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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 西鶴と伊予

 俳諧師井原西鶴は、天和二年(一六八二)の『好色一代男』の好評に力を得て浮世草子作者として精力的な活動を始めるが、雑話物、武家物へ移ると、取材を全国的に広げるようになる。その中に伊予の話も入ってくる。

 衆道の契り(松 山)

 貞享四年(一六八七)正月刊行の『男色大鑑』は、副題を「本朝若風俗」と言い、男色をテーマとする八巻四〇章の男色説話が描かれる奇書である。本書の巻三の五「色に見籠は山吹の盛」の章に松山藩の武士、田川義左衛門の話がある。彼は江戸城外郭の虎の門の辺りにあった松山藩大名屋敷の長屋に住んでいた下級の勤番侍であった。本文中に「今血気盛なる若侍田川義左衛門とて。少年のむかしは四国のならびもなき美形なり。名は松山に高し。」と紹介されている。彼は少年の頃は大変な美男子であったが、事情あって浪人していた。しかし幸運にも間もなく帰参がかない、もと領していた知行通り六〇〇石で召し抱えられることになった。その年のある春の日目黒の不動に行き出雲国松江藩出身の美少年奥川主馬という御小姓を知って見初め、それからは松山の主家を離れ浪人となりながらも遂に二人が衆道を結び合うに至る、三箇年間の話である。ここに松山藩の一途な好男子のエキセントリックな男色の話が描かれているのである(資600)。

 衆道と敵討(松  山)

 貞享四年四月刊の『武道伝来記』は八巻三二章の大作。全国に武士の敵討ちの実体を求めて収録したもので、諸藩に残る公式の型通りに成功した記録的なものとは違ったユニークでバラエティーに富む現実の敵討ちのありのままの姿が暴露的に描かれている。本書の巻三の第二「按摩とらする化物屋敷」の章は伊予が舞台となった敵討ちの話である。豊後の府内(大分市の旧称)に梶田奥右衛門という武士がいたが、彼の生国但馬で兄の奥之進が戸塚宇佐衛門に喧嘩して殺害された旨の手紙を受け取った。その中に仇敵は「四国へのきたるやう」に書いてあったので彼は「翌日豊後を立先伊予舟に取乗て松山にあが」った。ここで「伊予舟」というのは伊予行きの舟の意である。松山には叔母婿榎本才兵衛がいたのでそれを頼ってであったが、敵はなかなか見つからなかった。仕方がないので所望されるまま築城の秘伝を教授していたところ弟子の中に大津兵之助という今年一七歳の美少年がおり念友となり彼に敵討ちの件を語った。幸いなことに敵は兵之助の父が越前にいた時の旧友だったので父親の生前二度も訪問して来たので見覚えていると力づけてくれた。ある時敵が「同国今治に居るよしつけしらすもの有て。近日」中に今治へ行こうとしている折しも、奥右衛門はひどく腹痛をおこす。兵之助は神々に祈願をかけていたので奥右衛門が回復に向かう頃お礼参りに「浦辺の八幡宮へ参詣」した。今治市大浜にある大浜八幡神社で、今治の産土神である。兵之助はその途中小舟に乗って逃げようとする敵に会い、相討ちをしたが自分も左手首を切り落とされた上逃げられてしまった。病気中の奥右衛門にはこのことは言わず外科医者諸内玄庵に頼んでひそかに手当てをしてもらったが、やがて奥右衛門の知るところとなり兵之助も助太刀を望み殿様にお願い申し上げ快く承諾を受け、二人同道にて中国筋へおもむき敵を探索し目出度く本懐をとげた。奥右衛門は兵之助を「伊予国へ送り届け是御前の御機嫌よく。衆道の情武道のほまれ人の鑑世かたりとなっ」た。この一章は殆ど伊予が舞台であり、大津兵之助や諸内玄庵などが出て来て興味深い。そして天晴松山藩の武士道を高揚した話ともなっているのである(資602)。
 ところで森鴎外の歴史小説の第四作に『護持院原の敵討』(大正二年)というのがあって、その一部に伊予が出てくるが、今の話とは全く地理的には逆である。即ち伊予路から豊後に向けて敵を追って通り過ぎるのである。その地名の部分を抜き出してみると、伊予の国の銅山・西条・小春・今治・松山・道後の温泉・湯町・中大洲・八幡浜である。鴎外はこの小説を書く時西鶴の武家物をある程度読んでいて参考にしたのではなかったか。直接の藍本ではないにしても。もっとも原拠については『山本復讐記』であろうと尾形仂氏が考証されてはいるが、なお私には西鶴の影響もあると思われる。ここの所でも同じ敵討ちの話であるし、伊予路で両方とも腹痛を起こす場面があったり、文辞も同じような箇所がある。『武道伝来記』のこの話のところに「むなしき年月を爰にて送る無念なり」とあれば、『護持院原の敵討』の方では「四国の旅は空しく過ぎたのである」とある。

 武士の意地(宇和島)

 同じ『武道伝来記』の巻三の第三「大蛇も世に有人か見た様」の章は終始伊予の宇和島が舞台となって展開する話である。「行春の桜鯛堺の浦に限らざりけり。予州宇和嶋と云所に手繰の綱をおろさせ女まじりに今や引らん」という書き出しである。「五端帆の舟弐艘を」そのまま「出嶋の宿」の縁先に横付けにさせて、魚を網ごと釣り揚げ、海水をたたえ生簀に放って舟遊山をしていた。が、にわかに海鳴りがして大蛇がうねり回りそれを見た連中は肝をつぶしてしまった。その中で石目弾左衛門だけは、汝の正体は何者だ、と大音声をあげて睨みつけた。すると不思議にも大蛇は淡路島の方へ行くと見えて波も静かになった。その後この時のことが城下で専らの噂となり、成川専蔵と木村土左衛門とが臆病であったことが人の知るところとなった。その事を井田素左衛門の所で久米田新平たちが話しているのを専蔵の子息滝之助が聞きつけた。素左衛門と専蔵は念友の間柄であった。滝之助は親の恥辱を雪がんものと思ったが、言いつのって果たし合いになっては恥の上塗りになるやも知れぬと分別し、当時太田鬼トという牢人が丹石流の道場を開いて家中の若侍が弟子となり剣術を稽古していた。ある日受け太刀のことから滝之助はうまく新平に真剣勝負で決着をつけようということにした。こうして「椿原」で新平と助太刀の弟分富坂弁四郎組対、滝之助及びその助太刀の素左衛門の果たし合いという事になり、四人ともども切りつ切られつ、遂に滝之助は新平を討ち取り本望を達したが、自らも多くの手疵のためはかなくなって四人ともども凄惨な死を遂げるのである(資605)。

 表向は夫婦の仲(金子合戦)

 元禄元年二月刊の『武家義理物語』は、身分制度の確立した徳川封建時代に武士階級の守るべき義理に徹した理想的な武士の群像を描いた作品である。本書の巻六の二「表向は夫婦の中垣」の章に伊予武士の清浄誠心の美談を伝える説話がある。「文録の比。都のにし東寺のほとりに。常にかはりてふしぎなる夫婦の人」があった。「文録」とは文禄の宛字で一五九二年から一五九五年の間である。女の方は一六歳ぐらいで物の言いぶりに少し「こなまりあって。四国そだちと」分かった。「此夫婦と見えし人の生国は。予州の武士なりしが。金子合戦。天正のみだれに。此息女の父。柳井右近うち死し給」うたのである。金子合戦というのは豊臣秀吉の四国攻めに際し、長宗我部元親の武将金子備後守元家(元宅、基家とも)は、宇摩・新居二郡の諸将を西条市氷見の高尾城に集めて連合軍を結成し、選ばれてその総指揮となり、弟元春は金子家の本来の居城、新居浜市中西部の金子山にあった金子城(金子山城とも)で守っていたが、天正一三年(一五八五)七月一七日、秀吉の部将毛利輝元・小早川隆景・吉川元春らの連合軍三万余騎のために攻略された合戦である。この時わが郷土軍は一人残らず討死してしまったと言う。『土佐軍記』によると「十一日にしてせめおとし男女撫で切りにする」という悲愴な戦闘であった。柳井右近もその中の一人であった。右近が討死する時妻子の事をその部下の老人に依頼したのである。親仁は「田舎人の律義さ。」「身をかため。武士の心底を立」て決して男女の情に気を移さず立派に御息女を養いたて、御息女はある「高家」(宮中または公家)の御寵愛となり幸福に暮らしたのであるが、それには親仁の清廉さが大きく働いていた。いろいろな調査にも合格しいよいよ官女選出という時、この親仁と娘が夫婦の交わりをしているという噂が、たった一つの故障となりあわや幸運も駄目かと思われたが、親仁の「わたくしなき誓文成と、ひだりのかいなを自うちおとして。泪に沉」む真心に感心なされ、御息女の美しさに何の疑いもなくなった。伊予の武士の義理に徹した行為が語られているのである(資607)。

 浪人のはて(松 山)

 元禄元年一一月刊の『新可笑記』巻四の三「市にまぎるゝ武士」の章にも伊予に関する話がある。昔筑後のさる大名に仕えていたが今は市井に隠れ住む武士が、その大名に仕えていた家来たち数人について物語って聞かせるのである。その中の一人に武士でありながら武芸をみがく事もせず、その身分をもわきまえず、こざかしく医者の真似などするのがいる。そんなことをしていればまともに勤まるはずがない。そこでその男はとうとう「与州松山のかた里」で医者の真似をして年月を送ることになった。そういう男でも伊予で暮らせたのだから結構な所だったわけだ。松山藩は貞享・元禄当時松平定直が城主であった。
 地誌『一目玉鉾』は元禄二年正月刊行である。西鶴が自分の旅日記をもととした道中案内記である。全四巻、伊予は第四巻目に記載されており、その様式は上段に、城下町・城主・宿駅・物産・神社・仏閣・名所・古蹟・故事・古歌等を記載し、下段にパノラマ式の地図を配している。道中記の実用性と歌枕の趣味性を兼ねようとしたものである。伊予の辺りは瀬戸内海を船旅し、大阪から九州向けて船中から右の山陽道左の四国路と交互に見渡すように記載されている。宇和島が挿絵では全くの島嶼に描かれていたりして興味をそそられる。(資597~599)
 また詳しくは丸木一秋「西鶴作品にあらわれた伊予」(愛媛国文研究第一五号)参照。

 西鶴と伊予俳人

 西鶴はもともと俳諧師であり、当然のことながら伊予の俳人とも関係がある。まず桑折宗臣については『古今誹諧師手鑑』(延宝四年序・西鶴編)・『高名集』(天和二年刊・風黒編・西鶴画)に、秦一景については『古今誹諧師手鑑』に「伊予 秦一景不相ロや是花の口風のロ」として掲載されている。一景は松山藩主松平家の御用商人で富豪として聞こえ高く、俳諧も貞徳の直門として知られ、寛永一二年伊勢桑名から移って来た初代藩主松平定行の俳友でもあった。(資料編目録に未載録)。今治の西畑については『俳諧物種新付合』(延宝六年刊・西鶴編)に、江島山水については『西鶴大矢数』(延宝九年刊・第五発句)に、曙舟については同じく『西鶴大矢数』(第一〇五・第三句)に、それぞれ句がとられている。松山藩主松平定直集成による短冊貼雑屏風「御船屏風」には西鶴の二句がある。

 俳諧の中の伊予

 一遍上人については西鶴作品に様々な形で登場する(第七節二)ので、ここではその作品のみ列挙しておく。『独吟一日千句』(延宝三年自序・西鶴編)第四・同第六(資料編目録に未載録)・『熱田宮雀』(延宝五年成・兼頼編)の巻末に西鶴・兼頼の両吟歌仙があり、その中に出る・『大坂壇林桜千句』(延宝六年刊・友雪編・全巻西鶴が一座しているその第三に出る)・『飛梅千句』(延宝七年刊・西鶴編)第三・『みつかしら』(延宝九年序・賀子編、本書の花百韻は西鶴・賀子の両吟でこの中に出て来る)・『西鶴大矢数』巻一の第七(資料編目録に未載録)・同巻二の第一二・『諸艶大鑑(二代男)』(貞享元年刊)巻一の二・『好色盛衰記』(貞享五年刊)巻五の二・『一目玉鉾』巻二「遊行寺」の条・『西鶴俗つれづれ』(元禄八年刊)巻五の二、以上に登場する。大森彦七については、『独吟一日千句』第八・『西鶴大矢数』第二・『好色一代男』(天和二年刊)巻一の一・『西鶴織留』(元禄七年刊)巻四の二、に出てくるが、彦七も(第七節三)ここでは列挙するのみにしておく。
 伊予については、『俳諧之口伝』(延宝五年)に松山が出る。その外にも記載されているが、資料編目録にも挙げなかったので、本文も含めて列挙する。『俳諧虎溪の橋』(延宝六年刊力。大阪の西鶴と京都の那波江雲と江戸の田代松意の三人で三〇〇韻をまき、西鶴が編纂刊行したもの)の第三に「松山は浪のうち越本名所(鶴)/十五万石雪のゆふぐれ(雲)」とある。『諸艶大鑑(好色二代男)』(貞享四年刊)巻七の二に、「此度、伊与の親類方へくだりて、せめては一日暮しにして、親仁が機嫌をなおすまで、身の置所頼む也。」とある。『男色大鑑』巻七の二に、「又舟に乗移り、くだり日和をうれしく、風早の浦、十二日の暮つかたより、此男の心ちうかうかとうちなやみて」とあり、文意から考えて「風早の浦」は伊予の国の松山の北、北条と柳原の間を「風早の浦」と言うが、そこを指したものと考えられる。『西鶴織留』巻四の三に、伊勢参りの旅人に取りついて世を渡っている歌比丘尼が言うせりふがあり、その中で「是伊予の松山の衆様」とある。
 道後温泉の湯桁については、『両吟一日千句』(延宝七年刊・青木友雪との両吟・西鶴跋文)の第二に「不思議や物を申す石壇(鶴)/小芝居の中は十六左八ツ(雪)」とあり、この付合は道後の湯桁を詠んだ古歌「伊与の湯のゆげたの数は左八つ右は九つ中は十六」によるものである。資料編目録にもないのであげておく。また『大坂壇林桜千句』第十にも登場する。
 越智郡大三島の宮浦に鎖座する大山祇神社については、『西鶴大矢数』第一に出るが、『飛梅千句』の第八に、
 「能因よ爰すらるゝかこはなんと(賀子)/三嶋に続く神祇釈教(仁交)」としても出る(資料編目録に未載録)。付合は『十訓抄』一〇等による能因法師の雨乞いの歌の説話(第二章第三節三)によるものである。『飛梅千句』は西鶴が大阪天満天神の廟前で知人門人の一三人と催して興行した一日千句である。その外『西鶴大矢数』巻五の第六八に「鰯よせくる宇和島の穐」、『男色大鑑』巻二の三に「宇和の郡の魚焼かほり」と出てくるが、これらは第九節「地誌・物産」で解説されるから、ここでは列挙するにとどめておく。