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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 南北朝の抗争

 後醍醐天皇を中心とする宮方の鎌倉幕府打倒計画に始まり、楠正成の活躍・新田義貞の参軍・足利尊氏の寝返りなどによる北条政権の滅亡、そして樹立された建武の政権への武士の不満から足利尊氏ら武家方と宮方との抗争の激化、やがて足利幕府が成立するが、今度はその内部対立というように、日本全国において半世紀もの長期間にわたって、対立と抗争とに明け暮れた南北朝の動乱の時代を克明に描いたのが、『太平記』四〇巻である。『太平記』は、その題名にも既に見られるように、鋭い批評意識をもって戦乱の世を見すえた、すぐれた軍記物語である。
 『太平記』には、伊予国を舞台とした激しい戦いや、全国的な動乱の中に巻き込まれていった河野氏一族など、伊予国の人々の行動についても詳しく述べられている。この内乱において、河野氏は敵味方二つに分裂して抗争した。鎌倉方には河野通盛が、また宮方には一族の土居通増や得能通綱らが参加し、それぞれに活躍した。

 土居・得能氏と通盛

 元弘三年(一三三三)二月、伊予国において宮方として旗を挙げた土居通増・得能通綱の軍は、忽那氏・祝氏らと共に、久米郡星の岡で長門探題北条時直の軍と対戦し、激戦の後にこれを打ち破り宮方の士気を大いに高めた(巻七・河野謀反事)。その後土居・得能氏は、新田勢に加わって足利直義の軍を破る(巻一五・大樹摂津国豊島河原合戦事)が、九州より再度攻め上った足利軍湊川で戦い(巻一六・新田殿湊河合戦事)、更に比叡山に逃れた後醍醐天皇に従って奮戦する(巻一七・山攻事、同・京都両度軍事)ものの敗れてしまう。そして土居通増は新田義貞と共に北陸へ逃れる途中の雪降る山道の中で死し(巻一七・北国下向勢凍死事)、得能通綱は越前国金崎城落城の時攻め口を一歩も退かず戦死する(巻一八・金崎城落事)。共に伊予国から遥かに離れた遠隔の地での戦死であった。
 一方、早くに大船三百そうを率いて上京し、六波羅勢に加わっていた河野通盛は、宮方赤松勢との京都での戦いに、陶山次郎と共に縦横無尽の活躍をする。そしてその賞によって対馬守となり御剣を賜るのであるが(巻八・持明院殿行幸六波羅事)、武士たちから「アハレ、弓矢ノ面目ヤ」と称讃され、その名は天下に知れ渡ったという。その後も赤松勢や千種忠顕の軍との戦いに存分の力を発揮する(巻八・四月三日合戦事、同・主上自令修金輪法給事)。特に千種軍の名和次郎・児島高徳との戦いは、児島氏が河野氏と同族であったこともあり、両軍一歩も退かぬ激しいものであったという。こうした通盛らの活躍により、一度は宮方を圧倒した六波羅勢であったが、足利尊氏の離反によってやがて敗れてしまうこととなる。その戦いの中で、息子通遠が大高二郎に討たれるという、通盛にとって悲しい出来事も起こるのである(巻九・六波羅攻事)。通盛はその後、後醍醐天皇に反いた足利尊氏の部下となり、武家方として活動する。

 脇屋義助の伊予下向

 足利尊氏に敗れて吉野にこもった後醍醐天皇も崩御、やがて新田義貞も自害して劣勢となった南朝方は、事態の打開を図るため、新田義貞の弟脇屋義助を伊予国に派遣した。この時伊予国には、大館左馬助氏明が守護として、四条隆資の子有資が国司としており、義助を今張浦(今治)に迎えた伊予の宮方は、勢威大いにふるった。しかし、義助は伊予国到着後間もなく病死してしまう。それを聞いて讃岐国から攻め込んだ細川頼春の軍により、川之江城が攻め落とされ、千町が原での決死の戦いも効を奏せず、大館氏明は世田城において戦死し、伊予の宮方は衰亡へ向かうこととなった(巻二二)。
 この戦いの中で、千町が原の戦いと世田落城の際の篠塚伊賀守の活躍の場面は、『太平記』の中においてもすぐれた合戦描写がなされている場面である。七千騎という圧倒的多数の細川軍に対して、数で劣る伊予の宮方は、逆に決死の精鋭三百騎を選りすぐって、頼春を討ちとることにより一気に勝負を決しようとする。頼春にその意図を見抜かれて、結局目的を遂げることはできなかったのだが、死装束とも言うべき曼荼羅を書いた縨を一様に掛けて、七千騎の中をかけ回る三百騎の戦いぶりは、荘重で見事なものがある。また、それと対照的に描かれているのが、豪傑篠塚伊賀守の活躍である。世田城での大館氏明以下の悲壮な最期の中で、大勢の敵の中をたった一人で金撮棒を振り回しながら魚島まで逃れて行く篠塚伊賀守の悠々たる戦いぶりは、伊予の宮方の相次ぐ敗戦の後だけに、それを救うかのような明るさを見せて描かれているのである。

 大森彦七と正成の亡霊

 また『太平記』には、伊予国の住人大森彦七盛長が体験した不思議な出来事が記されている。彦七は湊川の合戦の時、北朝方細川定禅軍にあり、楠正成の軍を破った。その後郷里の伊予国で猿楽をするために出向く途中で美女に会い、その美女を背負って行くことになる。ところが、この美女は突然鬼女となって彦七に襲いかかる。これは実は楠正成の亡霊が変じたものであって、足利氏を滅亡させるために、威力ある彦七の太刀を奪おうとしたのであった。正成の亡霊はその後も種々の怪異を現して彦七をおびやかし、彦七は遂に狂乱に落ち入るのであるが、大般若経真読の功徳により正成の亡霊は退散し、事なきを得る(巻二三)というものである。この話は、『太平記』の中でもきわめて劇的な内容を持つものであり、近世になると浄瑠璃や歌舞伎などの題材とされ、多数の作品が作られ上演された。(資167)

 歯長寺縁起

 南北朝時代の抗争の世相を記す資料の一つに、東宇和郡歯長寺に伝わる『歯長寺縁起』がある。これは、後に歯長寺の住職となった寂證が、元弘三年(一三三三)一三歳の時上洛し、その時見聞した対立動乱の世相を後に記した記事を持つものである。歯長寺は当時京都法勝寺の末寺であり、元弘元年(一三三一)に討幕計画がもれて奥州に流されていた法勝寺円観上人が、後醍醐天皇の隠岐よりの帰洛と共に帰寺した喜びに、等妙寺開山理玉や父善覚らと共に上洛したものと思われ、その関係から、後醍醐天皇の徳政を述べた記事をはじめとして、南朝方に関する記事が多い。また、後醍醐天皇が比叡山に逃れていた頃、諸国の兵が夜毎山で篝火を焼くのを見て、大高伊予守が詠じたという。
  鎧ヲバ都ニステヽ山勢ノタノム処ハ夜ノ火ヲドシ
という狂歌(『太平記』巻一七・山門牒送南都事では、高駿河守の詠として「多ク共四十八二ハヨモ過ジ阿弥陀峰二灯ス篝火」を挙げている)や、名和伯耆守長年が討たれた時、「三木一草」の内、結城親光・楠正成に次いで三木のすべてが倒れたことを人々が嘆いたこと(『太平記』では名和長年一人が「三木一草」の内で生き残り、それを恥じたとしている)など、当時の巷間に伝わっていたと思われる話も多く記されている。