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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

七 今治藩の和歌

 『今治夜話』に「宍甘権左衛門光似ハ、政胤ノ門人ニテ、今治二代ノ宗匠ナリ。三代目ハ江島助之進為親先生也。其後一色一雲翁伝書共御預リシヲ」云々とある。これによれば、今治の和歌史は、政胤-光似-為親-一雲、そして半井梧菴を加えれば、その主流をたどることができるであろう。
 また、『松の落葉』なる一冊があり、松平定房(寛永一二年伊勢より転封)以来、藩主を中心とした人々の和歌・発句等を集めている。今治史談会により収集命名されたもののようである。松平家の落ち遺った言の葉の意であろうか。和歌では定房一首、二代定時室戊子一首、四代定基二二首、六代定休三首、定温長女富子三首、定休四男定亨二首、七代定剛室磯子一首、定芝一二首、松山藩主定則養子定能二首を収める。この中で特に目につくのは定基の二二首である(この数に問題はあるが、後述)。そこで再び『今治夜話』巻四「詩歌並発句之部」を見ると、これは鈴木康永の日記からの抜粋が主であるが、その殆どが定基の時代のものである。定房から定陳に仕えた江嶋為信山水の頃は俳諧の盛んな時であったが、定基の代になって和歌の季節がめぐってきたといえよう。そしてこの時に京都から政胤が町野如山の養子となって来る。

 町野政胤

 政胤は『今治夜話』に「京都ヨリ引越セシハ廿一歳トカ。中院内府公ヨリ歌道御伝受済居ケルト也」とある。地下の宗匠松井常陸が「全ク和歌三神ノ貴国へ御引合セトコソ存侯卜称誉」したというが、若くからその才能を認められていたのである。その政胤が何故に如山の養子となったかは明らかでない。今治でも和歌に凝り武道を怠ったので、他所へ預けられたという。享保一五年(一七三〇)没。四五歳。歌集は残っていないが、『ひなのてぶり』に一二首、他に短冊もあるようである。「幾里の家つとならし道の辺のゆききにうつす袖の梅が香」「しらみゆく雲間の月の影よりも声ほのかなる時鳥かな」などの詠がある。

 松平定基 鈴木康永

 定基は元禄一五年(一七〇二)襲封、享保一七年致仕するまで治世三〇年、宝暦九年(一七五九)七四歳で没した。『松の落葉』二二首の定基の歌の中で五首は慈円・後鳥羽院などの古歌であり、『今治夜話』の『松の落葉』と重複しない二首も、定休のものと思われるので、今のところ定基の歌と思われるのは一七首である。定基の歌は「佐保姫の霞の衣うちなびき千里をかけて春や立つらむ」「五月雨のふるやの影も色みえてあふちうちちる夏の夕風」など古今的な詠みぶりを特色としている。
 鈴木康永は定陳から定基に仕えた。賭的で二〇本満中の弓の名手であった。日記を書き残したが、その伝本の所在を聞かない。元文四年(一七三九)没。六一歳。辞世は「春秋を幾代へぬらん山陰の苔むす石の下にかくれて」 『今治夜話』にはこの辞世を含めて正徳三年から享保までの日記から抜いた歌三四首と、発句三句を収録している。特に技巧をこらすでもなく、むしろ素朴な詠みぶりのうちに、見たままの感懐を詠んでいる。『流れゆくその年波は寄る方にしらずも人の身に積りぬる』は歳暮の歌、「かくぞとも知らで心を尽しぬる今宵の月の影のさやけさ」は、時の宗匠町野政胤を感心させた八月十五夜の月の詠。俳諧もやっていたので、知的な歌もまじる。
 このほか、定温長女富子(文化九年没。六二歳)は『松の落葉』に三首のみであるが、新古今調の艶麗な歌で余情を含んだ佳詠である。「ひと声はうはの空なる雲間よりもれ出でてなく山ほととぎす」「かねてより鄙の長路のおとろへをいかに知りてや書き写しけむ」「たぐひなき春のあはれを花鳥の色音の外の曙の空」
 ついでながら十代定芝は文政七年襲封、天保八年(一八三七)没。四七歳。『今治夜話』に仁君と記す。発句もあるが、和歌は、「海山をいく日の夏の旅ならむ草のかりふし浪枕して」は巧みであるが、ことばに遊ぶ傾向がある。「わきてなほ秋の最中の影みえて今宵名高く月や澄むらむ」は素直な詠である。

 新玉津嶋奉納和歌

 今治二代目の宗匠とされた宍甘権左衛門光似は『ひなのてぶり』に二首入集。この光似が今治の歌人二〇人とともに京都の和歌神新玉津嶋神社に各一首を奉納した歌が『源氏歌集』(石岡八幡宮)に所収されている。奉納の時期は享保から寛保の頃と思われる。末尾の「寄神祝」を光似が詠んでいるので、彼が願主であろう。他に藩士多羅尾光品、儒医木村正俊(正育の子で謡曲もよくした)、江嶋為正(為信孫、宝歴六年没。)などで、光品らが石岡の『詠百首和歌』に入っているので、新玉津嶋神社神主局尹と交渉があり、奉納となったのかもしれない。定基の和歌盛んなりし頃の一行事であったのであろう。他に八重女、つま女、もよ女の三女性、備前屋正殊といった町人の名も見える。
 またこの奉納歌の後には光似の「星夕言志七首」(寛保二年)を付す。
  柳掃水  春風に岸根をはらふ青柳のいとに乱るる水のしら玉     光品
  星夕言志 雲の波も立ちなさかりそ天の川逢ふ夜まれなる秋の一夜に  光似

 江嶋為親

 今治三代宗匠為親は為正の嫡子、為信以来の家老職。天明八年(一七八八)没。六四歳。『ひなのてぶり』には「夜もすがら木曽の川浪音たてて吹かぬ嵐を枕にぞ聞く」の一首が入る。また石岡八幡宮の『詠百首和歌』に「色も香も夏の衣にかへぬれば心ぞのこる花染めの袖」の佳詠がある。他には『桂山の記』なる短い紀行文が残っているのみである。越智郡桂村に桜樹の美しい逍遥の地があって、その観桜の紀行である。短歌一八首を含む。なお著者不詳の『桂山紀行』もあり、桂山は今治市民の花見の場所であった。
 為親の時代の和歌は『詠百首和歌』に宍井光道、水谷和茂、岡田信家、光林寺宥順、矢野尚正、朝倉村では武田紀明、渡部敬武、武田宜寄、光蔵寺叫阿、無量寺宥竟、正善寺宥応のものがあり、彼等が為親の配下の人々と考えられる。そのうちから一首「生駒山雲も足とく峰越えて麓の里に時雨ふるなり」(光道)
 次の一色一雲については『今治夜話』に「定基公御返歌、一色一雲翁御添削」とあるが、この定基の二首は『松の落葉』では定休の歌となっている。時代からみてこの方が無難である。一雲の経歴は明らかでない。藩主の添削するほどの地位にはあったので、やはり宗匠であったと思われるが、その歌は伝わらない。

 半井梧菴

 梧菴は名を元美、五二歳の時に忠見と改めた。幼くして父元誠を失った。医学の家で、梧菴も上京して医学を学んだ。国学和歌を足代弘訓・海野幸典(遊翁)に学ぶ。歌集に『梧菴家集』があったようであるが、未見。みずから編した『ひなのてぶり』、紀行文『西行紀行』『花の家包』『月が瀬紀行』、地誌『愛媛面影』に多くの和歌があり、歌学に『歌格類選』がある。なお秋山英一 『半井梧菴伝』、西園寺源透編『伊予の文学一』に梧菴の歌がまとめられている。明治二二年没。七七歳。(詳しい伝記は秋山前掲書を参照。)

 ひなのてぶり

 幕末期の伊予一国の和歌撰集で、小本四冊。初編上下二冊は安政元年(一八五四)、二編上下二冊は安政四年に刊行された。表紙は山本雲渓の描く南画風のもので、京都書林越後屋治兵衛・林芳兵衛で作られ、今治本町久保正五郎(二編は久保助一)・風早町島屋喜太郎が製本弘処となっている。中には半紙本の大きさの本が残っているが、これは献上本として特製されたものであろうか。(中味は同板)
 一部広島・尾道等の歌人も入っているが、初編四二七名、二編三一六名の歌を収める厖大な歌集であり、これによって伊予各地の歌人やその歌が残ることになった意義は大きい。それにしても、これだけの多量の歌がどのようにして集められたのであろうか。それを知る手がかりが二編については残されている。投稿を促すための一枚刷のビラで、その現物は未見であるが、秋山前掲書にそれが翻刻されている。それによると、前編の選びに洩れ、その後に詠出したものもあるので、教え子のすすめによって思い立ったが、今度は伊予に限らず四国はもとより芸備その外近国の人々に至るまで数多く寄せるように言ってある。実名、俗名、住所までを記して、期限は「安政四年七月限」で、「半井梧庵勧進」となっている。次に、宇和島=松浦正典・近田八束、松山=石井義郷・西村清臣、大洲=武田千穎、新谷=大野道別、西条=三木松窓、小松=近藤忠行、尾道=石井宜憲の名が列挙してあるのは、各地の協力者というにとどまらず、勧誘、指導、取次などをもしたのであろう。「編輯助弼」には三島の前谷時和、今治の別府近義の二人がおり、実質的に梧奄の編集作業を手伝ったと思われる。問題はその費用、販売であるが、この点にも配慮して、出詠数に関係なく「御一人に付一部宛御引受可被下候。尤二冊に付価二朱と相定」め、詠草を送る時に半金、配本時に残り半金を支払うように言っている。その責任者として、「板本並製本弘処」の久保・烏谷二氏の名が記してある。出版に何程かかったかわからないが、出詠者が全納すれば、約四○両が集ったことになる。これだけあれば十分であったろう。
 これに対し、応募者の側からの資料もある。大洲菅田の有友正修の『草稿』と題する一冊の裏表紙見返しに、「此一巻今治半井法橋撰集之刻、梅月詠出、時之宗匠武田大人添削、此内四十二首法橋へ送ル 安政四丁巳歴七月日謹撰 藤原正修」とある。武田大人は協力者にあげられていた武田千穎。五月に詠み、千穎の添削を受けた後、期限の七月に間に合わせたのである。送った四二首のうち入集は三首であった。
 初編の時の資料はないが、おそらくはこの二編と同じようにして編集されたものと思われる。こうして伊予一国を網羅した大がかりな撰集が推進され、失われるべき多くの歌人と歌が残ることになった。今治分は、政胤・光似など過去にまで溯って歌が集められている。また梧菴自身の歌はさすがに多くとられ、初編三七首、二編二〇首、計五七首で、もちろん入集歌人中最多数となっている。梧菴には『愛媛面影』があり(後述)、その取材旅行に南予に出かけた時の紀行が『西行紀行』で、歌も多い。こうした梧菴の和歌に対する素養が『愛媛面影』を文学味豊かなものにしているのであろう。『花の家苞』は明治一一年吉野、『月が瀬紀行』は一六年の紀行。

 歌格類選

 正続四冊。正編二冊は嘉永五年(一八五二)、続編二冊は同六年と序文にある。正編の序文は大平門の大橋長広・長沢伴雄。続編は山田泰平。跋文は香川景恒(景樹男)。発行は井上治兵衛、書林は京都林芳兵衛である。梧菴の凡例によれば、歌格は上世にはないが、「古歌をよみもてゆくに、てにをはのかかり結びをはじめ、おのづから種々の詞のさだまれるさまあるを、いま仮に歌格と名づけ」たとある。たとえば「いで」「いかで」「は」「ばや」「にて」「ほど」といった詞の用法を古今集などの古歌四首を引いて示したものである。近世は俗言が入って古来の定った語の用い方が乱れているので、本来の正しい歌格を初学の人の勉学に供しようとしたのである。いろは順に語をあげてその意味をしるし、用例の歌にも口語体で傍注をつけている。近藤芳美も梧菴の語格の学の造詣の深いのを賞嘆したというが、その学を根底にしての歌の語格の入門書である。
 梧菴は『宇和島大洲百廿番歌合』の判者もつとめており(前述)、実作者としてよりも編者や解説者、評者といった面にすぐれ、また大きな功績を残した。次に『ひなのてぶり』中の今治歌人について略述する。

 峰忠・誠則・幾子・為子

 小松高鴨神社の養子となった重忠の実父は越智郡朝倉村八幡宮神主田窪峰忠で、芝山持豊の門人であった。その歌を重忠が集めて『常盤の友』と命名した。浪花の津守国礼が序を書き、菅原良材が跋を書いており、それに文政五年夏五月とある。『ひなのてぶり』には初編に三首入集。
 重忠の妹が為子で、朝倉村多伎神社神主沼崎誠則に嫁した。誠則の母が幾子である。誠則は須賀の屋と号した。『幾子誠則為子和歌集』は重忠の編であるが、他に岡本親脩、竹亭、董史、江戸の高平等との贈答もあり、いわば沼崎家集である。幾子五五首、誠則六八首、為子八三首が収められている。ともに飛鳥井雅光の門人で、『ひなのてぶり』には誠則五首、幾子三首、為子四首入集。誠則には別に『須賀乃屋誠則和歌集』一冊があるほか、重忠関係の詠草等に多くの歌を見ることができる。重忠を中心にした一族の歌圏があったのである。
 今治では『ひなのてぶり』に、岡部直約三六首、前谷時和二六首、別府近義二一首、西岡訓棟二四首、岡本親友二一首、大沢輝尚二一首、丹下光精一二首、水谷初時一〇首、女性では久松胖吾妻欽子一七首が目立つ存在である。ただこれらの人は他に資料なく、作歌活動を窺うことはできない。また、勤皇家菅長好にも短冊が残る。
    行く舟もほのかに見えて伊予の海の波路霞める春ののどかさ    幾子
    風ならで音信まれの庭の面に咲くもさびしき萩のひともと     誠則
    散るをだにあはれとともに見し花を今年は君に手向にぞ折る    為子
    山人の世わたる道か白雲のよそめ危ふき峰のかけはし       直約
   かなしさは紅葉ふみわけ鳴く鹿と声聞くわれといづれまされり    近義
   夜を寒みおくるる雁のひとつらは霜の衣や重ねきぬらむ       欽子