データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 伊予の芸能

 伊予の湯桁

 古代前期から伊予の湯は、『古事記』『日本書紀』『伊予国風土記(逸文)』『万葉集』などにとりあげられて、神話、物語、和歌などの素材としてつとに都の人々にもなじみの深い名湯であった。ここに、平安時代には成立していたと思われる伊予の湯の民謡がある。その歌詞は、一六世紀初頭に成立した豊原統秋『體(体)源抄』に「伊与湯 雑芸催馬楽」として四首載せられている。四首とも歌詞の形式は和歌(短歌)形式によるもので、平安末期の『梁塵秘抄』に集められた今様などの形式が、中古以降の歌謡の特徴である、初五をとった七(または八)音からはじまる「七(八)五調」であることからみても、この『体源抄』にみる伊与の湯の歌謡が、平安時代中期には存在していたと考えられる古体をなしており、しかも都人の間でよく知られた歌謡であったことは注目してよい。(資21)
  『源氏物語』空蝉の巻で
  とを(十)、はた(二十)、みそ(三十)、よそ(四十)など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆと述べ、夕顔の巻では、伊予の国から任果てて上京した伊予の介が「国の物語りす」るのを聞いて「湯桁はいくつと問はまほしく」思ったりする、そこに「雑芸催馬楽伊与湯」の第一首がふまえられているのは明らかである。「数へずよまず」の「よまず」の意味は「数へず」と同じであるが、「よむ」が数える意で用いられたのは主として古代前期であったから、当時古語化しつつあったと思われる、数えるの意の「よむ」の語を用いているところにも、第一首の歌詞の古さがうかがえる。「伊予の湯桁」は、数の多いことで知られていた。
 第二首は、次の歌の改作かとみられている。
    修理大夫惟正しなのの守に侍りける時ともにまかりくだりてつかまの湯をみ侍りて         源重之
  いづる湯の枠にかかれる白糸は くる人絶えぬものにぞありける
(後拾遺集・一〇六二)
同じく温泉の湯水を詠んでいるという共通点の上に、ことに第三句以下の文句はほとんど一致している。この重之の歌は、惟正の没年(九八〇)以前の歌であるが、重之は六〇歳の頃(一〇〇〇年頃)になくなっていることからして、右の歌は早くとも九六〇年、おそらくそれ以後の成立かと思われる。伊与の湯第二首が、この重之の歌の改作とすると、伊与の湯の歌謡の成立は重之の歌以後、『源氏物語』成立以前ということになる。しかし、重之の方がすでに都で知られる伊予の湯の歌詞をふまえて、同じ名湯「つかまの湯」を詠むという場によりかかった本歌取りをしたのだとも考えられる。重之はまた、『大和物語』、『後撰和歌集』でよく知られていた桧垣嫗の歌「むばたまの我が黒髪は白川のみつはぐむまで老いぞしにける」をふまえて「年を経てすめる泉にかげみればみつはぐむまで老いぞしにける」(後拾遺集・一一一七)という歌を詠んだ歌人であった。なお、同種の歌に「龍門の滝にて」という詞書を持つ「くる人もなき奥山の滝の糸は水のわくにぞまかせたりける」(後拾遺集・一○五六・中納言定頼)がある。
 第三首は、「陸奥の梓の真弓我がひかばやうやう寄りこ忍び忍びに」(神楽歌「弓」末歌)の改作とみられる。『古今和歌集』では「みちのくの安達の真弓我が引かば末さへ寄り来し忍び忍びに」(神遊びのうた(採り物のうた)・一〇七八)とある。第四首は、「……見渡せば……見ゆ」という構造の歌詞であるが、これは『万葉集』などで特徴的な構造で、『後拾遺和歌集』以後、再び「見渡せば」という語句を用いた叙景歌が盛んに詠まれるようになるが、それらには、「……見ゆ」でうける構造の歌はなく、こうした点からみて、第四首の歌詞の古風さが指摘しうる。(中小路駿逸「古謡の諸問題」『愛媛国文研究24』昭49)
 さて、第一首にあるように、湯桁の数が話題になったのであるが、中世になると、『源氏物語』の注釈書類が、その数を具体的に考証するようになる。
 一条兼良『花鳥余情』で「六花集に古歌とていだせり」と指摘する歌は「伊予の湯の湯桁の数は左八つ右は九つ中は十六」というもので、その数は計三三あったことになる。素寂は『紫明抄』 で「湯のまいる桁のかたち、七なみ七十七たんなり」とし「桁の数五百三十九か」とする。これは、七に七七をかけあわせた数である。
 なお、『河海抄』には「温泉記」の一部を引用している。資料編では省略したが、「熟田津」の場所を推定する上で一つの資料となる面をもっているのでここにかかげておく。

   (温泉記云)予州温泉はその勝天下に冠絶せり、その名聞人中に著し、櫐々として山頭より出で、潺々として海に治ぶ、江中底白砂潔し、四隅に青岸斜なり、朝宗是れ幾許ぞ、海を辞すること二三里、その温泉を観れば、上下区以て別なく、以て貴賤を卒ひて混誑せざる故なり、上には則ち序[廊]宇を構へ、戸牖を開き、その裏に屛息を備へたり、閑の具を居う、下亦山石を左にし、岸樹を右にす、その間陰風陽日の気を虞ふ、是に由て来る者憚ることなく、浴する者便あり(以下繁に依り之を略す)                
    (今治市河野信一記念文化館蔵『河海抄』による。原漢文)