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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

2 戦記文学

 凄惨苛烈を極めた日露戦争を身を以って体験、旅順戦に参加し負傷した経過をリアルに描いた桜井忠温の『肉弾』と日本・ロシア両海軍の死闘-日本海海戦を真正面から描いた水野広徳の『此一戦』は、明治戦争文学の双璧と称せられている。この二つの作品が、いずれも松山出身の陸海軍人の手になったことは奇しきことである。

 肉弾 ほか  桜井忠温

 桜井忠温(明治一二 一八七九~昭和四〇 一九六五)は、松山市小唐人町(現・大街道)生まれ。一四歳で四条派の絵師松浦巌暉に入門。武士であった父は軍人になることをすすめ、明治三二年四月、松山中学校(四年のとき漱石に英語を習う)を卒業。翌年、陸軍士官学校に入校した。三五年歩兵少尉に任官。三七年五月、二六歳、歩兵第二二連隊(松山)の旗手として日露戦争に従軍。八月二四日未明、東鶏冠山北堡塁及望台砲台の突破に参戦、連隊は全滅。忠温も歩行困難の重傷を負ったが、高知連隊の一等卒近藤竹三郎に助けられて九死に一生を得て原隊に復帰した。
 『肉弾』は、この傷の療養中、不自由な左手で書き綴られた作品で、明治三九年四月、丁未出版社より刊行された。六月、明治天皇の天覧に浴し、一中尉としては破格の単独拝謁を賜っている。
 『肉弾』の反響は大きく、四か月のうちに一二版をかさねベストセラーとなった。一六か国語に翻訳され、米国のセオドール・ルーズベルト大統領からは賞賛の書簡が寄せられ、ドイツ皇帝カイゼルは全軍将兵に読ませたという。『肉弾』の扉には「旅順実戦記」の副題がついており、乃木大将が書いた〝壮烈〟の題字、大隈重信の序文、近藤一等卒に対する謝辞、救助の模様を描いた自筆の彩色画、旅順要塞の見取図などが巻頭に収めてある。忠温が負傷した場面を「第二十七・必死隊」の一節より抄出する。

  暗に閃く剣尖も次第に薄らぎ、黒山を築きつゝ進んだ部下も、今は余す所数人となった。忽ちにして予は梶棒もて殴られたやうで、ドタリと四這に倒れた。予も遂に傷ついた。予は右手を撃たれたのである。此時、盛に打揚げられてゐた敵の火箭の光に、累々たる部下の死骸を見ながら、予は傷ついたる右手を差上げた。見れば腕関節より砕けて、ブラリと垂れ下り、血は止め度無く迸しり出た。予は兼て細帯包を解いて携へてゐたから、直ちに三角巾を巻きつけ、手巾にて包み、敵塁に樹てんものと誓ひし日の丸の旗もて頸に吊した。
  見上ぐれば望台は谷一つを隔たる彼方に、空を摩して峙てり。水を銜まんと欲して腰を捜れば、水筒は已に無く、吊革のみが足に纒った。生兵の声は次第に静まり行き、之に反して憎き敵の光弾の光と、機関砲の凄じき響とは、愈よ烈しくなった。予は静かに両脚を撫でゝ、未だ其の傷つかざるを知りたるより、再び起ちて軍刀の鞘を打ち棄て、白刃を左手に杖突いて、夢中に此山を下り、囲壁を飛び起して、望台に攀ぢ登った。

 旅順第一回総攻撃の記録である。忠温自身が負傷したのでその後の旅順攻略については記されていない。八年後の明治四五年夏、陸軍省の田中軍務局長にすすめられて渡満、旅順の戦場跡を訪ね、それをもとに旅順戦の全貌を描いた『銃後』を大正二年三月に刊行した。調査研究や伝聞によって随筆風にまとめられており、『肉弾』ほどのリアルな実戦記録ではないが、時間の浄化作用で味わい深いものとなっている。
 昭和五年八月、五二歳で陸軍少将に進んで退役した。退役までに「雑嚢」(大3 11)「黒煉瓦の家」(大14 4)「秩父の山うるはし」(昭14 7・のち映画化) 「鉄片と人肉」(昭15 9) 「草に祈る」(昭2 9より朝日新聞に連載・のち映画化) 「将軍乃木」(昭3 9)など数多くの作品を発表。昭和六年三月、『桜井忠温全集』(全集六巻・画集一巻)が完結した。退役後も健筆をふるい、戦後の代表的な随筆に「哀しきものの記録」(昭32 7文芸春秋)がある。昭和三四年松山に帰り、同四〇年九月八七歳で逝去した。

 此一戦 ほか  水野広徳

 水野広徳(明治八 一八七五~昭和二〇 一九四五)に、松山市三津浜生まれ。父は松山藩士。幼年期に父母を失い、兄弟離散し生活苦と戦った。明治二二年伊予尋常中学(松山中学)に入学。海軍兵学校を受験したが再三失敗、二八年四たび目でやっと合格した。三四年二四歳で卒業し少尉候補生として軍艦比叡に乗艦。三六年大尉に進級、第十艇隊水雷艇第四一号艇長となり、この職において日露戦争を終始した。三七年二月、日露開戦となり朝鮮海峡並びに旅順方面の作戦に従事。このときの戦歴は、後年(大正三年)『戦影』にまとめ匿名で発刊している。
 明治三八年五月、日本海海戦に参加。この戦記が後年の名著『此一戦』である。『此一戦』は、戦役後、海軍省の『明治三十七、八年海戦史』の編集に従事するかたわら、その余暇に執筆されたものである。四四年三月、博文館から刊行されると、たちまちベストセラーとなった。大正三年には、日米戦争仮想記『次の一戦』を一海軍中佐の匿名で刊行したが、外交上の立場から三ヵ月にして絶版となった。軍国主義・帝国主義思想賛美そのものである。同年、この絶版の埋め合わせに『戦影』(旅順海戦私記)をやはり匿名で刊行した。大正五年(一九一六)七月、私費留学を許されて、第一次世界大戦の最絶頂期にある英・仏・伊各国を視察し、自己の帝国主義的思想に動揺を来たした。同八年三月再び私費留学。戦後のヨーロッパを視察し、フランスの戦跡・敗戦国ドイツの惨状をつぶさに見て、軍国主義の幻滅を痛感、思想上の大転化を来した。そして懊悩と苦悶の末〝人道的平和主義者〟に転向した。大正一〇年八月、四七歳。軍人としての前途に希望を失い退役。その後、軍事・社会評論家として軍縮運動・日米非戦論等の指導的役割を果たした。昭和に入ってからは、軍部の弾圧を受けて執筆は事実上不可能となり、和歌・俳句などで自らを慰めた。その後さびしい晩年を送り、敗戦直後の昭和二〇年一〇月一八日今治市にて逝去した。死後三〇余年にして、遺稿自叙伝「剣を吊るまで」「剣を解くまで」が南海放送より『反骨の軍人・水野広徳』(昭和五四年)と題して出版された。反戦論者・平和主義者で、鋭い文明批評家であった水野広徳については新しい意味づけがなされつつある。
 戦記文学については、このほかに浜本利三郎(明治元 一八六八~大正一三 一九二四)}の『日清戦争従軍秘録』(昭47)や、浜部永太郎(明治一〇 一八七七~昭和二三 一九四八)の遺稿「明治三七、八年征露従軍私記」などがある。