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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

第一節 藤原純友の動乱

 古代後期文学概観

 古代後期(平安時代)は、宮廷を中心に、文化・文学の国風化の進んだ時代で、漢詩に匹敵する地位を和歌文学が獲得し、次々と勅撰の和歌集が編まれるとともに、宮廷女房らによる随筆・日記・物語などの文学が生み出された。まさに、王朝文学の名にふさわしい時期であった。しかし一方、古代後期は、風土記・万葉集などを擁する古代前期(奈良時代及びそれ以前)と、文化・文学の地方化が進んだ中世(鎌倉・室町時代)との間にあって、地方独自の文学の最も希薄な時代であった。伊予の国に関しても例外ではなく、伊予で生み出された文芸、また伊予における伝承やそれを土台とする文学といったものはほとんどみられず、わずかに「伊予の湯」の歌謡などを例外に、多くは、中央の貴族の眼に映った「伊予」が文学の素材となって断片的に描かれているにすぎない。
 しかし、古代後期の伊予において、土着の人々の間には、古代伝承・説話といったものが語り継がれていたにちがいない。それらはついに古代後期において書きとどめられることはなかった。が、後の中世―武士の時代、また仏教大衆化の時代-になって、地方豪族の系譜・系図の作成や文芸の地方化が進む中で、中世という時代の色に染められながらも、また変形されたかたちではあっても、古代伝承・説話などが受けとめられていたにちがいない。本章では、中世以降の資料をも射程内において、伊予の古代後期の文学について考えてみることとする。

 純友の乱の概観

 伊予を舞台とする出来ごとで、都の貴族の耳目を最も驚かせたのは、東国における平将門の反乱と同時期に起こった、西国における藤原純友を首領とする海賊の跳梁であった。その史実的経過や背景など歴史学的な考察は、通史篇や後掲の参考文献などにゆずり、ここでは、できる限り文学及びそれに準じる作品との関わりにおいて、藤原純友の動乱の問題を考えてみたい。まず、この動乱の概略を確認しておこう。

  前伊予掾(伊予国司の三等官)藤原純友は、国司の任が果てた後も上洛せず、伊予に土 着して、ついには海賊の首領となり、宇和郡日振島を本拠として、瀬戸内海の諸国で略奪 を繰りかえした。朝廷派遣の追捕凶賊使小野好古を総指揮とする政府軍と対決したが、九 州博多港の戦さに大敗して、ひそかに伊予に逃げ帰ったところ、伊予国警固使であった橘 遠保に捕えられ、首をはねられた。(資31~32)

 海賊の跳梁

 海賊の気配が全くなかったわけではないが、奈良時代以前の瀬戸内は比較的平穏だったのだろうか、海賊の騒ぎが喧伝されるようになるのは平安時代になってからである。すなわち、律令体制がゆるみ統制がきかなくなって公私の秩序が混乱してきたことや、船舶による公私の物資の輸送が非常に盛んになっていたことが、海賊行為を誘発した主な理由となった。瀬戸内は遠くは中国大陸・朝鮮半島と都とを結ぶ、近くは国内で九州大宰府や西国の諸国と都とを結ぶ幹線の役をなし、しかも陸路の運送に比して海路のそれは格段に経費が安かったのである。平安時代前半で、海賊が盛んに跳梁したのは、次の二つの時期にまとめられる。
 第一期ー貞観四年(八六二)から元慶五年(八八一)頃まで。
 第二期ー承平元年(九三一)から天慶四年(九四一)まで。
純友の乱は、第二期にあたる。第一期は、貞観四年五月に、海賊によって備前国の官米八〇石が略奪され、百姓一一人が殺害されるという事件にはじまる。この時すでに海賊が広域にわたって出没するようになっていたらしく、朝廷は、山陽道・南海道の国々に海賊追捕の下知を発している。特に伊予の国に関しては、貞観九年(八六七)。「伊予国宮崎村」(現越智郡波方町宮崎か)に海賊が群居して盛んに略奪を繰り返すので、公私の航行が途絶えてしまう状態だという情報(日本三代実録)が朝廷に伝えられている。そこで朝廷は単に自国内の警備に徹するだけでなく、各国が連絡をとりあい、共同して海賊追捕にあたる必要があることを関係諸国に布告したという。海賊追捕が思うようにはかどらなかったのは、朝廷や各国衙における軍事的組織にも問題があったであろうが、海賊自体の、神出鬼没でしかもたくみに離合集散する動きにまどわされ、対策を講じかねたということがあったようだ。
 第一期の後約五〇年を経て、再び海賊跳梁のことが記録類にみられるようになるのは承平元年正月からで、承平四年(九三四)冬には、伊予の国喜多郡で郡衙管理の不動穀三千石が海賊によって奪われている。その年十月、朝廷は追捕海賊使を正式に任命した。連年のように勃発する海賊騒ぎに対して都の官人のおののく様子が、土佐の守であった紀貫之の『土佐日記』にうかがうことができる。この日記は、貫之が土佐の守の任果てて承平四年十二月土佐を出発し、翌年二月京に帰り着くまでの船旅を中心とする紀行文学で、海賊のことが次のように記されている。

 国よりはじめて、海賊むくいせんといふなることを思ふうへに、海のまた恐ろしければ、頭もみなしらけぬ。(承平五年正月二一日条)
 二三日、日照りて曇りぬ。このわたり海賊の恐りありといへば、神仏を祈る。
 二五日、(略)、海賊おひ来といふこと絶えず聞こゆ。
 二六日、まことにやあらん、海賊おふといへば、夜中ばかりより舟を出だして漕ぎ来る  道に手向けするところあり。
 三〇日、(略)、海賊は夜あるきせざるなりと聞きて、夜なかばかりに舟を出だして、  阿波の水門をわたる。(略)、今は和泉の国に来ぬれば、海賊ものならず。
阿波の国の沿岸を北上し、淡路島南沿を通って和泉の国に着くまでのあたりに海賊のことが集中して出てくる。この航路が瀬戸内の外だとは言え、海賊におそわれる危険性をはらんだ地域だったのである。朝廷から追捕使・警固使などが任命されることもあったが、横行する海賊をとりしまるべき直接の責任は、各地域における各国の国司たちにあった。実際、捕らえられた海賊は国司らによって朝廷にさし出されたのであったから、海賊たちが目の敵としたのが国司たちであったことは言うまでもなく、紀貫之らの一行が「海賊むくいせん」と恐れたのは当然であった。もちろん海賊行為に及んだこと自体、朝廷の出先機関である国衙の政治のあり方に対する不満があってのことでもあった。

 海賊の正体

 さて、海賊の徒を構成する人々の多くは、主に瀬戸内を本拠とする海人族・船人であったようだ。朝廷側が対策を講じかねたのは、彼らの船による巧みな行動のゆえであった。貞観一一年(八六九)讃岐で捕らえられた海賊が二組の夫婦らしいこと、後、博多港で大敗した純友軍には多くの女性が含まれていたことなどは、海賊が、日常を船上で過ごすことの多かった家船系海人であったことを思わせる。
 承平六年(九三六)海賊鎮圧の命もおびて伊予の国の守となった紀淑人は、「寛仁」の人と評されるその人らしく、伊予の国でとった海賊に対する策は、懐柔策であった。彼は、降伏してきた魁帥三〇余人とその士卒ら二五〇〇余人に、田畠を班給し、種子を与えて農業につくことをすすめている。これによって海賊らの経済的安定を保証しようとしたことは、とりもなおさず海賊が農業を基盤とする生産関係から排除されていた家船系海人族・船人らであって、豊かな耕地を持たない人々であったことを意味する。
 『大鏡』には、「西国の海」に出没した海賊の様子を、
  大筏を数知らず集めて、筏の上に土をふせて、植木をおほし、よもやまの田をつくり、住みつきて、(資30)
と記している。これは船を住居とした家船系海人の姿を思わせる記事で、『今昔物語集』が伝える、次のような「下衆」の農耕生活の姿との関わりを考えさせてくれる。

  今は昔、土佐国幡多郡に住みける下衆ありけり。己が住む浦にはあらで、他の浦に田を作りけるに、己が住む浦に種を蒔きて苗代と言ふ事をして、植うべき程になりぬれば、其の苗を船に引き入れて植ゑ人など雇ひ具して、食物より始めて馬鍬、辛鋤、鎌、鍬、斧、たつきなど言ふ物に至るまで、家の具を船に取り入れて渡りけるにや。(以下略)
  (「土佐国の妹兄、知らざる島に行き住みし語」巻二六・第一〇)

これは土佐の幡多郡の話であるが、こうした生活実態は伊予の宇和郡にも連続的にみられたことであろう。同話を載せる『宇治拾遺物語』では、右の『今昔物語集』中の傍点を付した部分が「己が国にはあらで、他の国に田を作りけるに」とある。この「他の国」にはまずは伊予の国を想定することができよう。この説話は「洪水伝説(兄妹漂蕩物語)」型と認められる話型をもっているが、これは元来海人族の伝承ではなかったか、と考える。

 西船東馬

 朝廷が海賊の跳梁に手をやいたのは、彼らが瀬戸内を自由に動きまわれる船の機動力を持っていたからであった。「承平・天慶の乱」と総称されるように、西国での純友の乱と同時に、またはやや先んじて東国では平将門が朝廷に反旗を翻したのであったが、その将門の軍は、馬の機動力にものをいわせた。まさに南船北馬ならぬ「西船東馬」であった。
 東西においてほとんど同時に起こった動乱について、『今昔物語集』では、巻二五の第一話に「平将門の乱」を、第二話に「藤原純友の乱」を、共に「今は昔、朱雀院の御時に」と語り始めて並置する。しかし、両乱の関係については、第二話の末尾に、
  この天皇の御時に、去りぬる承平年中に平将門が謀反の事出で来て、世の極まりなき大  事に有りしに、程なく亦この純友討たれて、かかる大事どものうちつづき有るをなむ世  の人言ひあつかひける云々(資31)
とするばかりで、将門と純友との間に盟約的な関係があったと思われるような記述はみられない。もっともこの『今昔物語集』の純友説話は、伊予国警固使橘遠保が、博多港で大敗して伊予に逃げ帰った純友を討ちとり、純友とその子重太丸の首とを京都に進めたという、橘遠保の活躍が中心に語られているもので、純友親子の首に対する、京中、朝廷、そして帝の反応ぶりが詳しく描かれている。「遠保には賞を給ひてけり」とあるが、遠保は伊予国宇和荘を賜ったという(吾妻鏡)。このように、この話は、純友の乱の顛末を語るものというより、遠保の活躍に視点を合わせたものである。それ故に、かえって人間を描く姿勢が表に出て文芸性を獲得するものにもなっている。また、こうした視点は、この伝承自体、橘遠保の流れを汲む人々の間で語り継がれていた伝承であったのではないかと想像させる。
 将門の乱については、乱後まもなく成った軍記『将門記』がある。それには純友のことは一筆も触れるところがない。一方、純友の乱については、「純友追討記」があり、『扶桑略記』や『古事談』が書き留めている。成立の時期は不詳。そこには純友が「遥将門謀反之由聞。亦乱逆企、上道漸擬。」と記し、そのころ京中に連夜放火があいついだのは「純友士卒京洛交致所也」という。純友が将門謀反を聞き知って、この時とばかりに、動揺する京洛の襲撃をはじめたというのである。(資31~32)
 「特定の立場を特に誇示するための書」(参考文献小林論文)ともいわれる「純友追討記」にはすでに史実離れがみられ、後世の純友伝説・伝承の影響を多分に受けたものと思われる。口頭伝承の世界が、東西にほぼ同時的に勃発した両乱を劇的に関連づけて把握する方向に向かったのは、伝承というものの性格からみて充分ありうることであった。この方向を最も押し進めた最初が、歴史物語の『大鏡』であった。

  この純友は、将門おなじ心に語らひて、おそろしき事企てたる者なり。将門は「みかどを打ちとり奉らむ」と言ひ、純友は「関白にならむ」と同じく心を合はせて、この世界にわれと政をし、君となりてすぎむ、といふ事を契り合はせて

と、両勇の間に直接的盟約のあったことを語る。
 『将門記』は乱平定後まもなく(奥書に天慶三年(九四〇)の日付け)、将門の身近にいた人の手によってなったもので、乱の内部に分けいった当事者的視点で描かれている。それに対して「純友追討記」は、その名の示す通り、朝廷側の「追討記」一般につながるもので、追討者の立場からの記述であり、純友側に分け入った記述は認められない。ただ一方的に純友を「暴悪之類」と捉える姿勢のみで、前伊予掾といわれる人が伊予に土着し、一度は国の守紀淑人に協力する海賊追捕の任をも与えられた純友が、なぜに海賊の首領となり、朝廷および国衙に反旗を翻す暴挙に出るに至ったのか、といった背景には全くといってよいほど触れるところがない。それが、「純友追討記」の文芸性を薄いものにしている。ところでこの『将門記』、「純友追討記」などが、後盛んになる軍記物語・戦記文学の先駆的位置にあることは注目してよいことである。

 地方における伝承

 広島県の楽音寺にある「楽音寺縁起絵巻」は、地方における、特異な純友伝説をとどめている。この絵巻(現存物は江戸期の模本)の原本は鎌倉末をくだらないものと推定されているから、少なくともそれ以前に成立していた、安芸国沼田氏の始祖伝説を伝えている。
 沼田氏の先祖である藤原倫実は、純友追討の勅命を受けて、純友が本拠地としていた備前国釜島を攻めて、純友を討ちとった。その恩賞として、安芸国沼田郷(後の沼田荘、現広島県竹原市)を与えられ、また、純友を討つに霊験を発した薬師仏を本尊に楽音寺を建立したのだという話である。なお、『梁塵秘抄』には、沼田について次のような歌謡がある。
  安芸の国沼田の郡に住む人は 厳島をば三島とや見る        (五五三)
ちなみに、沼田氏は、後の源平の合戦では平氏方として活躍した。
 さて、伊予の郷土資料では、純友追討に活躍した人物として越智好方という人がみえ、越智・河野氏の先祖として重要な人物の一人として扱われている。

  好方越智押領使 朱雀院御宇天慶二年乙亥、純友ト云逆臣九州ヲ押領ス、爰二好方追討ノ宣旨ヲ蒙リ、赤地ノ錦の鎧・直垂ヲ賜フ。其比村上ト云大剛ノ者、新居ノ大島二謫セラレテ年久ク在リケルヲ、海上ノ働キ一人当千ノ者ナレバ、好方勅許ヲ申請ケ、奴田新藤次忠勝ヲ相添テ今度ノ武将ト定メ、其外中・西国ノ軍兵ヲ率ヒテ、三百余艘ノ兵船ヲ九州ノ地へ押渡シテ、終二純友ガ首ヲ刎ヌ。(上蔵院本『予章記』)

好方の名も右のような追討の様子を語るものも、中央の文献にはない。好方が実在の人物であったかどうかはともかくとして、伊予の土着豪族で、朝廷の海賊(純友)追討軍に参加または協力した人々があったことは充分想像できることで、事実、『貞信公記抄』(太政大臣仲平の日記)によると、天暦二年(九四八)に伊予の国の越智用忠が海賊追捕の功によって叙任されている。前のページの『予章記』をはじめ、越智や河野の系図などに、越智・河野の先祖の伝承として、好方という人物が語られているのである。
 ところで、前のページの「奴田新藤次忠勝」とは誰か。群書類従本「河野氏系図」には、「芸州奴田新藤次忠勝純友ヲ討捕ル」とある。「芸州」とは安芸の国のこと、すると「奴田」とは「沼田」に同じであると知れる。こうなると、伝承において、伊予の好方譚と「楽音寺縁起絵巻」の倫実譚とには重なるところがみえてくる。おもしろいことに、倫実なる人物は、安芸国配流中の身であったところを特別に許されて純友追討の任にあたったのであったが、前のページの『予章記』の「村上ト云大剛ノ者」もやはり「謫セラレテ」あったのに許されて純友追討に加わった人物であったことがわかる。
 こうした地方における伝承の姿を掘りおこすのは今後の問題かと思う。また、現在なお伊予の各地で伝説として語られている純友の乱、また純友という人物の像などにも注視してみるべきであろうが、ここでは割愛する。