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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 絵本・漫画

 絵本・漫画

 絵本・漫画は純粋に児童文学の領域に位置付けられるものではない。かつて、絵本は作家の書いた文章に、従属的に画家が絵をつけたもの、と考えられていた。いまでは玩具的絵本は別にして、絵本は編集者と作家と画家の共同制作が常であり、画家の領域として主導権を主張する傾向さえある。全く文字のない絵本すら珍しくない。いずれにしても、絵本は子どものために創造されるのであるが、なかには大人のために(アダルト絵本)意図されるものがあって、絵本の概念は一率には決め難い。
 漫画もまた、近ごろの少年少女雑誌を覗くとき、「のらくろ」から「鉄腕アトム」の時代の「無邪気な子どものため」といった認識は根底からくつがえされる。大学生や社会人になっても漫画を離れない若者が存在する。メディアとしての漫画が質的に変貌していることを知らねばならない。
 この項では、児童文学周辺に位置する前述のごとき、さし絵・絵本・漫画をとりあげる。

 さし絵

 昭和初期の流行歌「銀座行進曲」に「……華宵好みの君も行く」という一節がある。
高畠華宵 明治四〇年、久留島武彦の「お伽劇団」に加入、巌谷小波らとの交友もあった。明治四三年「華宵」と号し、以後「中将湯」のシンボル中将姫を画き、広告絵の先駆者となる。大正から昭和にかけて講談倶楽部 少女倶楽部 少女画報 日本少年 婦人世界 少女の友 朝日新聞などにさし絵を載せ、詩情豊かな〝華宵調〟で一世を風靡した。「華宵抒情画集」「華宵愛吟詩画集」などの画集も多い。東京都本郷弥生町には華宵碑がある。

 絵本

 天野祐吉 「マドラ出版」のオーナー、「広告批判」誌の編集長として、広告を媒体として現代の文明を尖鋭に切りこんでいる。戦後の一時期、松山で「放送子ども劇場」などの台本を書くなど多彩な仕事を残している。絵本作家としては主として福音館書店などにより第一線のすぐれた仕事をしている。『くじらのだいすけ』(福音館) 『わたりぼうこ』(昭49・ポプラ社) 『絵本虫問答』(昭53・二人社) 『ぬくぬく』(昭55・福音館) 『とんとんとん』(昭58・福音館) 『あるのにくれないけちんぼう』(昭58・福音館) のほか、雑誌「母の友」に 「ひしゃくぼうこ」(昭46) 『一つの目』(昭51)などを描き、子どもの本の専門家としての領域を持っている。意外でもあるが、彼の新しいセンスからすれば当然のことのようにも思える。
 長野ヒデ子 太宰府在住のころ、九州の児童文学誌「小さい旗」の同人として絵を担当。『おばあさんの童話』(昭53・葦書房) 『ヒコくんとサイレンミコちゃん』(昭54・PHP図書出版)  『なんのんにんのん』(昭55・大日本図書) 『とんでったとんでった』(昭56・PHP図書出版)など、人柄がそのままにじみ出たような暖かい画風である。『とうさんかあさん』(昭55・葦書房)は文並びに絵。この作品で全国学校図書館協議会・読売新聞社主催の第一回日本の絵本賞文部大臣奨励賞を受賞した。今治の高校時代より二紀会会員高階重紀に師事。「布の絵本研究会」会員。手づくり絵本の普及につとめている。
 大西伝一郎 椋鳩十に師事し、椋鳩十の『町をよこぎるリス』(昭52・ポプラ社文庫)の解説を担当。また「母と子の二十分読書」運動をすすめるなど幅広い活動をしている。昭和五一年、ポプラ社の「おはなし創作えほん」シリーズに『たぬきと人力車』を書いた。伊予西条の遠浅の海を沖の船まで客を運んでいた人力車と、戦争で父を失った友人の思い出を、タヌキの地方伝説と融合させたローカル色あふれる作品である。少し、文名が出ると野心を持って上京する者が多い中で、あくまでも故郷に定着して創作活動を続ける貴重な童話作家である。
 黒河松代 戦争中今治在住のころの蒼社川をイメージに描いたという『あやのねがい』(昭44・金の星社・絵赤坂三好)がある。
 井笹久美 上智大学でポルトガル語を専攻。在学中の海外研修でポルトガルの民話を収集。訳も絵も自筆の『悪摩の施し箱』(よい悪魔なので摩と訳した)を昭和五四年、自費出版。帰郷後南海放送に勤めながら『アンゴラの民話』(昭57・訳と絵)を自費出版。概念にとらわれない大胆な絵が民話の味わいを深めている。
 足助威男 東京都出身。松山に在って「一遍」の顕彰につとめ、その研究家として一家をなしている。絵本『一遍さん』(昭54・緑地社)を出した。毛筆一色の絵は素朴で、この聖の生涯にふさわしい。子どもたちばかりでなく大人にも一遍の精神をわかりやすく伝えてくれる。
 河野正文 民俗研究家として知られているが、郷土の大西町宮脇の観光化以前の祭礼に深い愛着をもち、次代の子どもたちへの伝承に努力している。宮脇には獅子の立芸・奴のふり・やぐら連中と独自のものが保存されている。この郷土の民俗芸能を伝承・創造する熱意をこめて、芸能山城組の協力を得て『獅子口伝こだま』(昭55・宮脇獅子保存会)を刊行。河野正文・空飛光一・荒井秀雄の共同制作。子どもたちにわかりやすい文と絵による絵解きは異色で質の高い絵本となっている。
 矢上シン絵・渡辺美佐子文。夫妻の共同制作になる絵本『オカピ』(キリン科の動物)は昭和五五年、名古屋市で自費出版された。寓話風のストーリーだが、テレビづけの子どもたちが、一人でも絵本を楽しむようになってほしいとの念願がこめられている。渡辺は宇和島市出身。
 平井辰夫 名古屋市出身、ずっと西条市在住。洋画家・詩人としても著名。その資質を注いだ豆本民話絵本は昭和五一年から五二年にかけて二七冊刊行。『鬼太郎ばなし』『おはぎ地蔵』など絶妙な語り口で、ウイットに富んだ創作民話。毛筆描きの土俗的で軽妙な絵は独特の世界を創り出している。さねとうあきら等からも高い評価を受けている。発行所は「草鞋社」(自宅)。
 『えほんえひめのむかしばなし』は、第一巻(昭55)第二巻(昭56)第三巻(昭57)と南海放送より刊行。講談社の絵本風なスタイルで、監修は県教委幼児教育室と和田茂樹愛媛大学名誉教授。文は森幸子ら、絵は鷹尾浩一郎ら。県内の教員が文と絵を分担執筆。幼児や小学校低学年の子どもたちをふるさとの民話昔話に親しませようとの意図は成功。県下に広く迎えられた。
 『えほん風土記えひめけん』(昭55)は、岩崎書店のシリーズの一冊として刊行。執筆は大西伝一郎・宮野英也・吉田信保、画家は中西俊佳、絵地図中村まさあき。表紙は道後温泉、扉に松山城、本文の絵もすべて銅版画で、行事・産業・民俗から、ロシア兵の墓・岩陰 古照遺跡・だんだん畑・トッポ話まで取りあげ、タイトルにふさわしい内容となっている。
 『おこり地蔵』は山口勇子が広島原爆被爆体験者としての憤りと平和への願いを描いた童話である。モデルになった石地蔵が、いま松山市の龍仙寺に移されているゆかりにちなみ、絵本『おこりじぞう』(昭57)が松山市から発行され、県下の全小学校に一クラス分四五部ずつが贈られた。愛媛原水協などを中心とした「おこりじぞう」編集委員会編。絵は宇和島市の三輪田俊助である。

 漫画

 松本零士・谷岡ヤスジ・松本覚は現代日本の代表的漫画家であり、しかも県人だが、必ずしも子どものための漫画と言えない作品が多い。
 松本零士 福岡県出身と紹介されているが、父は長浜町、母は大洲市新谷の人であり、少年時代疎開して郷里に在った。「大洲盆地にボクのすべての根源がある」と語っている。自伝漫画『昆虫国漂流記』(青林堂)には敗戦までの時期を過ごした故郷での体験が投影している。『男おいどん』『スーパー99』など作品も多いが、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』などにより昭和五〇年代のスーパースターとなった。プロダクション「零時社」主宰。(「押川春浪」の項参照)
 谷岡ヤスジ おとなしいナンセンス漫画から突然変身、「アサー オラオラ」など破天荒なナンセンスギャグ漫画で反常識的表現を駆使、独自の世界を創る。「少年マガジン」「ヤングジャンプ」誌に「ヤスジのメッタメッタガキ道講座」「ド忠犬ハジ公」などを連載。最近の「村もの」には故郷南宇和郡一本松町の風土が投影されていると語っているが、まさに南予人ならではの発想といえる。昭和五八年、第二九回文芸春秋漫画賞を受賞し、素直に喜びを表していた。選者の山藤章二は「百年にひとりのド天才」と評した。
 松本覚 愛媛新聞連載の家庭漫画『三丁目のひと』で子どもたちをも楽しませたが、「子どものための漫画は全く意識していない」という。私家版『松本覚漫画集』などを経て、昭和五八年、一枚もの漫画による社会・政治・風俗への鋭い諷刺復活の流れに先鞭をつけた。この作品集は、昭和五八年度第二回マンガ・オスカー賞(手塚治虫選考委員長)を受賞した。
 井手真由美 松山商大在学中の昭和五二年、『わずか一か月の悲劇』で第一四回「なかよし・少女フレンド」新人まんが賞佳作受賞。以後、代表作といわれる『恋する夏はメランコリー』(講談社)『そよ風さんは見えますか』(講談社)などで少女漫画界にデビュー。「なかよし」誌に連載など、活発に活動。ガリ勉・おちこぼれ・転校生など少女コミックの定石をテーマとしながら、競争者の多いこの世界でファンを確保しているのは立派である。ほかに『なんとかしなくちゃ!』『野性の君に首ったけ』等、作品は多い。
 中原とほる 山口県出身。整形外科医長として住友別子病院に勤務し、ストーリー漫画を描く。『点とりむしのサンバ』(昭55)で第二五回「少年マガジン」新人漫画に入選、同誌に掲載。異色の漫画家である。