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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 江島為信

 漂泊野人

 仮名草子『身の鏡』(万治二年・一六五九刊)、『理非鏡』(寛文四年・一六六四刊)の作者として、当時相当に知られていた作家に江島長左衛門為信がいる。もっとも前者跋文末に「日州之住無名之野人編之」とあり、後者跋文末に「生所日州之住無名漂泊野人記之」とあり、兵法書『古今軍理問答』(寛文五年刊)奥書に「日州宮崎之郡清武之産漂泊野人記之」、同じく『闕疑兵庫記』(寛文七年刊)にも「日之向州之産転客江島氏為信記之」とあって、「漂泊野人」すなわち江島為信ということが判明しても、それが「伊与今治松平駿河守家老江島長左衛号松風軒」(伊丹市岡田利兵衛氏蔵短冊「幾度かおもひ定めて河豚の汁、松風軒山水」裏書)と結び付けられたのは、近時のことに属する(「国語国文」21の6・松田修)。その為信について『今治夜話』(文政元年・一八一八成)は「○江島長左衛門為信先生は日向国飫肥の産也。初は海老原氏、後江島氏改。定房様より定陳様御代の勤仕なり。御政務法令御軍記等改正す」と伝え、『続今治夜話』(明治初年頃成)はさらに「○江島長左衛門為信は、日向
飫肥伊東家の藩中江島内蔵助入道為頼の季子にて、年二十一日州を退出し、江戸芝新銭座に於て江島三左衛門と称へ浪人中、小泉三郎右衛門宣安始而出逢ひ懇意に致し、遂に宣安推挙にて寛文八年戊申年七月廿七日新知百石に召出被たりと云」と詳記している。『今治夜話』のいう「初は海老原氏」は不審であるが、『理非鏡』上巻の「愚母いさめの事」の条に「我は嫡子にあらず。次男にて家督をうくべき筋ならねば、十二三の頃より養父を求めてつかはしけり」とある養家の姓をいうのであろうか。また、同書中巻「鍋見物の事」の条に「やつかれ十七才の冬、江戸より都に上り侍りしに」と見えるのは海老原家の者としての公務によるものであろうか。いずれにしても「愚母いさめの事」に「其後さるしさいありて父母の国を立退いて、遠国に漂泊する」とあるのが、『続今治夜話』の「年二十一日州を退出」にあたるとすれば、如上が為信の青少年期で判明していることのほとんどであり、以後寛文八年三四歳で今治藩士となるまでの十余年間が「漂泊野人」の時代ということになるのである。
  「漂泊野人」の生活は、京都で伊藤内膳入道玄亀に従って道漂流の兵法を学ぶことから始まったという。また大阪に下り、刀工井上真改の隣家に住したこともあった(『吹揚遺談』)。とすれば『難波雀』(延宝七年・一六七九刊)に「刀鍛治 上町大工町 井上真改」と見えている場所であることになる。やがて二五歳にして『身の鏡』が出版された。「万治二巳亥年初春 芳野屋開板」と刊記のあるのがそれであるが、好評であったらしく寛文八年に再刊されている。三〇歳の時『理非鑑』が出版された。翌年寛文五年には『古今軍理問答』を、寛文七年には『闕疑兵庫記』を出版している。寛文八年の『身の鏡』再刊と、小泉三郎右衛門宣安の今治藩への推挙との先後は不明であるが、ここに「漂泊野人」の生活に終止符がうたれることになった。小泉宣安との出会いやその推挙の契機も不明というより外はないとしても、状況としては「漂泊野人」の著述活動があずかっていたであろうことは、想像に難くない。
 ともあれ寛文八年、三〇歳にして仕官の道が開かれてからは、翌年の二〇石加増、五〇歳のとき三〇石加増、五六歳のとき百石加増、翌年五〇石の加増、華甲の歳には二百石の加増をたまわり、今や計五百石取りの藩老となったのである。これらが「太田道灌持資流兵式演習隊制」の編成、同兵学師範、七書講義(「江島為信年譜」・真木虎雄)などと無縁ではないとすれば、「漂泊野人」時代の見事な結実というべきであろう。
 元禄八年(一六九五)十月八日六一歳で江戸で没するまで、三〇年になんなんとする今治藩士としての生活は国許で半分、江戸で半分であった。
 為信が俳諧の世界にも足を踏み入れていたことは夙に周知のことである。『山水十百韻』(延宝七年・一六七九・跋)はその俳諧集であり西山宗因の批点を乞うたもの、また井原西鶴の大矢数俳諧興行(延宝九年)には「第五」の「何茶鱣」で発句をつとめている。

    飛や蛍宇治瀬田ならす大矢数     江嶋山水
    芝は扉の拍子に懸って        西鶴
    玉の段舞のはしまり去ほとに     牧野西鬼

 当時の談林俳壇における位置をうかがう資料ではあろう。またその故にこそ天和二年(一六八二)七月八日岡西惟中の来訪、俳諧興行(『白水郎子記行』)もあったのであろうし、貞享二年(一六八五)大淀三千風の挨拶(『日本行脚文集』巻五)もあったのであろう。
 栄光ある晩年を過ごした為信は、江戸で没する。享年六一歳、時に元禄八年(一六九五)十月八日のことであった。法名「高峰院徳厳玄行居士」。墓は江戸と今治に設けられたが、後者は今治市海禅寺裏山墓地に現存する。墓石には辞世「問ふ人の哀とも見よ松陰の石になき名の残るばかりを」の外、七言絶句一首を刻している。
 身の鏡

 前述のごとく、『身の鏡』は『理非鏡』とともに為信の代表的著述であるが、そのまま「小説」と呼ぶわけにはいかない。ここは文学史上二書ともに「仮名草子」として扱い、「仮名草子」の名で近世小説の初期的なものを一括していることを、便宜的に利用したにすぎないことを断っておく。
 上、中、下巻の三巻三冊からなり、上巻「人ごとに明徳備る事」「合点のはやき事」「武辺だての事」「使者男の事」「定業非業の死(の)事」「不思議なき事」「人間畜類のわかちの事」「人は情の事」「好色のあしき事」「大閤噂の事」「分別づらする人の事」「童部に偽聞す間敷事」の一二章、中巻「富貴の驕の事」「かくし目付横目の事」「人挨拶の事」「軍法の事」「理と仕合のなりの事」「我子の悪しきを不知事」「さし引算用の事」「見物の場の事」「義経梶原が事」「内義公儀をしらざる事」「酒と女に心ゆるすなと云(ふ)事」「身と名との事」の一二章、下巻「身の程をしらざる事」「意の罸の事」「武道無心掛にて運次第と云(ふ)事」「仏神信仰の事」「口論の事」「歌道の事」「気根の沙汰の事」「喧嘩物語の事」「聴聞の心持の事」「にくき物の事」「へつらふ人の事」「理の上の理の事」「親に孝行の事」の一三章、合計三七章を一つ書きで収めている。
 仮名草子について通常行われている分類に従えば、「啓蒙教訓的なもの」のうち「随筆的なもの」に属する作品である。その典型的な作品と言ってもよい。内容は題名が意味するように、人として生きる道を示した断片的な文章の集合であって、各章間に何らかの展開的秩序があるわけではない。後続の『理非鏡』に『徒然草』の引用が見えることからも窺えるように、範は『徒然草』にあるとみてよかろう。
 処世訓といっても一つの立場からなされることもとよりであって、為信の場合は儒教である。上巻の「不思議なき事」の章で、「さる所に此やうなるふしぎありなど云(ふ)事、みなみなわきまへもなき云分なるべし。すべて世上にふしぎはなきものなり。ふしぎとさたする事は皆みなれぬ事と心得べし」と「怪力乱神」を語るを戒め、中巻の「理と仕合のなりの事」の章では、ある人の説として「理といふ物は四角なる物なり。不動にして丈夫にあり。仕合といふ物はまるき物にして、さして有所さだまらず、ころびまわりて、もつとも善人のまへにも行きまた悪人のまへに行く。理といふ物は善人のまへばかりにあり、悪人のもとめがたき物なり」というを引き「もつともなる事」とし、さらに下巻の「仏神信仰の事」では、「たとひ礼拝し香花を手向ずとも、心を正直にもち邪なくば、いのらずともよかるべし。古歌にも、こころだにまことのみちにかなひなばいのらずとても神やまもらん」として、現実主義的合理主義の立場を堅持しているのである。この現実主義的な考え方は、下巻にある「へつらふ人の事」の章において、「彼のへつらふ人は諸人の気によくあふ。其気にあふは又何事なれば足かろく走りまはり人の用を調へ、我が所持せぬ物なれば脇よりもとめて人の用を達する」有益性を積極的に評価しようとするところにも認められる。

 やや文学的章段に下巻の「にくき物の事」がある。次に全文を引く。

     に く き 物 の 事
  一おもふ人とたまさかに枕をならべ、秋の夜の長きをも夏の夜とうたがひ、いにしへのあまの岩戸に日月もとぢこもらせ給へかしとおもひ寝の、暁つぐる鳥鐘。忍ふ夜の犬の声。又、見物の場にて、うしろの人にもかまわずふん立ちて見る人。聴聞の場にて心耳をすます折ふし、わきの人の物語。我が前にてはしたしく立ちてかげ事を云ふ人。酔狂のたはごと。いそがはしきとしりながら遠慮なく長咄をする人。かやうのたぐひかぎりなし。

 これはまさしく『枕草子』のパロディであり、『尤の草紙』(斎藤徳元・寛永九年・一六三二)の亜流である。松永貞徳と親交のあった徳元の名を、山水為信は知っていたかもしれない。いずれにしても詩を作り歌をよみ、俳詣に親しんだ為信であってみれば、このような文章の存在は不思議ではないが、彼の人生において文学は何であったか。
 右の引用文中「聴聞」の語があるが、これはかならずしも説法講釈の聴聞ではないらしい。下巻の「聴聞の心持の事」に「舞、上るりを聞かんには、うたがひをなさずきくべし。此事は誠にてはあるまじ、是はそでなき事など云ひて其座で評判する人多し。それ程いつはりとおもふ事ならば、聴聞は無用なり」とあるからである。同時にこの一章は、「舞」すなわち幸若や浄瑠璃などの、いわば狂言綺語を「むかしの事なれば、うそらしき事にても、老若雨中のつれづれの座興には心をむかしになして聞くを本意とせり」と、その本来的な意義において認める立場をも表明しているのである。下巻の「歌道の事」もまた、はっきりと彼の文学に対す認識を語っている。すなわち「連歌はいかいを癆瘵がほにて案ぜんよりは、高まくらにて寝たるこそましならめ」とか「宗匠にみするなれば百韵にては銭二三百のついへ」という非難に対しては、「歌道をそしる程の人のなじかは身持のよかるべき。はいかいのついへよりは大きなついへ多し」とし、博奕や傾城ぐるいを挙げている。また「歌道をしらぬ人の物云ふ程おかしき事はなし」という状態から救うのが歌道だとも述べている。勿論、「歌道ばかりに心をよせたらば悪しかりなん。さりながら傾城ぐるい博奕を好む人よりははるはる上にて有らんか」という枠の中においてである。

 理非鏡

 上巻一〇章、中巻一一章、下巻一一章、合計三二章からなり、前著『身の鏡』とほぼ同じ体裁で、五年後に刊行された。内容的にも「啓蒙教訓的なもの」のうち「随筆的なもの」という点で変わらない(『愛媛県史』資料編文学所収)。ただ、前著にはあまり目につかなかった『論語』『史記』『大学』『孟子』『書経』『中庸』『荘子』などからの章句引用が多く、引用のないのは九章に過ぎないこと、上巻の「愚母のいさめの事」、中巻の「鍋見物の事」、下巻の「後悔の事」などに自伝的記事が散見されること、処々に為信が大阪で生活していることを思わせる文字の見えること、天下国家とまではいかなくても、前著よりは議論の対象が拡大していることなどの特徴を指摘できる。