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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 中江藤樹

 陽明学者。慶長一三年(一六〇八)近江国小川村(滋賀県)に生まれ、九歳の時祖父の養子となる。祖父は加藤家の家臣であったため、大洲領風早郡(北条市)の代官として赴任した祖父に従って来住。大洲に帰任した祖父の没後は家督を相続して儒学の研究につとめ、多くの門人を育てた。近江に住む母親への思慕強く、寛永一一年(一六三四)大洲藩を脱藩して帰郷。寛永一八年(一六四一)朱子学に疑問を発し、陽明学に傾倒してわが国における陽明学を確立した。慶安元年(一六四八)四一歳で没した。
 中江藤樹の学問的事績や人物評を記した文学として、まず注目されるのは元禄一四年二七〇一)刊の『元禄太平記』(別名「諸芸太平記」)である。これは、当時の知識人都の錦(梅園堂)が各方面の文化現象を縦横に批判した一種の批評文学であり、その巻五の三から巻七に儒書、神書の流行を取り上げて、藤原惺窩、林道春、熊沢蕃山、中江藤樹、貝原益軒などの著作を批評している。藤樹の学問については、

  王陽明の跡を考へ、性理の至極、良知良能の教をたづね、道春程博文にはあらねど、徳実を本として真理を探り出されしは、此人の大功なり、其気象自然と顔淵の風あり。

と称えている。また、孝こそが良知に至る道であるとして身をもって知行合一を実践した藤樹の大洲藩立ち退き事件に注目し、その書置文と藩主の感銘を記して、「誠に徳義の至り、中興の君子、此人に次ぐ者なし、志あらん人は、翁問答、儒生雑記を見て与右衛門の行跡を仰ぎ給へや。」と賛辞を呈している。この書は、都の錦得意の文明批評で、その該博な知識を窺わせるが、そこにはまた、学問・文芸ともに才はありながら志を得なかった都の錦の苦悩と嘆声も込められていた。
 次に、天明八年(一七八八)刊の損徳斎作『学者角力勝負附評判』は、当時多く出た評判記類の一種で、熊沢蕃山、荻生徂徠、新井白石、伊藤仁斎など、元禄年間から天明八年までに活躍した学者九八名を左右に分けて相撲番付に擬したものである。それによると、東西の大関に蕃山、白石、関脇に徂徠、仁斎、小結に細井光沢、服部南郭がすわり、藤樹は東前頭二枚目に付けられている。また、岡白駒対平賀源内以下三九名の取組について勝負の評判を付けており、藤樹は一三番目に錦里(木下順庵)と合わせられている。その批評を見ると、「藤樹の学風は格別な御見識」であるが、「錦里にもよい弟子あって、御指南のほども知れ、奥ゆかしく御ざる、勝は錦里と見へました。」とあって、藤樹は負に付けられている。当時の庶民の藤樹観が窺われて興味深い。
 また、近世後期の歌人、文章家、古典研究家として知られた町人出身の知識人伴蒿蹊が寛政二年(一七九〇)に刊行した『近世崎人伝』の巻之一に、「中江藤樹附蕃山氏」として藤樹の評伝が記されている。この書は、武士、町人、僧侶、国学者から遊女、乞食にまで及び、無名の女性を含む多種多彩な人物の奇行伝であるが、藤樹や貝原益軒などを崎人として取り上げた理由を、「仁義を任とせる諸老、忠孝の数子のごときは、世の人にたくらべて行ふところを奇とせる也」と説明している。徳が高い故に一般人と異なるから崎だと言うのである。『崎人伝』の記述は藤樹の評伝として最も詳しいもので、その生いたち、性向、勉学、孝心、教育、著述から家族の動向に至るまで詳述されている。その生涯は多くの逸話でつづられており、一三歳の時に祖父とともに賊に立ち向かって捕えようとした志気をはじめ、武を専らとする藩の士風をはばかって日中は諸士と交わり、毎夜深更に至るまで勉学に励んだこと、老母への孝心強く藩を退去するにあたり、禄米悉くを残し、使用人に金銭を分け与えたところ多すぎるので受けず、奉公を請われたこと、誓いのとおり終生他家に仕えなかったこと、聡明な性質を見抜いてあえて容貌の醜い女を娶ったこと、愚昧な弟子の向学心をたたえて倦まず、ついに医術を修得させたことなど、身をもって知行合一を実践したその人間像を浮き彫りにしている。