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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 地誌

 地誌とは、厳密に言えば地理学の一部門に属するもので、地理学的現象についての記述書ということになろうが、その現象自体が文学的素材でもありうるわけだし、その記述が文学的付加価値を伴うものである例は多い。伊予の地におけるその種のものの存在も無視できるものではない。寛永一八年(一六四一)に菅沼長左衛門が選し、享保八年(一七二三)に木村勝政が増補した写本『予陽郡邑古考鈔』、宝永七年(一七一〇)に奥平貞虎が編み、後に増補された『予陽郡郷俚諺集』等が初期的なものと言えよう。近世も中期以降になると、多数の名所和歌を収めた岡田通載の『伊予二名集』や、『予陽塵介集』『伊予古蹟志』等が現われる。幕末期には半井梧菴の『愛媛面影』が完成する。類書中の白眉と言えよう。この頃は各地にこの種の地誌編さんの動きがあったらしく、周敷郡一円の地誌『伊予国順廻記』が色彩絵入りで完成しているし、山中幸忠の『大洲名所図会』も形を整えつつあった。その外日野和煦の『西条誌』や高木岡右衛門の『雨夜の伽草』、近藤範序の『小松邑志』などの類も注目すべきものであろう。その他夥しい数の地誌の存在については、資料編・文学第四章近世の「資料目録」を参照されたい。以下『予陽郡郷俚諺集』『伊予二名集』『愛媛面影』『大洲名所図会』『雨夜の伽草』について概観する。

 予陽郡郷俚諺集

 本書は、景浦稚桃によれば、松山藩家老奥平藤左衛門貞虎の発意により、郷々村々の吏員を動員して資料を収集して、宝永七年に成立、宝暦一二年(一七六二)に仙波某によって増補されたものという(予陽叢書第一巻解題)。初めに伊予国の概説があり、以下温泉郡・久米郡・浮穴郡・伊予郡・和気郡・風早郡・野間郡・越智郡・桑村郡・周布郡・新居郡・宇摩郡・喜多郡・宇和郡の順で、各郡の郷名、石高、歴史、神社、仏閣、名所、古跡、伝説等について記述する体裁のものである。資料は『記・紀』『万葉集』『風土記』『延喜式』『旧事本紀』『金葉集』『玉葉集』『堀川百首』『井蛙抄』『夫木抄』『予章記』『清良記』『一遍上人伝記』『予陽河野家譜』『太平記』『六花和歌集』等をはじめとして、近い時期に刊行された『予陽河野盛衰記』『国花万葉記』、さらには寺社の縁起、古伝等まで利用している。
 名所・名物を詠んだ古今の歌を挙げているが、その数六七首に及ぶ。その記述態度は、例えば宇和郡の部で、

  ○玉葉集に住吉大明神の御詠歌とて、
     伊予の国宇和の郡の魚までも我こそはなせ世を救ぶとて
     網おろす宇和の郡の魚までも神の誓ひにひかれてやよる
   右読人不知、同書に住吉明神御歌と言ふ。
というような引き方で、努めて批判的な精神の上に立っての受容であろうとするのがうかがえる。これは小町伝説等についても同様で、久米郡の部に、

  ○小野谷と言ふ所に、薬師の像あり、仏体の内に美女の容を彫り籠めたり。里俗にの諺に、昔小野小町此所より出たり、其形相を写し籠めたりと言伝ふ。尤も所の名に応じたれども、小町は出羽郡司小野良実が女と言ふ。然れば不審の事也。如何様故有るべし。委しく弁じ難し。

という記述態度が堅持されている。

 伊予二名集

 本書は、前述のごとく、新居郡の人岡田通載によって書かれている。巻末に「人皇七代、孝霊天皇御子、伊予皇子裔、伊予大領守興男、新居玉男十九代孫、岡田経長末葉、経孝男九郎通孝遷居干新居郡、其八代岡田市郎右衛門義見嫡子、通載三十三歳之時選集之」とある。『予陽郡郷俚諺集』と同様の構成になっているが、順序が宇摩郡・新居郡・周敷郡・桑村郡・越智郡・野間郡・風早郡・和気郡・温泉郡・久米郡・浮穴郡・伊予郡・喜多郡・宇和郡の順になっている。引用書目もほぽ同様であるが、『南海治乱記』『陰徳太平記』なども利用され、新居郡の部には、

  又左の二首御詠歌、明和六年桑村郡円海寺に住める周円といへる桑門、冷泉家和歌の門弟たるにより、詠みて下し給りぬ。よって爰に拾ふ。
                             正二位民部卿為村
     見おろすも隔てぬよつの国中にいよいよ高し伊予の大嶽
     八月より五月をかけて消えずてふ雪の大嶽伊予にこそあれ

とか、周敷郡の部の「吉田の新名所」の項では、

  文化二年、芝山権中納言持豊卿より吉田の社司へ新名所の和歌を賜はる。
  御垣杜 桜花神の御垣の社なれば風も心にまかせざるらし
  岩井水 通ひくる風も夏なき松蔭の岩井の清水誰も結ばん
  吉田里 伊予の海や変る朝凪夕なぎの見る目吉田の里とこそ聞け

などと、新しい歌もとりあげている。これは本書の成立が文化二年(一八〇五)以降のものであること証するものでもある。収める歌は一四三首にのぼる。
 『予陽郡郷俚諺集』の新居郡の部に

  ○黒島神社 黒島にあり。所祭神未考。
とあったのに対して、『伊予二名集』の同所では、
  ○黒島 大島之枝島。
   黒島神社 延喜式廿四座之内。所祭大山積大明神。『廿四社考』日、黒島神社在西条船入口、水神闇御津羽神と出づ。此考大に非なり。又非西条船入口。西条より四里心五十丁為一里、東黒島にあり。

と詳細になっているように、東予、就中新居郡に力点をおいた記述になっている。

 愛媛面影

 本書に掲載されている「伊予国全図」に「明治己巳仲春応半井梧菴先生需浪華翠栄堂半山縮写」とあって「己巳」は二年であるから、その以後の刊行であるが、平野季栄の序は慶応三年(一八六七)一二月、本塚主水の序は慶応二年四月、自序は慶応二年七月に書かれているから、この時期に一応成立したと考えてよいようである。全部で五巻五冊、いわゆる名所図会の形式をそなえた代表的な地誌である。著者は今治藩の医官半井梧菴である。自序は、

  異国の学さかりに行はれてゆくまにまに、こまもろこしは更にもいはず、今はあまつ日の光及ばぬはてまでもかくる隅なく、知ぬ境もなくなりぬるは、めでたき御代のかぎりなるべし。されど我皇国の事としいえば、某国はいかなる事のひらけはまじりけむ、某国はいかなる物の生出らんともおもひたどらで、とつ国の事をのみ聞知たらんは、いかに口を
  吉田里 伊予の海や変る朝凪夕なぎの見る目吉田の里とこそ聞け

などと、新しい歌もとりあげている。これは本書の成立が文化二年(一八〇五)以降のものであること証するものでもある。収める歌は一四三首にのぼる。
 『予陽郡郷俚諺集』の新居郡の部に

  ○黒島神社 黒島にあり。所祭神未考。
とあったのに対して、『伊予二名集』の同所では、
  ○黒島 大島之枝島。
   黒島神社 延喜式廿四座之内。所祭大山積大明神。『廿四社考』日、黒島神社在西条船入口、水神闇御津羽神と出づ。此考大に非なり。又非西条船入口。西条より四里心五十丁為一里、東黒島にあり。

と詳細になっているように、東予、就中新居郡に力点をおいた記述になっている。

 愛媛面影

 本書に掲載されている「伊予国全図」に「明治己巳仲春応半井梧菴先生需浪華翠栄堂半山縮写」とあって「己巳」は二年であるから、その以後の刊行であるが、平野季栄の序は慶応三年(一八六七)一二月、本塚主水の序は慶応二年四月、自序は慶応二年七月に書かれているから、この時期に一応成立したと考えてよいようである。全部で五巻五冊、いわゆる名所図会の形式をそなえた代表的な地誌である。著者は今治藩の医官半井梧菴である。自序は、

  異国の学さかりに行はれてゆくまにまに、こまもろこしは更にもいはず、今はあまつ日の光及ばぬはてまでもかくる隅なく、知ぬ境もなくなりぬるは、めでたき御代のかぎりなるべし。されど我皇国の事としいえば、某国はいかなる事のひらけはまじりけむ、某国はいかなる物の生出らんともおもひたどらで、とつ国の事をのみ聞知たらんは、いかに口をしきわざならずや。

という憂国の志の開陳から始まり、

  さてわが国の事ども知得たらん後にこそ異国の事をもあきらめて、皇国学のたすけとはなるべかりけれ。我皇国の本だにしり得ば、異国の学の末はよししらずとも、などか口をしかるべき。

と結ばれているところに、梧菴のはっきりとした目的意識を知ることができる。
 叙述の順序は、伊予郡・浮穴郡と逆になっているのを除けば、『伊予二名集』と同じである。第一巻は宇摩・新居・周布・桑村の四郡、第二巻は越智・野間の二郡、第三巻は風早・和気・温泉の三郡、第四巻は久米・伊予・浮穴・喜多の四郡、第五巻は宇和の一郡を当てている。「引用書目」として一一六部の書を一覧できるようにしているが、その中には『伊予俚諺集』『二名集』も含まれている。
 名所歌も多く載せられているが、宇摩郡の「西行松」の条では、「ここをまたわが住みうくてうかれなば松はひとりにならんとすらん」の歌について、

  按ずるに、此歌『山家集』に、讃岐国に大師のおはしましけるあたりの山に庵むすびて住けるに、月いとあかくて云々、
  庵の前に松のたてりけるを見て、
    久に経てわが後の世をとへよ松あとしたふべき人もなき身ぞ
  といふ歌に井びて出たれば、両首ともに讃岐国にて詠みたまひし歌なるべきを、古よりかく言伝へたるは、誠は後の一首はここにての歌なるを『山家集』に誤りてひとつにしるしたるか。

と述べていることは注目してよい。西行松を宇摩郡にあらせたい気持を断ちきることができないながらも、実証的には否定しなければならない心の動きがにじみ出ているように思われるからである。それまでの諸書が少しでも付会しようとする傾向があったのに対して、実体を明らかにしようとする態度は一段と顕著であると言わなければならない。同郡の「橘島」についても、『和爾雅』『仙覚抄』『二名集』『小松邑志』を引きながらも、『代匠記』によって大和国にあると断ずるのである。
 また、可能なかぎり文献だけに頼らず実地踏査を試みていることも、特色の一つと見ることができる。『西行日記』(文久元年・一八六一)の存在はその裏付けであるが、『愛媛面影』にもその微証はある。周敷郡の部の「伊予高嶺」の条に、

  おのれとし頃一度はのぼりて見まほしく思ひしかど、何くれの障り有りて得はたざりしを、ゆくりなく幸を得て、いにし文久二年遂にかの高嶺に登りたりき。その時の日記書き写して、此山に登らん人のしるべとす。

と述べ、五月二七日出発から二九日登下山までの道程を記しているのがそれである。越智郡の部の「川上巌」の場合も同様に「一とせ久松長世ぬしと越智郡七社詣しける時の道記あり。中に此巌の事を誌したれば、後に登らん人のしるべにとて」と自己の経験を記している。
 これら実証的な態度と実地踏査とは、本書の価値を文字通り抜群のものにしたと言えよう。と同時にその踏査に際してものした文章は、紀行文として見ることもできるのであって、本書を単なる地誌にとどめない所以のものである。

 大洲名所図会

 「大洲名所図会 一(二)」の題簽はあるが、見返し題では「名所図画」、目録題も「大洲名所図画前編」とあるから、「大洲名所図画」の方が、編者の意団した題名としてふさわしいかも知れない。自序に「方へにありし『都名勝図画』を詠めけるに、ふと本づけて筆のすさびに、我大洲の寺社堂塔をはじめ、或は名所或は古跡を記して、『亀城名勝図絵』となむ題しける」とあって、『亀城名勝図絵』も編者の考え川入口之図」「玉川之図」「其三」「其四」「喜行橋之景光」「渡場肱川景色」「弥六谷住吉夜市景」「渡場多賀社図」「比志権現社内図」「三笠山夜景」「西方寺徳正寺太子堂図」「臥龍淵山之図」「亀山之首并富士山南向之図」「向亀山金毘羅之図」「興禅寺略図」の諸景の絵と若干の文章を収めている。ただ、二編の方は殊に多くの白紙部分かあり、ここに説明文が入る予定であったらしい。この二編にも自序があり「猶是に嗣んものをといふ人、しばしばなれば、いなむにすべなく」などと記しているが、仮托にすぎないかも知れない。「慶応二といふとし。うづきいつか 桜蔭のあるじ ゆきただ」という日付がそれを顕わしているように思う。二編末には「藩中 槃堂山中幸忠撰画 門人 武昌忠 寺資弘 藤正道校」とある。完本が望まれるが、ついに未完に終わったようである。

 雨夜の伽草

 本書は写本として伝えられているが、刊行の予定であったらしく思われる。巻頭に序文があり、そこには「筆に任せ思出る事を書誌して、徒然をなん慰めけるに、今将数々の巻と成りて、草籠の庵に蠧の栖となん成りけるを、此度思起して清書なしけるも、老い行く末の楽みともなしなんと思ふ而巳にて、人に見せもやせんとにはあらず」と言いながらも「其詞の卑きを、若もや閲し給ふ人あらば、よきに見し給へ」と述べていること、紀広成なる人物の序に「我知れる人の携へ来る巻あり。披き見るに、伊予ケ嶽麓遊と号て、国の名のいよ面白く、名立てる所々書連ねて、風雅の言の葉、貴き賤きとなく集めて、此度梓に鏤めんとす」とあることからも知られる。自序が「時は嘉び永しと改まる初夏の日」すなわち嘉永元年(一八四八)四月に書かれていて、紀広成の序文が「時は是あめやすらけき八つの酉てふ年の冬」すなわち天保八年(一八三七)に書かれていることなどを見れば紆余曲折があり、結局刊行に到らずに終わったのであろう。資料編の翻刻に見るごとく。「雨夜の伽草」「伊予ケ嶽麓遊」「西条花見車」「西条往来」「西条花見日記」などの題名があって全体的な構成の統一がはかられていないのはどうしたものであろう。跋文の前に「天保八丁酉季春 萩野厚恒武江の人の需に応じて鳴呼がましくも禿筆を馳るにこそ」とあるものも解し難い。未だ十分な編集を終えていないと見るべきであろう。巻頭の序の書きぶりから見て、これを自序とすれば筆者は高木岡右衛門ということになるが、何者であるかは未詳と言わなければならない。
 内容は、上之巻に西条の略史、産物、町名、社寺、河川、名所等の記述と「西条花見車」と題する文章の前半が収められ、下之巻にその後半を収めている。「西条花見車」は「四方の花今を盛に咲乱れ、空の気色も麗成るに、思ふ友達相語らひ、野山の桜尋ねん」と書き出し、四泊五日かけての西条巡りを書きつづるのであるが、その間、伊曽乃神社の祭礼について、あるいは石鎚山登山について多く筆を費している。紀行文というよりは、その形式を仮りて地誌を書くことに眼目があるらしく思われる。