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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 御嶋・熊野の岑

 赤人は伊予を訪れて温泉を讃め、また「島山の宜しき国」と称えた(第二節第三項)。まさにこれを裏づけるのが、「伊予国風土記」逸文の所収記事である。現存するこの逸文で温泉関係以外の記事は、御嶋・熊野の岑・天山についてのそれぞれの由来説話である。伊予における風土記の編纂は、官命(七一三年)が下って間もない頃とみられており、赤人の伊予下向とあまり隔った頃でないように思われる。ここで、高縄半島から島嶼部にかけての地点における説話、つまり海に関わる伝承を二つとりあげよう。
 御嶋 御嶋すなわち大三島の大山積神の由来記事は左記の通りである。これは、二~三の別伝承を集成したように見うけられ、大三島の神に関わる最古の由来で、『釈日本紀』巻六に載せている。

 伊予の国の風土記にいはく、乎知(越智)の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。この神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇(仁徳)の御世に顕れましき。この神、百済の国より度り来まして、津の国の御嶋に坐しき云々。御嶋といふは、津の国の御嶋の名なり。
 大山積神は、大山津見神(古事記)・大山祗神(書紀)とも表記され、元来は山の精霊としての神であること、いうまでもない。ただし、神は、それを信奉する人々の願いに応えて、種々の神徳を発揮し、また各地に勧請されるのを常とする。この伝承では、ワタシ(渡し)の神、つまり渡船場の神、航海の守護神となっている。渡船場は異郷から来る客人をもてなし祭る場である。山の神は、村里に降臨して豊穣をもたらす神と信じられていたので、その点渡来神の性格と重なって、本話のような伝承を生んだのであろう。
 だから、「百済の国より度り来まして」という伝承は、韓国出征の時に神徳を発揮して帰朝した(日本古典文学大系)とみるよりも、文字通り百済からの渡来(角川文庫)ととる方がよいと思う。難波に都された仁徳天皇など河内王朝時には、瀬戸内を通って百済と交流するルートがよく利用されたようだ(他のルートは対高麗・新羅の日本海ルート)。渡来人たちが、かれらの信奉する神々を勧請して来ることは珍しくなかったであろう。渡来神と明記されている神に、比売碁曽社(垂仁紀三年)・女神(摂津風土記)・鹿春神(豊前風土記)など散見されるし、現に各地に新羅関係の神社があるようだ。本話によると、この神は、まず難波にほど近い摂津に勧請された。『延喜式』神名帳の、摂津国嶋下郡(大阪府高槻市)の三嶋鴨神社がこれにあたる。
 ところが、摂津の国から大三島へとさらに勧請された。神名帳の伊予国越智郡に、「大山積神社名神大」とある。憶測するに、これの勧請者は古代に当地の制海権を握っていた越智氏関係者ではなかろうか。伝承によると、仁徳天皇代より一代前の応神天皇代に、小市(越智)国造として小致命が任じられている(国造本紀)。この大山積神は、天平神護二年(七六六)に従四位下が授けられ(続紀)、徐々に昇進して貞観一七年(八七五)には正二位となっている(三代実録)。おそらく越智氏の隆盛と関わりがあるであろう。なお、越智氏については、第四節の第二項「越智直」を参照されたい。

 熊野の岑

 伊予の野間郡の熊野の岑についての山名由来譚が、『釈日本紀』巻八に引かれている。この伝承は本話以外に見当たらず、その名の現物(山・石)もないようで、実地検証は不可能に近い。

 伊予の国の風土記にいはく、野間の郡。熊野の岑。熊野と名づくる由は、むかし、熊野  といふ船をここに設りき。今に至るまで石と成りてあり。よりて熊野といふ、本なり。

 「岑」は、古辞書によると、山が小さくて高いさま、とあり、ミネと訓む。ツクルの表記の「設」字は、ある程度の施設めいたものがあって、随時この山で造船作業が行われていたことを示す。そこで造られた船を「熊野船」といったから、それを山名とし、石と化した船の現物まで残っているという。野間郡は高縄半島の西北部、今の今治市と越智郡に入り、野間馬にも名を留めている。伊予の五国造の中に「怒麻」もあるから、早くから開発されていたらしい。ここの野間神は、天平神護二年(七六六)から見え(続紀)、昇格を重ねて、承平・天慶の頃には海賊退散を祈申する神となっている。当地は瀬戸内航行上の一要衝にあたるところである。
 ところで、古代では山中で船を作ってから引き下ろして進水させたらしく、『万葉集』『風土記』などにその例が見える。すると、この話の場合も同様で、海か川に近く、水利のよい位置の山であったにちがいない。古代の船材は楠を通例としたから、この山には大楠群があったであろう。『延喜式』神名帳にのる樟本神社は現に今治市八丁にあるが、巨楠崇拝による神名か。その近くの同市徳重の一之宮神社にも楠の巨木が現存するし、高縄半島から北に行くと、大三島の大山祇神社の境内の大楠は有名である。旧野間郡にはいわゆる大山や深山はないが、屈曲する海岸線まで随処に山の起伏があり、その一つが楠の船材の山「熊野の岑」であっただろう。
 さて、熊野船は『万葉集』にも登場する。赤人は、瀬戸内海の播磨の辛荷の島を過ぎる船中で、

  島隠り わが漕ぎくれば 羨しかも 倭へ上る 真熊野の船(九四四)

と歌った。家持も、伊勢の志摩半島で「真熊野の小船」を詠んでいる(一〇三三)。「真」は美称。このように、万葉時代に瀬戸内でも紀伊半島の外洋でも、熊野船は見られ、一見してそれとわかる船型であったらしい(三一七二)。当時、九州では松浦船、東国では伊豆手船・足柄小船が『万葉集』で詠われている。なお、熊野船の熊野については、神話によると紀伊と出雲とが関係するが、主体は木の国(紀州)の方にあったとみてよさそうだ。その
「熊野櫲樟日命」という神名は、熊野とクスノキとの緊密な関係を象徴している。
 瀬戸内海は高縄半島の突出によって狭隘となり、その上大小の島々がその辺に密集するため、来島海峡をはじめ、随時随処で潮流の状態が変わるらしい。そんな海で生活する人々は、高度な造船と航行の技術を持っていたはずである。問題は、本話の熊野船が伊予で独自に開発されたのか、それとも紀伊からの技術導入によるか、である。ここで注目すべきは、推古天皇の代に紀博世という人が紀伊から伊予に遣わされ、その孫が越智の直の娘を娶って在手を生み、以後越智姓を負っていることが、延暦一〇年(七九一)に問題になっている記事である(続紀)。岸俊男「紀氏に関する一試考」(『日本古代政治史研究』昭41)は、これを一資料にして、四世紀に始まる大和朝廷の朝鮮経略をめぐって、紀氏-木ノ国-船材(楠)-水軍の、相関関係等を詳細に推考する明快な論である。これを根拠に、熊野船の技術も紀氏から越智氏へと導入されたものとみたい。
 前記した怒麻国造のその後については資料に登場しない。しかし、隣の小千国造の子孫については、伊予だけにとどまらず、内海の東西、中央への進出も朝鮮半島への遠征も、その活躍ぶりはすさまじい(第四節第二項)。その越智氏は、高縄半島周辺を中心とする内海の制海権をも掌握していたであろう。だから、渦潮にも耐え、スピードもある船造りをした。その船山ならびに船名がこの伝承に関わっているものと推考する。
 結局、この説話は、在地の越智一族が伝承していた口承に基づくと考える。なお、末尾を「よりて熊野といふ本なり」と結んでいるコトノモトという語は、「伊予国風土記」逸文に「本」と表記されている(本文19・22)。上代資料では「縁」「本縁」「語本」など種々表記される。この語は、当時行われていた出来事や伝承について、神話・伝説的に起源の説明をする場合に多用されている。コトノモト伝承は、上代の説話伝承を示す典型的な形式であり、日本文学の起源の一形態でもあったとみられる。