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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 謡曲・浄瑠璃

 謡曲は能楽の詞章であり、脚本である。能と狂言とを総称する能楽は猿楽の演目として併演されてきたが、明治以降、猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名に置きかえられた。狭義には歌舞劇の「能」のみを指すようになった。

 謡曲通解  大和田建樹

 能の詞章である「謡曲」に着目して集成・解説・刊行したのに大和田建樹(安政四 一八五七~明治四四 一九一一 宇和島市出身)である。『謡曲通解』八冊(明25・1)・『狂言評註』(明26・4)・『謡曲評註』(明26・7)・『謡曲通解』(明29・11)・『謡曲文粋』(明32・1)・『謡と能』(明33・8)・『能のしをり』(明36・3~37・I)・『謡曲評釈』九冊(明40・9~41・9)のほか『花伝書』『謡曲玉淵集』『謡曲手ほどき』『能謡秘訣』などがある。

 能楽盛衰記  池内 信嘉

 池内信嘉(安政五 一八五八~昭和九 一九三四 松山市出身)は父政忠(下掛宝生流)の遺志をついで松山能楽会を興し、東雲神社演能を継続し、能舞台を改築するなど能楽の振興につとめた。自身もシテ方・喜多流謡手の名手であった。明治三五年上京し、雑誌「能楽」を発刊するとともに能楽研究会の組織化に努めた。著書に『能の説明並に附図』『能と謡の根源』『能楽盛衰記』、編著に『能楽古典世阿弥六部集』『能楽古典禅竹集』などがある。なお、信嘉は虚子の次兄であり、池内たけし(洸)の父である。

 和 霊  斎藤  晌

 斎藤晌(明31~ 宇和島市出身)は新曲「和霊」を創作し、宇和島市大宮ホール特設舞台の「和霊」奉納能楽会で発表した(昭37・5・20)。能楽評論家沼草雨は「歌舞伎で『君臣船波宇和島』として、故実川延若で見ている者には、その能楽化には大きな興味がある。この新作が永遠に伝え
られることを信ずる」と祝した。この日、二五世宗家観世元正ほか狂言師・囃方など三七名が出演した。「和霊」は和霊神社祭神山家清兵衛公頼を奉讃する謡曲である。祭神の事跡については、すでに末広鉄腸が『南海の激浪』で小説に描いていることをふまえて、ワキ鉄腸居士を登場させ、漁夫姿のシテに祭神の事跡と最期を尋ねる。漁夫は詳しく語る。余りにも明確な語りにいぶかる鉄腸居士に、漁夫は実は自分が公頼なのだと名乗る。最後は「山頼和霊大明神の神徳ぞ尊っとかりける」と謡いおさめる。

 ワキ 鶴の島なる故郷の、鶴の島なる故郷の、和霊の神に参らん。これは予州和霊明神の御事跡を、世にあらわさんと宿願のもの鉄腸居士にて候。我、久しく和霊の宮居にも参詣申さず候ほどに、このたび思い立ち伊予路に下向つかまつり候。春すぎて夏来にけらし白妙の、夏来にけらし白妙の、衣の袖も軽ければ、瀬戸の内海打ち過ぎて、潮満ちわたる佐多岬、群がる千鳥かもめ鳥、飛び立つ思いのいよいよに、伊予路の果ての泊まりなる、はや宇和島に着きにけり。 シテ・ツレ 西の海、立つ白波の上にして、何すぐすらん、仮の世を。 シテ 静かなる暁ごとに見わたせば、まだ深き夜の夢ぞかなしき。 シテ・ツレ 宇和の海、海の門わたる明け暮れに、釣りのいとなみなかなかに、ひまも波間の海士小舟、浮き沈み来ん世はさてもいかにぞと、来ん世はさてもいかにぞと、心に問いて答えかね、思いつらねてながむれば、むなしき空に一片の、消ゆる白雲おぼつかな、有明空にありきつつ来つつ見れども、いさぎよき人の心を忘れめや、人の心を忘れめや。 ワキ いかにこれなる尉殿、御身はこの浦の人にて候か。 シテ さん候、この浦の漁夫にて候が、朝な朝な沖に出で釣りを垂れ候、これはこのあたりにては見なれ申さぬ御事なり、いかなる人にて渡り候ぞ。 ワキ これは宿願の仔細ありて都より立ち帰りたる鉄腸居士にて候、まずまずこれなる渚を見れば、沖つ風吹きにけらしなと詠まれたる、白波ならでかしこくも、白木綿かけて二本の大旗幟をなびかせたり、こはそも何と申したることにて候ぞ。 シテ これは和霊明神御神輿の渡り給うよすがにて候。 ワキ かかる荒磯に御神輿の渡り給うはいかに。 シテ その昔御祭神山家公頼御遭難のみぎり、御内室ならびに御嫡子善兵衛の北の御方、この浦わよりのがれ給いし因縁あり。 ワキ さる因縁の候か。さても和霊の神と祭られ給うご縁起を、ご存じ候わば、くわしく御物語り候え。(後略)

 新作謡曲「兎狩」  松木幹一郎

 松木幹一郎(明5~昭14 東予市河原津)逓信省・鉄道院・東京市電気局長、山下汽船副社長、帝都復興院副総裁、台湾電力社長。明治二〇年、第三高等中学校入学。回覧雑誌「法一会叢誌」に「新作謡曲 兎狩」を発表(明25・5・16 21歳)。東京法科大学法学科入学(明25・9)。「兎狩」は高等中学校最終学年の松木が書いた謡曲である。いささか稚拙で戯作じみてぃるが、明治二〇年代半ばの青年の志向の一斑をうかがわしめる一つの資料であろう。(「松木幹一郎」 昭16・9・21・松木幹一郎伝記編纂会)

  名にしをふ鴨の川底流れゆく水に玉ちる夕月夜丸太橋をば打渡り越行方を見渡せば見渡す野にも山にもをく霜のしろき光りをたどりつゝ野路の細道踏分けて疏水の橋も過ぎ行きつ爰は都の名所なる南禅寺に早く着にけりけり 緩々参り候程に二夕時あまりにてやうやう此處に着て候いでや去年の此頃兎狩のありし跡尋ねばやと存候 おのづからうさぎかりばとなりにけり吉田黒谷南ぜん寺町も野原も竹簸も林小山もちりぢりと散るに程よき處かな 夫れ兎狩の名所多しと雖大悲の擁護あればにや此あたりにしく場所はなし野きわまれば山の上に山きわまれば野にはしる縦横自在の通筋にちるてふものは千早振神のみ庭の雪なれやなれ 如何に夫成方に尋ね申可きことの候 何と此方の事に候か何事にて候ぞ 去にし年兎狩のありし時の物語委しく語りたまえや さむ候さても我が法一會のめんめん春季大會を催さばやとて年は去年所は此邊り頃も五月の初め頃野山の木々の梢には若緑葉の色添へてそら麗はしき日なりけり總勢凡二十五騎南禅寺に本陣をかまへ時を計りて進みゆく駒の蹄にかゝるなる誰白かみの散かふは勿來の關の昔話 夫は前途の悲しみに引かへ是は望みもいとおふきのCash半ダスのいさをしに其名を後にのこさんとはやりおの面々縦横無盡にかけ廻れ共兎もさるもの彼方にあると思へば此方にうつり右と見れば左野と思へば山かける姿も見せざりけりさる程に追々時も過きぬれば敵も味方も戦ひあぐみて見えけるがなにがし坂のあたりにて四兎の一人阿邊太郎は鈴木の次郎に生どられ堺の住人八
星のなにがしは敵二騎におつかけられしもあれ獅子のあれたる如く山道小笹原の差別なくかけり廻してにげにけり其外二人はあるは茶畑あるは草叢おもひおもひの場所取りして功名たぐひなかりけりまひるより四時あまりの戦の物語し慰まんと吉田山の頂につどひ菓子あまた打くらひ敵も味方も分ちなくたのしむ昔の面白さに今年も又も催さんとてそれがし兎に當りければ地勢をしらべ置かんとてかくはさすらひおるぞかし」と言ふかと思へばかなたなる下宿屋の中にかけこみアット見る間にかきけす如く姿は早く見えざりけりけり。

 古岩屋霊験記  渡 里

 浄瑠璃は平曲や謡曲などを源流とする音曲をともなった語りものである。琵琶や扇拍子を用いて語られた音曲のうち「浄瑠璃姫物語」十二段草子はひろく民衆に迎えられたので〝浄瑠璃〟はこの種の語りものを代表する名となり、三味線・人形まわしと結び民衆劇として発展した。音曲は、初期に金平・播磨・加賀・説教などの節づけの古浄瑠璃が盛んであったが、元禄の頃、竹本義太夫が諸音曲を集成して義太夫節を完成させ、また近松門左衛門と組み人形浄瑠璃を確立させた。以来、義太夫節は〝浄瑠璃〟の異名となる。
 浄瑠璃は歌舞伎とともに近世の民衆娯楽の双璧であり、近代に至っても明治・大正期にはその王座を占めていた。巡業の一座が農村にまで入りこんでいたことは鬼北文楽(広見町出目)の人形がもと淡路人形芝居上村平太夫座の解散によって購入されたものであることによっても推察される。そのほか、伊予源之丞(松山市古三津)大谷文楽(肱川町大谷)朝日文楽(三瓶町朝立)俵津文楽(明浜町俵津)などはすべて、人形頭と衣裳道具一式がそれぞれ県の有形民俗文化財として指定されている。ことに明治期には〝浄曲〟として娯楽教養に受容され、公演によって東西番付表が作成されて石手寺・大宝寺などに奉納されるなど盛況であった。
 古岩屋霊験記は、眼病を患う勝次郎が妻子とともに岩上より身を投げるが、大師の霊験によって命助かり開眼するという一幕物である。「壷坂霊験記」を模した筋立てであるが子供づれであることにわずかながら創意がある。
 作者〝渡里〟は、渡部里一、すなわち渡部紋平(明治2・10・15~昭和19・7・17)である。久万町下畑野川に生まれ、青年期に武智樹心に漢学を学び、酒造業を営み、川瀬村長をつとめた。この霊験記創作の意図は古岩屋を観光地として宣伝することにあったといわれる。原本は喪失、渡部満尾筆写本を神野昭が校訂したものが、その著『久万高原の文学と伝承』(昭和52)に収録されている。明治後期の執筆と推測されるが制作年は明らかでない。