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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 藤原純友

 近世文学では、藤原純友はさまざまなジャンルにさまざまな性格に描かれている。以下それを概観する。

 戦記物語

 『将門純友東西軍記』(著者不明・室町時代成立か)は将門とともに純友の乱の顛末を記す。承平六年純友が伊予の日振島を根拠地として海賊を働く。紀淑人はこれを平定、純友を伴って上洛した。平将門は純友と比叡山に登り、平安京を見下ろしながら互に逆臣となることを契約する。天慶二年将門関東で乱を起こし、純友は伊予の国から討って出て、純友は伊予・讃岐・阿波・淡路を掠定したが、阿波介国風に敗れ、それより土佐・安芸・周防等を濫妨し大宰府へ行き官物を奪取する。天慶四年小野好古等は筑前博多で純友を攻め、純友方の兵船を焼く。小舟で伊予へ逃げ帰ったが、橘遠保が純友及びその子重太丸を討ち、頸を京へ送った。
 観阿居士著の『大津純友大乱記』(天和元年成立)は内題に「伊予大洲純友大乱記」とある。「大津」は「大洲」。本書によれば河野一八家の一人高橋友久の息男が純友で、一三歳の時京都七条の御殿で手洗水石を力持ちして、伊予前司藤原良範に見込まれて養子となった。しかし純友は貢物を納入することができず、弟の市野知島(伊予の日振を所領)に無理に頼んで日振の浦で海賊をした。これが純友の海賊のしはじめだと言う。承平二年讃岐の国府の館主小野春継(純友の妹婿)は不和となった純友を大津の館舎に攻めたが敗れ生害した。純友はこうなっては逃れる道なしと、まず伊予の河野を攻撃し、次に土佐安芸郡浦戸を攻略し、四男重太麿を遣した。さらに讃岐・山陽道・筑前を攻略するが、天慶三年博多で将門が生害したことを聞き伊予に帰り、阿波国を攻め、無家(鳴門市撫養)に移った。朝廷でも純友追討軍を天慶四年派遣したが、純友が優勢であった。この頃沙門長光が愛宕山で美僧(地蔵化身)より甲冑を授かり、勝軍地蔵の法を修した。そのためであろうか、純友敗戦し、三男純安が討死する。
朝廷方は白鳥大明神のお告げで淡路国和泉が浦(現福良)に渡海する。純友はその前夜「富士ノ山スソ野ノ嵐ハゲシクテ」という句を夢に見、妙に気にかかったが朝廷軍を攻めた。しかし眼に鬼形・異類のもの数知らず攻めて来るので逃げた。
 純友はやがて淡路国に渡海し、三原で勝利を得る。この時保良安望の娘「ビキクノ方」と言う女房は、五歳になる男の子の出世とひきかえに純友の命をねらい、白拍子となって純友の陣に行く。この豊艶な美女に純友は慰み戯れた。ある夜女は酔臥した純友のすね・脛を切った。純友は女房を即座に切り殺したが、この足の疵から不自由になり力衰え、これから滅亡の道をたどったと言う。純友は疵の養生のため阿波に帰ったが、平癒して淡路の巣基を攻めた。純友は追い攻めるが敗れ、播磨国総社に退き大合戦、弟友興戦死、高砂では嫡男諸友、妹婿直純が戦死し、尾道に引く。四男重太麿を播磨国に派遣し京都口への押えとする。福山・尾道・厳島で戦勝するが、朝廷は新手の大将として、小野好古・藤原慶幸・大蔵春実を派遣し博多で大合戦、純友は弟純実の返り忠を見抜き急遽乗船し伊予に帰る。朝廷方は伊予三津浜に陣取り、道後で合戦、純友は負けて道前(今治)に引く。朝廷方は美女の白拍子を遣し、純友の兵士を裏切らせる。純友は山ノ内(越智郡大西町)に出て奮戦し、慶幸と春実を討ったが、風早で弟諸純と河野種雄を失う。純友も足を射られ山中に入り、岩屋寺から石鎚山を越えて阿波国に入った。天慶六年朝廷方の追討に会い、返り忠する者多く、武運も尽きたと、鳴門に漕ぎ出し入海して死んだ。享年四九。
 四男重太麿は純友の自害を知り播磨から土佐に帰り、政府軍と戦い天慶八年二八歳で生害する。純友の弟市野知島は、伊予合戦の時生け捕られ京都の醍醐で誅せられ邪霊となったので、所の人々が小祠を建てて祭った。五男国純も各所で奮戦したが讃岐で自害、彼の邪霊が京都で崇りをするので小祠を建てて祭る。鳴門で入海した純友の死骸はその後浮上したので首を京都に送り、七条河原で晒そうとした時、大雨大雷があり純友の首を取って行った。その後首は土佐に落ちたので再び上洛させ祇園の小祠に入れ納めた。この時妻の首も一緒に入れた。
 これに続く話は観阿居士著の『将門純友後乱記』(元和元年成立)にある。純友の弟純実は博多合戦の時の返り忠により助命され洛東の八百尾(新黒谷)に安堵されたが、内裏の女房を誘い謀反を企む。しかし、露顕し捕縛され、天慶七年洛西の小平で梟首、首を祇園の小祠に納めた。純実の家人藤原興次が小祠守になっていたが、かつての偽忠が露顕し流罪になり、その後その邪霊が牛になって崇りをするので祭った。また藤原慶幸と大蔵春実の邪霊が伊予の道前で崇りをするので野尻(久万町)に小祠を建てて祭った。純友の娘姫麿と弟直純の間に生まれた姫方麿安方は、母とともに播磨国に隠れていたが、成人して天徳二年古屋(伊丹市)で謀叛し、播磨・摂津で転戦するが、天徳三年敗北し、母とともに自害した。冷泉院の時純実の邪霊が崇りをし奇異のことがあり、安和元年将門・純友ならびに一門の霊魂が一度に出たので、祇園の小祠を神社に建てかえ、同時に祇園会神事祭礼が始まった。下野国薬師寺に純友の弟、和泉五郎友興の首を祭り、先年祇園に納めた純友の妻の首も下総国小金に祭った。
 阿倍清明宅に何者とも知れぬ者が来て、明日の夜内裏に強盗が押入ると告げ、純友の怨霊だと言って去ったので、花山院は純友の霊魂を神に祭った。純友追討に忠を尽して討死した菅原緒(した心に臣己)の霊魂が藤原忠実の娘に取り付き、純友追討に命を奉った者を祭らないと恨み言を言うので、一条院は安倍清明等に勅諚して八人の者を下御霊宮を建てて祭った。近衛院の時化鳥の奇異があった。それは朱雀院の時、伊予国河野一八家の中、石手弥一郎霊初島は総社での合戦で純友に味方をして討たれたが、その首を奪った母が化生となって内裏に現れ、親王・公卿を取殺したので源頼政が射落した。この化鳥の悪霊を木舟に入れて摂津の蘆屋の海底に沈めたところこの木舟が阿波勝浦郡中ノ村に漂着した。この悪霊が犬上(犬神)で、時に崇りをした。姫方麿安方を播磨の古屋で討滅した大将宇多高義の養子となった下野国塩屋弥二郎は、伊予国河野の末葉である。また純友の弟純実の怨霊はその後も崇りをなしたので、花園院の時妙心寺を建立して弔った。
 観阿居士の二著は、口碑等に拠るところが多いのであろうが、従来逆賊としてのみ扱われてきた純友をかなり好意的にとらえ、将門同様御霊神としての性格を附与しているところに特色がある。
 藤元元著の『前太平記』(享和三年刊、元禄頃成立と推定される)によれば次のごとく記している。将門・純友叛乱は、山陽・西海・南海の三道で海賊の主謀者になっていた伊予掾純友が、在京の承平二年比叡山に参詣した時に将門と行き合い盟約が成立したことに始まる。純友は伊予で陰謀を企て、軍勢を集め狼籍をしたので、朝廷は紀淑人を伊予守に任じ、討手の大将として向かわせた。淑人は伊予の三津浜から純友の籠城する高縄城に押し寄せた。伊予の目代橘遠保が馳せ参じ、淑人は大手から、遠安は搦手から攻めた。純友の腹心の家来伊賀寿太郎・同二郎兄弟が奮戦する。また弟純乗・純正・純行も奮闘したが敗北した。純友のすぐ下の弟純素は、将門に呼応するため下総に下っていたが、都への帰途、伊予へ純友攻撃軍が下ったとの噂を聞く。直ちに高縄城救援に赴いたが、時既に遅く、大将淑人。の陣に切り込んだが、純友の弟純業は敵の矢に当って戦死、純素は三津浜から備前に向けて脱出した。純友は備前釜島に城郭を構えた。朝廷は純友が摂州尼崎まで来たとの報告に騒然とし、天慶三年二月山陽道からの追討使として藤原倫実を向け、釜島城を攻めさせるが、純素らの活躍で敗北する。純友の陣屋に将門の滅亡が伝わる。純行・純乗も釜島に帰る。
 それから備中鳥嶽城・安芸多治比城・周防右田の宿(防府市)・長門樋田城を攻略し、九州へ渡海し大宰府を攻撃した。豊前柳が浦(宇佐市)からの軍は搦手を攻め、純素の働きで攻略し、大手も博多方面で勝ち、大宰大弐橘公頼・弟公彦は筑後柳川城へ敗走した。朝廷では追捕使として小野好古・源経基らを下向させた。これを純素が柳が浦で出張をし、純友は黒崎(北九州市八幡区)で支えた。この時早鞆明神(和布刈神社)の社が崩れるような雷鳴があって純素の役所が火災にあい、黒崎へ引き退いた隙に朝廷方が柳が浦に上陸し黒崎で合戦する。その間に稲村平六は長府に帰り、門司・赤間に関を据えて山陽道を塞いだので、朝廷方は兵糧運送ができず困窮していたが、この時豊前の宇佐八幡の神主の進言により、純素が兵糧を蓄えている豊前の菱形山を攻落した。京では戦勝を祈願して延暦寺の明達が住吉神宮院で毘沙門の法を行い、効力があったのか大宰府に帰ってからの純友と純素の仲が険悪になった。純友が九州第一の美女松崎の千代という舞姫を、純素から奪ったからである。怒った純素は黒崎城に籠る。
 天慶四年純乗は柳川城を攻撃したが左目を射られ敗走した。好古・経基・満仲の総攻撃に伊賀寿次郎戦死。純素は講和を乞うような策謀を使ったが、かえって裏をかかれ満仲の智謀によって殺され、黒崎城は陥落する。伊賀寿太郎は大宰府に敗走し、純友とともに船で脱出をはかる。純友は海上から残党を集め博多を攻める。慶幸と春実も箱崎から海上に出て猛火の船を強風にまかせて近付け純友と応戦、伊賀寿太郎は海に入って死ぬ。純友は撃破され末子一三歳の重太丸を連れて伊予に帰った。三津浜に上がったが、伊予の目代橘遠保が警固していたので父子ともに生捕られ、純友は重傷から死ぬ。首は京都に送られ、重太丸も六条河原で斬られた。重太丸の母方の祖父栗山将監定阿は、重太丸の母を連れて伊予を出奔し、土佐松尾坂(高岡郡佐川郷)に隠れ住んでいたが、母は重太丸も誅せられたと聞き、悲歎のあまり死んだ。定阿は第一の仇敵橘遠保を討とうとするが、菅生で遠保と合戦、定阿奮戦するも敗北し生捕られる。
 『前太平記』は観阿居士が拠った口碑とは別の系統の伝承に拠ったものであろう。もちろん両者とも戦記物語としての虚構もあるであろうが、本書は写本の時から広く流布しており、与えた影響も大きい。
 重見右門述作『河野予陽盛衰記』(延享四年刊)巻七第五章にも純友の乱が記されているが、伊予押領使河野好方が紀淑人とともに鎮圧に当ったこと、純友を大保木山に追い込んで討ち取ったことなどが目新しいものである。なお林恕(我峯)編『日本王代一覧』(寛文三年刊)にも純友の記事がある。
 絵巻には広島県豊田郡の楽音寺縁起に『藤原純友追討絵巻』があり、安芸国に配流された藤原倫実に純友追討の勅命が下り、一時は敗戦したが、観音の功徳により危うく一命助かり、再び大軍にて攻め、純友を滅し、その功に安芸国を賜わり、楽音寺を建立した旨を語る。詞書は漢文で短いが絵は華麗である。

 黄表紙・読本・合巻等

 黄表紙『純友勢入船』(寛政三年刊)は作者未詳、蘭徳斎画で、純友の反乱の事の起こりから、摂津尼崎まで純友が進攻したという風聞で京都が騒動するまでが記載され、粗筋において『前太平記』の記事と同様である(資799)。秋里籬島編著、西村中和画になる読本『前太乎記図会』(享和三年刊)は、『前太平記』の繁蕪な部分を削減して平易簡明にし、これに挿絵一五葉を加えたものである。籬島は名を舜福、字を湘夕という京都の画家で、画のために諸国を遊歴したと言われている。また中和は字を士達、号を梅溪といい、京都の画家で画業で法橋に叙せられ、よく名所図会や絵本類に筆を執った。
 曲亭馬琴作、勝川春扇画になる合巻『伊予簀垂女純友』(文化一四年刊・資774~799)は、純友の謀反があって一〇年余の歳月が経った頃に設定している。京都東山清水寺で残党の伊賀寿次郎は純友の血筋を立てて、主君の敵を討つべく祈願。夢中に純友の妻白浪の怨霊が現われ、尼になっている娘のいよはたに乗移り、目的を遂げさせようと言う。伊賀寿は姫に会い、官軍坂上敏基から奪った錦の御旗を取り出し、味方を集めたいと言う。そこへ敏基の郎等進藤六を尋ねて伊予へ行く許嫁そめいとが順礼の娘となって現われ、奪い合い、旗が二つに切れ上はいよはた、下はそめいとの手に。その後、破戒の所業を重ねるいよはたの所に再びそめいとが現われ、そめいとは殺される。しかし、そめいとの持っているはずの旗の下部はなかった。純友の残党が所々で乱暴をするので朝廷は心痛し、遠保の嫡男安ちかを伊予介に任じ派遣した。遠保の二男小石丸は幼少の時敏基の養子となっていたが、養父が錦の御旗を奪われ戦死したため家は断絶し、近江に流浪忠臣進藤六は四国を脱出、小石丸を守り立てている。
 そめいとの母かた田は小石丸の乳母で、娘とははぐれたが、進藤六には出会い近江に帰り主従三人で暮らしていた。小石丸は眼病を患い、殆ど盲目になっていた。ある日かた田の所へ摂津から血染めの状箱が届いた。中には錦の御旗の下部と順礼の札が入っていたので、娘は討たれたこと、伊賀寿といよはたの謀反を察知する。安ちかは伊予の国司となり四国を平定した。満仲娘桃園姫は安ちかに嫁ぐことになり、その輿が石上山の麓を過ぎる頃、五代山に隠れていたいよはたと伊賀寿に襲われる。いよはたは桃園姫になりすまし、伊賀寿は輿添の兵衛に、乳母の岩がねは局に化けて輿入れする。夜色直しの時岩がねが安ちかを毒殺、危険を知ってよし江の七郎は安ちかの母坂江を連れて脱出する。伊賀寿が安ちかの首を取り、府中城陥落、四国・九州の純友方の残党が伊予に結
集した。小石丸は兄の最期を聞き伝え、復讐しようと進藤六・かた田と三人で伊予に向い、讃岐の観音寺に到着。悪童をあやめた難儀のところを敏基の旗持ちちく平が乞食となって来り、金を与えて仲裁する。ちく平は切腹し、その心の血で眼病も治癒した。しかし金の不足から小石丸はいよはたのもとに送られ、かた田は自害する。進藤六は姑の首を携え府中城へ行き、安ちかの母の首持参と偽り侵入しようとするが、いよはたに見破られ捕えられた。しかし小石丸はいよはたから錦の御旗の上部を盗み出す。そこへ満仲の官軍が侵攻し、いよはたら賊軍を討滅する。桃園姫には身代りを立ててあったので、命は助かったが、夫は討たれたので出家した。
 本作は純友残党の謀反物語に趣向してあり、遺児いよはたに女白浪物的な悪の魅力を持たせ、怨霊、忠臣の流浪、身代りなど多くの趣向を使い、馬琴らしく変化に富んだ筋立に仕組んである。多くの絵とともに面白く鑑賞できる読物である。伊予が舞台になっているところもあるが、地名の正確さなど、もう一工夫ほしかった。
 西沢一風作の浮世草子『新色五巻書』(元禄一一年刊)五の一に「大友の真鳥・藤原の純友などが、犬猫を睨み殺す勢」とある。これは大阪人の気に入りそうな荒事の狂言を列挙した部分の一節である。

 演劇

 浄瑠璃では早く『すみ友みがはりもんたう』(純友身替問答)のあることが『松平大和守日記』万治四年(一六六一)の条にみえるが、その正本は伝わらない。二世桜田治助著『世界綱目』(文政頃)には、「将門純友」が世界(題材)の一に取り上げられ、役名として「藤原純友・純友子重太丸・藤原純成」があるので、歌舞伎にも脚色されたものも多くあったと思われる。
 竹田小出雲・近松半二・北窓後一・竹本三郎兵衛らの合作になる浄瑠璃『日高川入相花王』(宝暦九年大阪竹本座初演)は、道成寺伝説に加えて、藤原忠文の謀反、それにからめて将門の遺志をついで天下をねらう伊予掾純友の反逆とその挫折などを描いた作品である。内題の題名の左横に「いもせのむすひ松ハ藤原のすみとも」とある。初段では、朱雀天皇は多病のため御位を弟桜木親王に譲ろうとしていた。逆心ある左大臣藤原忠文は、かねて桜木親王と恋仲になっている故小野実頼の娘おだ巻姫を后に迎えるよう勧める。その姫を守っているのがゆらの戸で、その弟が伊予掾藤原純友である。忠文はおだ巻姫と桜木親王の密会の現場に偽勅使を送り不義の紀明をしようとするが、純友は鋳物師に身をやつして忠文に近付き親王と姫の危難を救い、将門の没後小野家に預けられていた将門の繋馬の旗を奪って立ち退いた。将門との比叡山における誓約を守り、将門の遺児を守り立て、天下を窺うためである。二段目では伏見の狼谷で純友は追剥をしている。そこへ女房お節と岳父四十次と一子力松とが、父を探して来るが、純友は三人を播磨に帰す。源経基は親王を彼の乳母朝路の里奥州に落そうとするが、狼谷で忠文の家臣蘭監物に見つけられる。経基の妻真弓の一行が通りかかり、親王を渡せと争いとなる。将門遺児が人質として経基館にありとの監物の言を聞いて、純友は赴く。
 三段目では、純友は盗人を装って経基館の宝蔵に忍び入り、将門遺児将王丸探索のためわざと捕縛される。播磨から純友の命乞いに来た舅の四十次は、経基が朱雀天皇の落胤を密かに養育していたのを、忠文に謀反と讒言され、帝の若宮を切れとの勅諚に一子経若を身代りに覚悟するのを聞き、連れて来ていた孫力松と引換えに婿純友の助命を願う。四十次が帰り、妻は力松が身代りに死んだことを聞かされ歎き悲しむ。四十次は婿の素姓を純友に相違ないと見抜いていたので、孫の命と引換えに若宮を連れて来だのは、将門の敵を討せるためと本心を明かす。女房お節は、主の敵、子の敵と若宮を斬ろうとするが不死身のため斬れない。純友は、これこそ将門の遺児将王丸と察知し、繋馬の旗を押し立てて、亡君の遺志を今達せんと決意する。経基が入り込ませておいた下女お埓が、純友の謀反を知り、わが血汐を流して合図する。時に六部の姿となって入り込んでいた俵藤太秀郷が、純友追討の副将軍だと名乗り出る。秀郷の笈を破ってみると、中には意外にも殺されたはずの力松が追討の大将として采配を手にして控えていた。これは経基がわが子経若を身代りに立て、純友の子力松を助けたのであった。純友は主と立てるべき将王丸と力松を助けてくれた経基の仁義に感じ、三種の神器の行方、忠文一味の悪逆を明かし、自ら二人の子の刃に斃れ、経基・秀郷に二児の将来を託す(国立劇場芸能調査室刊『未翻刻戯曲集・7』所収)。
 将門との契約を果たそうとして謀反を企てるが、経基の恩義と子の恩愛に滅んでいく純友を描いた点、特色がある。逆心を持ちながら、義理がたい純友である。身代りのからくりもよくできている。

 パロディ化

 近世文学の特色の一つとして歴史上の人物や英雄はまた卑俗滑稽化・パロディ化されて大衆庶民の文学に取り上げられるのである。平賀源内作の『痿陰隠伝』に「或は将門関東に駄魔羅を怒せば、純友四国にあて手弄をなし」とある。浄瑠璃『前太平記古跡鑑』(安永三年初演)の第九にも「ばったとすべたは是よりも。伊予の国へ押。渡り。純友が喰残りの。お余り共を貰ひため。東西より立。挟み」とある。
 川柳は『川柳狂句日本史伝』に『柳樽』などから、純友の句が集められている。まず「純友が助言碁盤をうち詠め」「碁盤覗いて助言する伊予掾」がある。ここに言う「碁盤」は京都の町を指している。「あの屋根か紫宸殿だといよの掾」「下を見て奢る将門伊予の掾」伊予の掾とあるのは勿論純友のことである。「人くらい馬に純友口があひ」ここに「馬」とあるのは将門の紋「繋ぎ馬」のこと。「人喰馬にも相ロハ伊予の掾」「うましうましとすみ友は八瀬へおり」「模様次第と伊予染を待ツ相馬」「相馬」とは将門が下総の豊田・相馬の両郡に住し、相馬小次郎と称したから言う。「伊予染」とは伊予簾を重ねてすかして見たときに見える木目のような模様を、絹などに染めた流行の染め模様の名で、純友を暗喩している。純友のことを連想して「純友が来て誘引出す花の山」「純友が何かさゝやく御殿山」「叡岳に天を見すかす伊予簾」などがある。