」(斎藤寅次郎)=昭25、「限りなき情熱」(春原政久)・「熱砂の白蘭」(木村恵吾)・「赤道祭」(佐伯清)=昭26、「白蘭紅蘭」(仲木繁夫)・「慶安秘帖」(千葉泰樹)・「思春樹」(丸山誠治)・「上海の女」(稲垣浩)=昭27、「彼女の特ダネ」(仲木繁夫)・「人生劇場 第二部」(佐分利信)・「蛇と鳩」(春原政久)・「新妻太閣記 第一部・第二部」(萩原遼)・「安五郎出世」(滝沢英輔)・「風雲八万騎」(佐々木康)=昭28、「慕情学生五人男」「鳴戸秘帖前・後篇」(渡辺邦男)・「どぶ」(新藤兼人と協同)・「若い人たち」(新藤と共同・吉村公三郎)=昭29、がある。シナリオ作家文芸同人誌「凧」同人として活躍する。

 野田 真吉

 (大2~ 八幡浜市出身 東京都在住)。詩感覚を持った革新的制作者として独自の記録映画を制作する。東宝に入社(昭13)するが、営業映画を忌避し文化映画部に所属する。農村の住宅・子供に遊び場をーなどの記録・キャンペーン映画を撮る。満州より復員後、東宝労組書記長。東宝スト後退社。前近代的な産業構造・国内市場向け制作態度・徒党的カツドウ屋社会による映画界から離別し、今日明日の課題を追求する真の映画を制作しようとする。下北半島漁村生活を記録した「忘れられた土地」、事件の経過と問題点をとらえた「松川事件」、国際グランプリ受賞「マリーンスノー」(昭35)、自立映画への指向を試みた「まだ見ぬ性」「ふたりの長距離ランナーの孤独」などのほか、「安保の怒り」「モノクロームの画家 イヴ・クライン」「くずれる沼―画家山下菊二」「ゆきははなであるー新野の雪まつり」があり、「東北のまつり三部作」「冬の野の神々の宴」は民俗的作品である。著書に『日本ドキュメンタリー映画全史』(昭59)がある。

 伊勢野重任・坂本忠士

 戦前、東京にあって原作・脚本を書き、戦後、松山に定住した脚本作家に伊勢野・坂本がある。両者とも松山定住後は地方放送局のための放送台本を書いた。とくに坂本はNHKのラジオ劇場その他の放送台本を長期にわたって多数書いた。「ローカル放送」の項で詳述する。伊勢野重任(明36~昭57 松山市)は「国士無双」(監督脚本伊丹万作 主演片岡千恵蔵)の原作を書いた。にせものの伊勢守がほんものの伊勢守をやっつけるという逆説的なおもしろさがある。松山中学校で伊丹より四年下級。伊丹との縁で千恵プロに入り(昭6)、前記のほか「小市丹兵衛」「足軽出世物語」などの秀作を出した。寡作であるが洒落た作風を持っていた。このほか「珍説天保水滸伝」(昭42)や「城」(昭44)などを残した。
 坂本忠士(大7~ 松山市在住)は松竹大船脚本研究所第五期生を経て日活多摩川脚本部入社(昭16)、合併により大映社員、退社(昭23)してフリーとなる。館岡謙之助に師事し確かな構成力を学び誠実な脚本を書く。主な脚本に「別れも愉し」(田中重雄 昭20)、「花嫁の正体」(西村元男 昭21)、「妻の部屋」(滝沢英輔 昭23)、「毒牙」(春原政久 昭24)などを書いている。

 金子正次・井上真介

 ニューファミリー世代のやくざを描いた自主制作映画「竜二」が東映セントラル配給で全国ロードショーされた(昭58・12)。金子正次(本名松夫 昭24~58 中島町出身)は松山聖陵高校中退、上京し原宿学校(現・東京映像芸術学院)に在籍。劇作家内田栄一主宰「東京ザットマン」の舞台で主演、映画に転身するも胃がん手術。競馬ノミ屋の生態を描いた脚本「ちんぴら」を書く。「竜二」の脚本作者鈴木明夫は正次の筆名、主演も正次、監督は川島透(本名大石忠男)。金と出世欲だけで動くやくざに、ふと、うとましいものを感じた竜二は、やくざ社会の落ちこぼれとして堅気の人間になろうとする。いわば、やくざの内部から市民社会へと〝恐怖の一歩〟を踏み出して行くソフトなやくざ物語である。その演技は体験を基調にした本格派で、渡哲也をしのぐと賞讃されたが、封切八日後にがん性腹膜炎で死亡。
 井上真介(昭23~ 宇和島市出身)はNHK・松竹テレビ室・東映を経てフリーとなる(昭54)。東映で関本郁夫監督のシノプシス(梗概)「狙撃者のバラード」を脚本に書く。中島丈博ぷろだくしょん制作映画「夏のわかれ」を監督する(昭56 美術監督山下宏・大洲市出身 録音矢野勝久・長浜町出身)。

※山本薩夫(明43~昭58 鹿児島県生)松山第一尋常小学校入学(六歳)、松山中学校入学(一二歳)。早稲田大学中退(アート・オリンピヤード事件で検挙され中退を命じられる)。松竹蒲田撮影所入社。「お嬢さん」「熱風」「丹下左膳」を監督。応召、復員後、「戦争と平和」「真空地帯」「日の果て」の反戦三部作、「暴力の街」「人間の壁」「松川事件」「白い巨塔」「華麗なる一族」「金環蝕」「不毛地帯」「皇帝のいない八月」の社会派映画、「箱根風雲録」「赤い陣羽織」「忍びの者」などの時代ものを制作する。少年時代を過した松山では、長兄の友人であった伊丹万作・伊藤大輔・重松鶴之助・中村草田男の感化をうけた。自伝に『私の映画人生』(昭59)がある。