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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 宇和島藩の和歌

 和歌は近世に入り、ようやく地方の時代を迎える。伊予においても各藩の藩主・藩士、神官、国学者、庄屋、町人等、女性を含めた広い階層の人々によって、「敷島の道」は継承され、「みやび」としてたしなまれた。
 宇和島藩では藩主を中心に歌壇が形成されたが、次の三つの時期において隆盛を見る。一は、伊達秀宗が元和元年(一六一五)に宇和島に入部しての創業期から二代宗利の安定期を迎えた時期で、桑折宗臣らを中心とした文化圏がつくられる。二は、中興の英主と仰がれた五代村候の時代で、文武、殖産等各方面にわたる発展期である。三は、幕末の宗紀・宗城のいわば宇和島が歴史の舞台へ雄飛した時期である。

 伊達秀宗

 秀宗は仙台伊達政宗の長男、山家清兵衛事件(第四節参照)を切り抜け、宇和島藩発展の基礎を築いた。万治元年(一六五八)没。六八歳。この秀宗の短冊十八葉が伊達文化保存会にある。このうち秀宗と署名のある六葉が自作であろう。短歌五首、発句一句で、他の十二葉は『古今集』等の歌の写しである。ほか『鶴鳴余韻』にも短冊の写真が載る。堂上風のやや観念的ではあるが、爽やかな叙情歌である。
 よそまでも名をさらしなと聞くからに曇るもうれし秋の夜の月
 里びたる賤が住家とみゆるかなうち靡きぬる竹のひとむら
なお山家清兵衛にも次の一首が伝えられている。
   山里はきのふの秋の色もなくしぐれもよほす空ぞさびしき

 伊達宗利

 宗利は秀宗三男、兄の早世により明暦元年(一六五五)二代を継ぐ。歌集に『自詠愚艸集』がある。本集に四三六首、追加として一四七首、計五八三首が収められている。ほとんどが題詠で、類型的な歌の多いのはやむをえないが、大名らしいおおらかさと堂上風の優美な調べがある。
 尋花    帰るさの道もわすれて尋ね入る山風さそふ花のかほりよ
 ほととぎす 一声に花のいろ香もわすられて今は若葉の山ほととぎす
 述懐    おろかなる心をぞ思ふとにかくに世にしたがひて世にはすめども
 平明な詠みぶりで、技巧的には今一つの感があるが、述懐歌にはよく心情が吐露されている。

 桑折宗臣

 宗臣は秀宗四男として江戸に生まれ、桑折宗頼の養子となる。家老職六千石(後千石に減)とはいえ、五男宗純が吉田三万石を分封された好遇に対し、疎外感を持ったのであろうか、和歌・連歌・俳諧にいそしみ、特に俳諧では『大海集』を編むなど大きな足跡を残すことになる。貞享三年(一六八六)没。五三歳。宗臣の和歌は『桑折宗臣吟詠集』に一三六首、『青松軒之記』に七五首(『吟詠集』と重複のものあり。)がみえる。後者は河内山に柴の庵を結び、青松軒と号け、そこでの四季折々の感懐を綴ったもので、発句が多いので俳諧の書として評価されているが、和歌の方からも注目されてよいであろう。
   物ごとの昔にかはる世の中に秋たつ今朝のなどや涼しき
   あはれさを語るばかりの友もなし月に越えゆく小夜の中山
   花ゆへにとはれし宿ぞうらめしき去りなむ後を思ひやるにも
 新古今的な詠調の中に清新な叙情が感じされる。またこれらの歌には宗臣自身の孤独な心のさびしさがおのずからにして漏れている。もちろんこうした歌だけではないが、俳諧では窺えない心を和歌にみることができる。
 下河辺長流編『林葉累塵集』(寛文一〇年)、その続編『萍水和歌集』(延宝七年頃)は、広く庶民の歌を集めたものであるが、この中に宗臣の歌が一一首と二首、弟の頼邑の歌が二五首と一首、心松(嵐夕)五首など含まれている。また『一題一首和歌集』にも頼邑の歌一首がある。頼邑の歌はこれ以外に残っていないので、この二七首は貴重である。「夏深き青葉の山に鳴く蝉の声はしぐれとふるかひぞなき」「夜な夜なの草の枕の夢にだに行衛見はてぬ武蔵野の原」など、極めて巧みであるが、知的な技巧を用いている。

 千里心松の狂歌

 心松はその妻ともに『大海集』に発句がのり、『郭公千句』の連中の一人でもある。宇和島藩『家中由緒書』元禄八年の項によれば、足立左七の父で大洲の生まれ、宗利の七草連歌の代作などをした。宗臣にその才を認められ、その文壇で活躍した。狂歌集に『富士の高根』(図南編か)があり、狂歌六七首、発句一句を収める。その序文によれば、自分の思うとおりに生きて人に媚びることもなく、狂歌軽口を得意としたとある。俳諧もよくしただけに、狂歌も自在に詠みこなしているが、それだけでなく詞書には彼や彼をとりまく人々の動向が窺えて興味あるものになっている。
  〈伊達陸奥守様中将に任ぜらるゝ時〉  大名の頭位達して中将に今業平とあふぐむつ様
 右は宗利叙任の時の歌、業平は中将であったから、「中将に今成る」意を掛けて詠んだ頓智が面白い。
  〈或る時節分の夜催促人来たりければ戯れて〉  節分の鬼よりこはき催促人打ち出だすべき豆板もなし
 節季の掛乞人に戯れた歌で、豆板銀に節分の豆を掛けている。その他、俳諧の点取りに負けた人に代って詠んだというような代作や人に乞われての作の多いことは、彼の頓智がいかにもてはやされたかを物語っている。『富士の高根』は小冊ながら、地方における初期の狂歌を知る上で貴重なものである。
以上、宗臣を中心とした宇和島文壇の隆盛の様子は、連歌・俳諧と合せ見るとより明確になるであろう。

 伊達村候

 村候は父村年の早世により十一歳にして五代を継いだが、天性英敏、器量大にして、学問を興し、殖産につとめ、治世よろしきをもって、中興の英主と称えられている。詩歌・書画をよくし、楽山と号した。歌集に『拾遺詠藻』三冊、『拾遺外集』 一冊、漢詩文集に『楽山文集』五冊、『楽山外集』二冊がある。また夫人護子も村候に従って歌を習ったようで、『玉台院様御自詠』一冊があり、村候が添削している。また村候弟の徳風に『四季三十首組』、村銘に『百首』一巻等があり、藩主の和歌のたしなみが周囲の人にも伝播して第二期の宇城歌壇を形成したさまが、これら残された歌集の量から推察される。『拾遺詠草』『外集』は合せて八百首ほどの村候の歌を収めるが、すべて四季・恋・雑に大別し、それがさらに題詠のもとに細かく分類整理されている。
 春雨  さびしさのいつれはあれどをやみなぎこの夕暮の春雨の空
 九月尽 行く秋の名ごりを今日はいかにせんかたみに残せ庭の夕露
 旅恋  行く末を何とちぎらん片糸のよるべさだめぬ旅の中宿
 夢   見はつるも見はてぬもまた皆人の夢のうちなる夢と知らずや
 いずれも手なれた詠みぶりで、新奇な発想や感覚はない代りに、優美な調べがあり、自然の景物によく自分の心をのせている。また、雑の部に冷泉為村七十賀に贈った歌がある。為村は村候の師で、矢野神山顕彰の折にも歌文を寄せている。『外集』には「文の部」があり、「貞山公の百五十回忌を弔ふ言葉井に和歌」「少将になりし時」「日光山記」「題字にそふる言葉」の四篇を載せている。

 誠拙禅師

 誠拙は七歳の時宇和島の仏海寺に入り、村候に認められて鎌倉に遊学する。文化一三年鎌倉円覚寺住職となり、後京都に住んだ。白隠禅師とともに二大禅家として名高い。名は周樗、無用道人とも号した。書画・和歌にもすぐれ、文政三年(一八二〇)没。七五歳。『誠拙禅師歌集』は東海和尚の命をうけた熊谷直好の編。一四五首。その歌は達観した禅の目で自然・人事を詠み、平易無技巧のうちに滋味がある。
    うゑしまま花よりむすぶ瓜の実の青きは珠の姿なりけり
    この冬はよほどさぶさの身にしみて夜のいばりの数ぞましける  ※さぶさー寒さ。いばりー小便。

 宇城和歌御会正職六十賀集

 打候によって隆盛に導かれた和歌は、以後幕末まで引き継がれていく。寛政五年(一七九三)六代村寿公書院での『宇城和歌御会』では、源(井上)保造を宗匠に、村寿以下一四名が五九首を詠んでいる。次いで文化二年(一八〇五)、宇和津彦神社七代神主松浦正職大人六十の賀の歌会が催され、妻雛子・娘木綿子・五百子をはじめ、保造、光藻、日誠ら百人が「百首組題」のもとに各一首を詠み、賀の歌は保造、正長ら六人が献じた。さらに正職も加わって連歌も興行された。

 伊達宗紀・宗城

 天保期に入ると七代宗紀を中心に月次の歌会が盛んに開かれたようである。天保五年(一八三四)一一月、一二月、七年一〇月、月日不明、八年正月(二度)の六冊の歌会並びに当座和歌が残っている。七年から若き宗城の歌が登場する。維新を迎えこうした歌会がいつまで続いたかは不明であるが、宗城はその後も熱心に歌を詠み数千首に及んだ。その中から五百首ほどを選んで、明治三一年に発刊したのが『たけのひとふし』である。なお宗紀百歳賀集『筆林集』が明治二三年、各界名士の和歌・漢詩を集めて出版された。
 おもひやる昔に今はふりかはり軒端つゞきのむさし野の雪    宗紀
 惜しめども暮れゆく秋はとゞまらずまがきの菊の色もあせぬに  宗城

 鄙のてぶり宇和島大洲歌合

 今治の半井梧菴編『鄙のてぶり』(二編四冊)は幕末期の伊予の歌人総覧の観を呈しているが、宇和島で注目される歌人には、宍戸大成の二二首を筆頭に鈴木重舒一二首、宍戸紀煕八首、上原春風五首、山崎紀燕五首のほか和霊神社和田元会、和田元礼、城辺町の二神永世、女性では元礼妻繁子、和田元愷妻清子、山内久右衛門母今子などがいる。
 また同じ半井梧菴の判者になった歌合に『宇和島大洲百廿番歌合』がある。宇和島は須藤頼郷、田部重群、和家貞規、矢野高輛、摂津親英、松浦正典、長山忠敏、清家堅庭、浅井清足、上甲小楯の十人である。勝は小楯の八、頼郷・忠敏六、重群五が成績の良い方で、堅庭は僅か勝二である。
 幕末になると、中央で編集された歌集にも伊予の歌人の名が見られるようになる。加納諸平編『類題鰒玉集』(文政一一年~嘉永四年)には、重固(大橋作右衛門)、春里(宇都宮勘助)、中立(岡野梅翁)、本居豊穎編『打聴鶯蛙集』(嘉永五年)には、正典(松浦上総)、大成(宍戸平内)、元嗣(宍戸素介)、効忠(都築九右衛門)ら、女性四名を含む二九名が名を連ねている。秋元安民編『類題青藍集』(安政六年)にも、光胤(梁川義雄)がいる。宇和島歌壇隆盛のさまが窺える。

 小幡如水

 南宇和郡にも幕末期は国学を学んだ歌人が出た。如水はもと二宮氏、明治になって小幡氏に改める。名を綱重、通称市左衛門。城辺の庄屋。明治二四年没。七六歳。歌集に『岩垣集』二巻があり、「消えさらぬ田の面の霜の白妙を雪見ぬ浦の人に見せばや」など端正な詠みぶりの歌が多い。他に『金毘羅詣の記』がある。

 小沢種春

 種春は摂州今津の人、若き頃は柳園種春と名のって戯作者として活躍していたが(第四章第三節参照)、戯作の筆を絶ってからは三条滕公家士となり、冷泉家に和歌を学んだ。晩年西海の内泊村に来て、子弟を教育した。東陽と号す。明治四年没。七二歳。(以下の資料は小沢力郎蔵)
 『高堅抄』は弘化四年(一八四七)正月から九月までの冷泉家での当座和歌を中心に指導を受けた次第を書き留めたものである。為則・為理の歌を多くあげ、種春自身の歌は一段低めて書いている。四月二日、紅に染った楓を白銀の瓶にさして賜った時、「浅からぬ恵みの露の若楓かざさば袖に光そふらん」と詠んだのに対し、為則は、あれは病葉であまり賞翫せぬもので、この歌はけっこう過ぎると教えている。「高堅」とは、こうした師の教えを仰げば「弥高鑽之弥堅」の意である。
 『詠歌初心抄』は、種春の序文に嘉永元年(一八四八)季夏とある。和歌入門書であるが、種春の和歌観も窺われる。歌は心を無にして、題の情景を思い浮かべ、それを正直に平生のことばで表わせばよいとしている。率直平明に時勢の歌を詠めとする点に新しみがあるが、題詠を基本としているのは、冷泉家など堂上派の観念的な詠法から抜け出ていないことを示している。また歌は、五常の道に感じ、物のあわれを知ることであるから、正風を旨とし、魂を入れて詠めば、おのずから心も正しくなると、教戒的な文芸観も見られる。
 『種春詠草 五』は、何冊かあった歌集のうちの一冊で、嘉永四~七年分の詠草である。約五百首を収める。
 小車 重荷つみ引かるる牛の小車も直なる道をやすくこそゆけ
 春月 夕くれの春の寒さも忘られて月にぞ向ふきさらぎの空
 述懐 すなほなる教へ仰ぎて一筋に猶も分けみん言の葉の道
    網代 川風のさえわたる夜はもりあかす網代の床も思ひこそやれ