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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 吉田藩本間游清とその門人

 吉田藩の和歌は、本間游清関係のものと、『ひなのてぶり』、それに『水沼成蹊母の賀集』二冊に僅かみられるのみである。特にその初期の頃の和歌については不明である。
 『水沼成蹊母の賀集』前集では、伊達修理成職、熊崎時宜、水木貞暁、今村元忠、中村敬忠、高月長徳・長裕、など二一名が各一首、貞暁は長歌も一首、後集では伊達修理芳直、鈴村成美、松本森文、近沢道和など一一名が賀歌を贈っている。このうち道和のみが『ひなのてぶり』に、六首入集している。「三千年の春を香にへむこの宿のみぎりの桃の花の咲くたび」(成職)は賀歌ながら巧み。後に本間游清と盛んに文通している高月長徳は一適斎とも号したが、法華津屋、俳人狸兄の後裔、その賀歌は「山鳥の尾上の桜咲きしより長くも匂ふ春ぞあかれぬ」

 本間游清

 游清は吉田藩の江戸詰藩医で、六代村芳に仕えた。村芳が歿した寛政三年以後はその夫人満喜子に仕えた。臨床医としてよりも、学問に長じていたようで、国学、和歌にすぐれた。和歌は村田春海に学び、江戸歌人中屈指と称され、国学でも平田篤胤・伴信友とともに三大家に数えられた。門人には満喜子をはじめ横山由清・桂子、山田常典など多数。随筆『耳敏川』によると、兄が吉田にいたようで、長徳とも文通して吉田のことを知ろうとつとめている。号は九江、眠雲、万里、消閑子など。嘉永三年(一八五〇)没。七〇歳。著作は『新続無名抄』『つげまくら』『蛛のふるまひ』『蝶のふるまひ』などがある(資100、161)。
 和歌では『雑詠百首歌』は、文化一一年一一月一〇日付の序(真清水の波麻呂源光彪)によると、吉田の殿の北の方歌を好み、それに供えるために冊子にまとめたものという。雑詠百首のほかに「桜の霞」「聞郭公詞」「前栽植ゑさせたまふとき」「露の玉」の和文を添える。横山桂子の書写本が残っている。
 『みつのながめ』は板本一冊。弘化三年の江沢講修の序によると、月雪花を友とするばかり心ゆくものはなく、古人の歌をみてもこの三つに心がとまるが、今九江先生(游清)の詠み置かれた歌の中から、この三つの歌を選んでまとめたということである。月雪花は白楽天の詩句に拠り、風雅の代表とされている。本集では花月雪と季節の順に、各々小題を設けて計七四八首が収められている。
 『もとかしは』は、子の羊六が游清七十賀の祝宴に集った人に贈るため、すでに瀬戸久敬の集めていた歌を、池内尊に清書させて出版したと、東堂主人の序にある。花月雪の歌の少ないのは『みつのながめ』に譲ったためである。上巻が春一〇三首、夏一〇三首、秋一三〇首、下巻が冬一五〇首、雑二一○首で、恋はない。
    水辺花  いかにせむ汀の桜風吹かばうちちる浪にならふ心を      (みつのながめ)
    月前酒  はかりなく月に向ひて汲む夜半は乱れやせまし竹の葉の露      (みつのながめ)
    月前雪  松の葉の白きをみれば雲間行く月の光や雪とこぼれし        (みつのながめ)
    故郷木  朝夕に陰とたのみし松のみは傾く軒になほ立てりけり     (もとがしは)
    寝覚郭公 端居して夕まどひする老が身の寝覚折よき山郭公         (もとがしは)
 游清の歌は以上三集にほぼ尽きているが、游清の歌は優美に巧みで、時に近代詩人的な表現を持つけれども、現実の対象をとらえた実情に欠ける点があるのは、やむをえないことであろうか。
 『五百重波』六巻一冊は、游清の仕える女君(満喜子)のために、友人の歌に自分の歌一巻をそえて奉ったところ、侍女たちの用に板行せよということで再撰したものである。清水浜臣、秋山光彪、村田堂勢子(春海娘)、岸本由豆流、岡田真澄、高田与清等三五名の歌集である。四季と雑に分類してある。
 『三十番歌合』は、由誠(横山由清)、すむ子、さや子、はた子、桂子の六名十首ずつの歌に、游清が判をしたものである。勝数は桂子五、法照四、さや子二、由誠・すむ子が一、はた子は持四である。
   夏雲 左  春ならば花とやみらんみ吉野の山にあわだつ夕立の雲     由誠
      右勝 見し花の西かげ消えし山のはに雪の峰なす雲ぞあやしき    桂子
     (判詞)端(左)の「みらん」といへる詞古今集に出たれども、なつかしからず。「あわだつ」てふ詞も耳だ
          ちて聞え侍り。奥(右)の歌「雪の峰」たちこえて聞こえ侍り
 『江戸名所歌』は、上野、竹芝浦、日暮里、佃島といった江戸の名所についての詠。游清八首、由清三八首、桂子七首である。「鴨の住む池の上野の山桜松の青葉にまじりてぞ咲く」(游清)「あづまてふ橋間の舟に月を見つ浅草寺のとりの鳴くまで」(由清)など、名所の景の特色が素直にとらえられている。
 横山由清は、満喜子の侍女横山三千子の養子。三千子も游清に歌を学んだ。「あかぬかな月澄む夜半に散る紅葉桂の花のここちのみして」の歌が光格天皇の叡聞に達し、「夜半」を「空」と添削され、「月の桂子」という名を賜った。以後桂子と名のる。由清も游清に国学を学んで碩学である。明治一三年没。両人の歌集には『詠草』『大江戸集の料歌』があり、由清には古歌を編した『玉のみすまる』、注釈に『月詣和歌集補説』などがある。

 伊達満喜子

 吉田六代藩主村芳夫人。游清に歌を学び、夫亡きあとも作歌にいそしみ、その数は四、五千首にも及ぶという。七十賀の賜り物として、游清がすすめて七〇首ばかりを選んで出版したのが『袖の香』で、夫を偲び「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集)の歌をとって命名したと序にある。歌はいずれも女性らしい繊細と雅致に富む。嘉永三年(一八五〇)没。七三歳。「水の上にしなひしなはぬ影みえて底まで匂ふ山吹の花」「われとのみ思ひて住める山陰に夕べは雲も立ち帰るなり」「心から逃がれて住める宿なれど余りつるまで淋しかりけり」などは抒情味のある佳詠である。

 山田常典

 吉田藩士、通称常介、蕗園、臣木舎、藍江などと号した。村田春海、本間游清に学び、紀州新宮侯、水野忠央に聘せられて、藩校の総長となった。『丹鶴叢書』を編刻し、将軍家に献上した。和歌をよくし、『江戸新名所百首歌』『蕗園詠草』『臣木舎集』があり、『常典歌稿』(万延元年)『山田常典遺稿』(嘉永七年奥書)には和歌とともに和文も収められている。他に『歳葉集』『於見於聞』の歌集があったというが未見。歌合では『三十八番歌合』で、国豊、直定等の歌の判者になっている。歌学では『千木のかたそぎ』があり、随筆に『井底雑記』、紀行文に『旅寝のゆめ』『玉川紀行』(嘉永六年)がある。文久三年(一八六三)没。五六歳。「しるしとて石にほりおく言の葉もいつまで苔に埋れやはする」「夜もすがら結びし夢も朝露もくだきてさわぐ軒の下萩」の二首は死去の前日の作という。

 吉田の歌人

 以上吉田藩の和歌は江戸在住の歌人が中心であったが、『ひなのてぶり』には吉田在地の歌人の名が見える。初編では熊崎時実、近沢道和、大楽寺正心ら一六名、二編では祐子(伊藤姓)二首が新顔であるが、三好正和、島羽真平、水野祐昌、奥野裕之、大楽寺正心は引き続いての入集である。この中では、正心の一六首、真平九首、正和八首、道和六首(二編なし)が目立つ存在である。
    来てもみよくまなき月にわが庭の萩の盛りの夜の錦を      正心
    春来ぬと瀧のおとづれ聞ゆなりいざ見にゆかん波の初花     真平
    もののふの昔思へば矢嶋潟波に浮かべる弓張の月        正和