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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 貞門

 伊予俳人の登場と貞門俳壇

 伊予の俳人が公刊の俳書に初めて登場するのは、明暦二年(一六五六)正月刊行の大坂俳書『夢見草』(休安撰)で、吉政という人一名が同書に入集する。俳書刊行の最初である『犬子集』(重頼撰)が、伊勢山田一〇〇・京五万堺一九・江戸五・因幡二・大坂一と六か国の作者合計一七八名(読人不知を除く。)の発句・付句を収集して、寛永一〇年(一六三三)に刊行されてから、二〇数年後のことである。ちなみに四国では、土佐の俳人五名が正保四年(一六四七)刊行の『毛吹草追加』(重頼撰)に初出するのが最も早い。伊予俳人の出現はそれより約一〇年遅れるが、当時はなお広く諸国の愛好者を糾合した俳諧撰集の刊行はきわめて少なく、撰者との関係の有無等にもよるので、『夢見草』に至るまで伊予俳人が皆無であったとは、必ずしも言えない。
 もっとも、明暦の前後は、俳諧に限らず、浄瑠璃・歌舞伎・仮名草子などの分野でも、それぞれの意味で近世初期文芸史上の画期に当たるが、特に俳壇では承応二年(一六五三)一一月一三日に、一代の権威であった松永貞徳(八三歳)が没したこともあって、直門の高弟たちがいっせいに独立して門戸を張り、主導権をめぐって激しく抗争し、自派の勢力拡大を競ったので、承応・明暦の交から一段と俳諧の流行に拍車がかかることとなった。江戸・尾張・伊勢・堺・大坂などの各地方俳壇が台頭し、京の中央俳壇ばかりでなく、地方俳人の手になるものも加わって、俳書の出版が急増する。それら地方都市俳壇からの働きかけもあいまって、全国津々浦々まで俳諧の普及を見るに至った。俳書の形式・内容も多彩になるとともに、万治の頃には雑俳の先駆となった六句付なども発生するなど、俳風においても多様化する。多くの新人群の登場に伴い、貞徳没後の承応・明暦以降、談林の台頭を見る寛文末年に至る約二〇年間の貞門第二期は、作風の点でなお根強く保守性を残しつつも、俳壇全体としては極めて活気に溢れた、いわば繚乱期とも言うべき時期であった。わが伊予俳人も、そうした時代の状況を反映して輩出するわけである。

 伊予俳人の入集状況

 以下、いささか煩瑣ではあるが、この間の伊予俳人の刊行俳書への入集状況を掲出する(ただし『大海集』は、入集者多数のため作者別の句数は省略した。伝本が零本等のため全入集者数不明のばあいは、書名の右肩に※印を付し、入集作者数に(他)の文字を付した。人名下の漢数字は入集句数で、「付」の文字のないのは発句数であり、「付」のあるのは付句数を示す。今栄蔵・榎坂浩尚両氏編『貞門・談林俳人大観』(近世文芸資料と考証1~10)に拠り抽出したが、筆者の調査によって一部補訂した。)
 貞門の最盛期約二〇年間に成った俳諧撰集の類九〇数部のうち、伊予俳人は三六部の俳書に入集している。最初の伊予俳書『大海集』を除く三五部の俳書への入集作者は、合計七五名を数える。このほか『大海集』にのみ見える作者が、全入集伊予俳人一八一名中宇和島・八幡浜地方を中心に一六五名を数える。この間、なかんずく多くの俳書に顔を見せる俳人には、秦一景(入集俳書数23部)を筆頭として、中松宗利(13部)・可夕(9部)・明星静集(8部)・簾屋広橋良信(6部)・岡田契舟(5部)・古庄政矩(5部)・桑折宗臣(5部)・幸重(4部)らがある。そのうち可夕が小松、宗臣が宇和島であるほかは、みな松山住である。
 一景に次いで多くの俳書に入集する中川宗利は、残念ながらその伝を明らかにできないが、万治二年刊の『捨子集』(梅盛撰)に二一句も大量に入集するのが初出で、その中に「与州松山の城にて」と前書する「六十や与州にハまつ山の月」という句が見えるのは、注目される。また明暦二年の『口真似草』に初出して以後、梅盛の撰集に頻出する明星静集を初め、『捨子集』に初出、寛文四年の『落穂集』(梅盛撰)にも入集する明星道琳、寛文六年の『細少石』(梅盛撰)に初出し、『大海集』にも入集する明星探月らは、ともに寛永一一年(一六三四)七月久松(松平)定行公が桑名一〇万石の領主から松山一五万石に転封になった時、従って来た商人の一族であろう。探月は、松山転居当時は僅か七歳(没年より逆算)であるから、あるいは静集の子であろうか。長じてながく大年寄役を勤めるかたわら、和歌・俳諧を嗜んだ。後年、天和二年(一六八二)に大坂の岡西惟中を迎えて、地元有志が興行した「時鳥十歌仙」にも出座している(『白水郎子記行』)が、元禄四年(一六九一)五月、六五歳で没し、城下の弘願寺に葬られた(景浦勉『伊予俳諧史』)。また酒造業を営むかたわら俳諧を嗜み、同じく天和二年に惟中が来遊のさい、自亭に招き(四月一八日)、また「時鳥十歌仙」にも加わっている後藤故心(貞享元年没)は、この時期昌道の名で、寛文八年刊『細少石』(梅盛撰)に初出する。
 なお寛文七年刊『続山井』(季吟撰)に「月の夜会に種々の物数寄/詩を題し歌よみ連歌誹諧師」など、付合三句が載る「いよ松山鴎」と名乗る人物は、誰であろう。一字名は、身分の高い人が暗号のように用いたもので、室町時代の連歌などには広くおこなわれた習慣であった。撰者季吟は、他にも領主や貴顕との交渉があり、おそらく勝山公こと、初代松山城主定行の匿名であろう。特に万治元年(一六五八)、定頼に藩主を譲って隠居後は、寛文八年(一六六八)一〇月一九日、七九歳で卒去するまで、悠々自適して風雅に生きたものと思われる。

 秦一景

 秦一景は、伊予俳人中群を抜いて多くの俳書に姿を見せ、しかも入集句数も格段に多数を誇っている(延べ二六七句)。寛文一一年刊行の絵入発句集『新百人一句』(重以撰)には、諸国の俳人百人(実数九九人)中の一人に選ばれるなど、黎明期における伊予俳壇の第一人者と言ってよい。一景は、宗臣撰『詞林金玉集』(延宝七年序)巻一九の作者句引に、「秦氏・直昌入道・初住伊勢州桑名」と肩書する通り、名を直昌といい、もと伊勢の桑名の人である。明暦二年の『崑山集』(良徳撰)にも、「桑名住、秦十太夫」と肩書する直昌の発句一六句が入集する。ちなみに同集には、「秦十郎左衛門直信」という、同じく「桑名」住とする人が一句入集する。おそらく同族であろう。一景も、寛永一一年桑名藩主久松定行の伊予松山移封に伴い来従した有力な御用商人の一人で、屋号を〝楠屋〟(樟屋とも)と称した。
 寛文八年定行公が卒去したさいには、翌月の一一月廿一日に追悼の句会を催し、藩主の定長に発句を乞い、樟屋一溪が脇をつとめ、以下数氏を加えて巻いた面八句を、藩侯の命を受けて一溪が常信寺へ持参して奉納した旨、『松山叢談』(第一巻)に見えるが、「一溪」は一景のこととみられる(曽我部松亭「秦一景に就て」伊予史談八二号)。
 また延宝五年(一六七七)の『誹諧隠蓑』(似船撰)には、「主人、けふ初て関東へ続目の御礼有ける祝に」と前書した「夏咲る花や継目のだいかハり」という一景の句が見える。句作の年時は明記されていないが、三代定長は寛文二年に襲封して、延宝二年に逝去し、同年夏四月に今治藩主定時の子定直が迎えられて、一四歳で松山四代藩主となる(享保五年、六一歳没)。おそらくその時の奉祝の句であろう。また同集には、「主人、けふ初て信国の腰物を帯したる、と宣ふを祝し侍りて」と前書のある「くゝたちに齢ひをやのぶ国の守」という句も見える。共に定直公に捧げた句とすれば、一景は四代の藩主に仕え、風雅を通じても歴代藩主に親しく、厚い信任を得ていたことがうかがえよう。「東国下向に」「住之江汐干に」「伊勢の亀山庄野通りしに」(以上『捨子集』)「尾州熱田にて」(『続山井』)「越前にて」(『木玉集』)「長良にて」(『如意宝珠』)などの前書のある旅中吟は、商用・行楽の旅のほか、参観する藩主に扈従して江戸へ往反したさいの句もあるかも知れない。
 一景の俳書への入集は、前述のように明暦二年の『崑山集』が初見であるが、延宝二年の『歳旦発句集』には、「年代不知」の項に「正月や祝ふたうげのいもの神」という一景の歳旦吟が見える。前後の句の年記から推して寛永一五年(一六三八)以前の作の可能性も考えられるが、慶安五年(一六五二)以降の句を収める知足書留の『歳旦帖』(綿屋文庫蔵)には、明暦三年および同四年の一景の歳旦句が初出することからも、熱心に句作に打込むようになったのは、やはり明暦の頃からであろう。師系は、初めは貞徳ないし良徳門かとみられるが、この時期は他の松山商人同様梅盛の撰集に比較的多数入集する傾向が見える。一景の作句活動は、後述するように延宝の談林期にも衰えを見せず、貞享二年八月に大淀三千風が来遊したさい、一景が上洛中のため留守宅に書状で挨拶を受け、発句の交歓をする(『日本行脚文集』)などのこともあったが、翌貞享三年(一六八六)二月廿三日没し、正宗寺に葬られた(曽我部松亭「秦一景の歿年」伊予史談九〇号)。享年は未詳であるが、延宝四年の季吟撰『続連珠』巻一一に、「四十八の春 古郷を思ひ出て」と前書のある「古郷祝へ桑名の桑の年の春」という歳且吟が見える。

 最初の伊予俳書「大海集」

 伊予俳人の手に成る最初の公刊俳書は、宇和島の桑折宗臣撰『大海集』である。寛文一二年(一六七二)四月廿五日付の自序と、京の貞門俳人宮川松亭軒正由の跋、および寛文一二年七月上旬、小亀益英開板の刊記を有し、横本七冊(ただし延宝四年刊『誹諧渡奉公』以下の古俳書目録には八冊とする)から成る四季類題別発句撰集で、「作者八百三十二人、国数三十九箇国、句数五千二十五句」に及ぶ。大部の撰集で知られる貞室撰『玉海集』(横本七冊・明暦二年刊)の作者六百五十八人、国数三十六箇国、発句二千六百二十余句、付句五百八十余句、計三千二百余句・梅盛撰『鸚鵡集』(中本十冊・万治元年刊)の作者千二百九十四人、二五箇国、発句九千九百九十九句・季吟撰『新続犬筑波集』(中本十冊・寛文七年刊)の作者七百二十七人、四六箇国、発句三千百三十、付句千百三十九、計四千二百六十九句などに並ぶか、または凌ぐ規模の一大撰集である。
 宗臣は別に、二年前の寛文一〇年五月(自序)に、先行の四〇部の俳書から秀句を抜書きした『詞林金玉集』五冊(桑折家旧蔵。戦災で焼失。)を編み、延宝七年にはさらにこれを増補して、前の四〇部を含む合計九七部の先行俳書から秀句約二万句を選抜した一九冊の稿本『詞林金玉集』(書陵部蔵)を完成している。両者の間に成立し刊行された『大海集』の自序にも、「抑、頃日世間にもてはやす句帳数々ありといへども、管見に及所六十余部、句数十五六万句に過ぬれば。」云々という一節があり、五冊本の『詞林金玉集』を編んだ後も、「世間にもてはやす句帳」の蒐集に努めていたことが分かる。したがって、『大海集』も先行の撰集からの抜書き句集である可能性が考えられよう。しかし、精査してみなければ確言はできないが、意外に既刊の撰集に見出せる句は稀であって、『詞林金玉集』とは異なり、独自に収集した撰集と思われる。星加宗一氏が指摘するように初撰本『詞林金玉集』(五冊)入集の伊予俳人一一名の発句合計一八句が『大海集』に全く見出せない(星加宗一「桑折本水宗臣」愛媛国文研究七号)ことも、『大海集』が五冊本『詞林金玉集』の単なる増補本ではないことを示唆していよう。また図書寮本の『詞林金玉集』(一九冊)は、九七部の先行句集中最も多く『大海集』(五〇二五句所収)から一八三一句を抜書き再録しているが、自撰の『大海集』を出典の一つとしてそれらの句頭に注記していて、他の先行句集と同様の取扱い方をしていることも、『大海集』がオリジナルな撰集であることを物語っていよう。
 尤も、『大海集』巻五(秋上)巻頭にある季吟の「秋やけさ露ふく風もはらりたち」という句は、延宝七年本の『詞林金玉集』には『難波草』からの引用句として注記があり、同句形で掲出する。しかし『難波草』は、寛文一一年七月成立の句集で、『大海集』の成立にきわめて近接しており、両者はそれぞれ季吟から同一句を入手したものと考えられよう。同じく「立秋」の項に「風ひえて身の毛もたつやけさの秋」という季吟の句が見えるが、増補本『詞林金玉集』には「風にけさ身の毛も立やけふの秋」という相似た句を志計の句として掲げ、『伊勢大発句帳』(刊年未詳)を出典として注記する。また同じく「立秋」の項に宗臣の家臣である臣常の「文月の硯の水か今朝のつゆ」という句が見えるが、図書寮本『詞林金玉集』にはこれと酷似する「文月の硯水かよ今朝の露」という句が大坂の方女の作として掲げられ、出典を『烏帽子箱』(寛文元年刊)と注記している。これら『大海集』所載の季吟・臣常の句の場合は、先行の句集に既出の句と等類であることに気づいて、増補本『詞林金玉集』には採らなかったものであろう。また『大海集』秋部「乞巧奠」の項に見える宗臣自身の句「七夕に是もかすかや雲の帯」に酷似する「七夕にかす半天や雲の帯」という句を、図書寮本『詞林金玉集』にはやはり宗臣の句として掲出するが、出典を延宝二年の『大井川集』と注記する。このケースは、『大海集』に発表後、推敲した句が『大井川集』に採られたので、『大海集』より後出の出典ながらそちらを『詞林金玉集』に挙げたものであろう。特に『詞林金玉集』は、秀句を選抜するという編成意図が優先していた(自序)事にもよるが、こうした『詞林金玉集』の選句や出典に関する慎重かつ入念な取扱い態度から推して、ある時期並行しておこなわれたであろう『大海集』の編纂においても、その自序に「尤、等類もくり侍らず。又は句のよしあしも正し侍らず。少人・女性の句など、たまたま言出す内なれば、何事も見ゆるしてとめ侍りぬ。抑、頃日世間にもてはやす句帳数々ありといへども、管見に及所六十余部、句数十五六万句に過ぬれば、此等類をばいかでか遁れ侍らむ」云々とあるのは、入集句の巧拙の点はともかく、等類に関しては、ある程度謙退の辞として聞く必要があろう。とかく陳腐な句の多い貞門では、おのずから等類を犯しやすく、等類・同巣の句をめぐっての論議がしばしば繰り返されている。或は、『大海集』のために収集した句について、先行の句集によって等類をチェックするうち、それら既刊句集からの選抜秀句集という特異な句集の編成を思いたったのかも知れない。
 『大海集』については、和田茂樹の「大海集・詞林金玉集について」(愛媛国文研究三号)に詳しいが、氏によれば伊予俳人は所収全俳人八三二人中一八一人で、全体の二一・七%を占め、そのうち宇和島俳人が一五六人で一八・七%に及び、さながら宇和島俳句集の観さえある、とある。また五〇句以上の大量入集者は、宇和島の正弥二七一句が最も多く、以下尾張名古屋の之也一九二句、撰者宗臣一八五句、宇和島の頼邑(宗臣の弟)一七二句、備中新賀村の信元九五句、宇和島の臣常八三句、同じく友清七六句、摂津大坂の松意五二句の順で、入集句数の上でも宇和島の俳人が圧倒的に多く上位を占めている。ちなみに宇和島以外の伊予俳人では松山の一景が最も多く入集するが、三五句である。
 なお伊予一八一人に次ぐ住国別俳人数は、摂津一〇三人、武蔵九三人、山城六一人、尾張・和泉各四七人、近江四五人、豊後二九人、阿波二五人の順に多く、伊予以外では、近畿および武蔵を中心に三八箇国に及ぶ広範な撰集でもある。しかし大規模な撰集にしては、当時の撰集の常識に反して、貞徳を初め京の重頼・立圃・良徳・西武・梅盛・安静ら、また江戸の徳元・玄札・未得らといった貞門の著名俳人の句は全く見当らない。わずかに京では季吟(三二句)・湖春(二七句)・正立(六句)父子のほか、友静・可全・元隣らの季吟一門の入集が目立つのと、貞室が四句だけ入集するくらいで、概して知名俳人は少ない。宗臣の撰集に特徴的な、住所・姓名・別号などの詳細にして丹念な記載によって、諸国の無名俳人多数の消息を伝えてくれることと、いささか南予に偏ってはいるが、何よりも二百人に近い伊予俳人を一挙に紹介した功績を多とすべきであろう。

 桑折宗臣

 宗臣は、姓は藤原・菅原とも。名は宗臣のほか宗武など。通称百助・左衛門。号は青松軒・本水大居士・宗禅居士・玄流など。宇和島藩主伊達秀宗の四男で、寛永一一年(一六三四)庶子として江戸に生まれた。寛永一七年父君の命によって重臣桑折宗頼の養子となり、七歳で宇和島に移り住んだ。承応元年一九歳で桑折家一六代を継ぎ、初代藩主で実父の秀宗公および異母兄である二代宗利公(明暦三年襲封)に仕え、城代に任ぜられた。寛文四年三一歳の頃、城南一・五粁の地にある河内山に青松軒を営んで隠居したものとみられ(「弊嚢集」自序)、以後は主に風雅三昧の日を送り、貞享三年(一六八六)三月三日没。享年五三。法名、青松院殿心外宗禅大居士。宇和島の龍華山等覚寺に葬られた(和田茂樹『愛媛大学古典叢書18大海集下』解説)。
 和歌を飛鳥井家に学んで古今伝授を受け、連歌および書道を里村玄陳・玄俊父子に学んだ。俳諧は図書寮本『詞林金玉集』の自序に「崑山集に先師長頭丸明心居士貞徳翁のかけるがごとし」という部分があるが、宗臣二〇歳の承応二年に没した貞徳の句を自撰の『大海集』に一句も入集せず、また連歌を玄陳に習い始めたのが明暦二年二三歳の頃からである(『宗武自詠発句帳』)ことなどから推して、必ずしも貞徳に直接師事したことを意味するものではあるまい。貞門の高弟のなかでは季吟の句を『大海集』に格段に多く入集していることから考えて、『俳家大系図』(天保九年刊)に言うように季吟門としてよかろう。
 宗臣の編著は、和歌・連歌・俳諧にわたって合計一五点を数えるほか、『文宝日記』(『桑折宗臣日記』とも。上下写二冊。伊予史談会蔵)がある。そのうち俳諧関係には、次のものがある。
 (1)『宇和島百人一句』(写一巻。寛文初期カ。原本焼失。)
 (2)桑折家本『詞林金玉集』(稿本五冊。寛文一〇年五月自序。原本桑折家旧蔵、戦災焼失。)
 (3)『大海集』(横本七冊。寛文一二年四月二五日自序。同年七月上旬刊。綿屋文庫・柿衛文庫他蔵。但し第三巻(夏上)・第七巻(冬・句引)は、伝本未詳。)
 (4)『郭公千句』(横本写一冊。自筆。寛文一二年六月一〇日興行、同年一〇月二七日清書。子規記念博物館星加文庫蔵。)
 (5)図書寮本『詞林金玉集』(稿本一九冊。自筆。延宝七年八月二五日自序。宮内庁書陵部蔵。)
 (6)仮題『青松軒之巻』(一巻。自筆。延宝八年七月四日奥。宇和島市、松本良之助氏蔵。)
 (7)「宗臣君歳旦発句」(『桑折宗臣吟詠集』〈写一冊〉所収。延宝六~天和三年歳旦三ツ物(七葉)。愛媛県立図書館蔵。)
 (8)「青松軒之記」(『宗武自詠発句帖』〈写一冊〉所収。天和三年一二月奥。愛媛県立図書館蔵。)

 正弥興行「郭公千句」

 右のうち『郭公千句』は、宇和島の特に熱心な俳諧仲間である①正弥②宗臣③ト桐④頼村⑤友清⑥永清⑦茂宜⑧直良⑨秋長⑩心松⑪直賢⑫一玄⑬臣常の一三人で巻いた千句で、各百韻の発句に郭公を詠んだことから「郭公千句」と名付けたもの。連衆のうち①から⑩の順に十名の者が各巻の発句を詠んでいる。巻頭「賦何秋誹諧。第一」の発句は正弥が「一声は千句一句ぞ郭公」と詠み、脇は千里心松が「文台なりにしげれ藤棚」と付け、第三を宗臣が「夏座敷瓶に指べき花もなし」と付けている。本書の初めに、「宿松堂主人加幡氏臨西居士正弥興行郭公千句。寛文十二壬子六月十日」とある通り、加幡正弥の主催によるものである。正弥は、通称勘助、のち仲太夫。当時百石、のちに百五十石となる藩士で、切支丹宗門改役をつとめた(愛媛近世文学研究会『郭公千句評釈(一)』解題)。『大海集』では撰者宗臣を遥かに凌いで二七一句と最も多く、図書寮本『詞林金玉集』でも一二七句と伊予では宗臣(二一八句。全体で二位。)に次いで多く(全体では七位)入集しており、地元俳諧連中の指導者格の人であろう。また西田臣常は、野山子と号し、『大海集』に「宗臣内」と注記せられているように宗臣の家士である。各巻とも一順の最後に一句付けるのみで、やはり星加氏指摘の通り執筆をつとめたものとみられる。なお千句は通常三日間で満尾するものであるが、初めに「六月十日」とある興行の日付は、その日一日で千句を成就したというのか、単に初日の日付けを示したものか、明確でない。談林派ではいわゆる〝一日千句〟の速吟俳諧が流行するが、この場合はやはり後者の意味に解すべきであろう。尤も、筆まめな宗臣の清書の成ったのが四か月余の後である(一〇月廿七日奥)ことからすると、人数も比較的多いことでもあり、あるいは三日間連続して巻いたものではなく、日時を隔てて集まり、また三回以上に分けて巻き継いだ可能性も考えられよう。そう言えば、全一三人の連衆のうち、第一巻では一玄と直賢の二名が、第二巻と第三では一玄のみが、第五巻では一玄・直賢・茂宜の三名が、第一〇巻では一玄のみが欠席している。三日間で巻くばあいは、一日に三百韻ないし四百韻作るきまりであるが、同じ日に巻かれたはずの三巻ないし四巻のうち、巻によって不参者の有無や欠席者の顔ぶれに出入りがあるのも、いささか不審と言えば言えなくもない。六月、郭公の季節をいささか過ぎて、「郭公千句」を企てたこと、「追加」(表八句・一順など)がないことなど、異例と思われる点がなくもないが、地方においてよく千句の大作にいどみ、見事これを成就した連衆の風流心には、眼をみはるものがある。

 延宝期と入集状況

 寛文末・延宝初年には、商都大坂を起点として宗因流こと談林派が台頭する。談林派は、三都を中心に特に都市の俳壇をまたたく間に席捲し、延宝の末年には、新旧両派、また特に革新側陣営内での激しい確執がおこなわれる中で、「今既に日本国に流布し、大形此風(宗因流)にかたぶきぬ。それ故、古風をあふぐ誹諧士、当風に吹せめられて、片目ばかりうごくやうに見え」(延宝七年『誹諧破邪顕正』)ると、貞門の論客中島随流を歎かせたほどの盛況を呈する。しかし地方では、徐々に談林への転向者や新規参入者も認められはするものの、談林派は流行し始めてなお日が浅く、半世紀にわたって普及した貞門派の勢力は依然として根強いものがあったことも見逃せない。尤も談林派は、参加者数が限られ、編むにも手間のかからない連句集を好んで刊行したので、数百・数千人の初心者の句まで広範に拾いあげた発句・付句撰集を精力的に編んだ貞門派に比べると、俳書の内容・性格の違いから談林の俳書には地方俳人の登場する割合が少ないことも留意する必要がある。ともあれ、延宝期俳諧の歴史的使命は談林にゆだねられていたことは確かであるが、事実上は新旧両派競合または共存の時代であった。いま便宜上、両派の撰集を一括して、管見に入った伊予俳人の入集状況を以下に掲げておく(ただし『詞林金玉集』は、入集者多数のため作者別の句数は省略する。また※印を印した俳書は、伝本未詳か零本のため、宗臣の図書寮本『詞林金玉集』に選抜された四季発句〈全一五巻〉のうち、春・夏の部〈九巻〉を調査して得た伊与俳人とその句数を参考までに挙げた。ただし土佐俳書『四名集』〈皆虚撰、伝本未詳〉のみは、四季の引用句すべての調査結果を示した。)。

 『詞林金玉集』

 この時期、貞門系の撰集では、全般的に宗臣を中心に宇和島俳人の活躍ぶりが目立つ。なかんずく宗臣が、前述のように延宝七年(八月二五日自序)に『詞林金玉集』二九冊)を完成したことは特筆される。『犬子集』より延宝五年刊行の『俳諧三部抄』に至る九七部の撰集のおそらく総数二三〇万句もの中から秀句を選んだもので、句数一万九千五百十九句、国数六六箇国、人数五千六百十七人に及ぶ厖大なものである。発句に限られていること、また例えば伊予が一四二名(うち宇和島一〇五名・松山二二名・その他一五名)で、讃岐二二名・阿波二七名・土佐四一名などに比べて郷土俳人を優遇するなど、多少の地域的偏りはあるものの、ほぼ貞門時代の俳人の勢力図を俯瞰できる点は、貞門の秀句とされる句の作風を一望できることと共に、益するところは大きい。また現在散佚して全く伝わらない撰集(一七部)や、零本など伝本不備なもの(一八部)について、その片鱗をうかがうことができ、あるいは多少とも欠を補ってくれる点は、特に貴重である。

伊予俳人の入集状況1

伊予俳人の入集状況1


伊予俳人の入集状況2

伊予俳人の入集状況2


伊予俳人の入集状況3

伊予俳人の入集状況3


伊予俳人の入集状況4

伊予俳人の入集状況4


延宝期の入集状況1

延宝期の入集状況1


延宝期の入集状況2

延宝期の入集状況2


延宝期の入集状況3

延宝期の入集状況3