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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 熟田津の歌

 『万葉集』巻一の八番、「額田王の歌」と題する有名な「熟田津の歌」も、伊予の温泉に関わる歌である。
  熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
この歌には左注がついている。その要旨は次の通りである。

 山上憶良の類聚歌林を調べると、「舒明天皇の九年(一一年の誤」十二月十四日に、天皇と皇后は伊予の湯の宮に行幸された。斉明天皇の七年正月六日に天皇の船は筑紫へ向けて出航、同十四日に伊予の熟田津の石湯の行宮に泊まる。天皇は、夫君舒明天皇と来られた時の風物がそのまま残っているのを見て懐しく思われ、歌を作って悲しみの情を表わされた」とある。つまりこの歌は天皇の歌であり、額田王の歌は別に四首ある。(資8)

 舒明天皇と皇后(後の皇極・斉明女帝)、さらに斉明天皇たちの伊予の温泉行幸については、「伊予国風土記」逸文に、四度目(六三九年)と五度目(六六一年)の行幸と記され、これが『書紀』で裏づけられることは上述した。類聚歌林の説は、再度入湯に来られた斉明天皇が、前回夫君との来湯時を追憶した哀感を詠じたものとする。それに即して解してみると、天皇が額田王に、前回(二十余年前)夫君と入湯した日々の楽しかったこと、月明に熟田津で舟遊びをして「舟を漕ぎ出そうよ」などとはしやいだこと、夫君はもう亡いが風物は昔と変わらないこと、などなど、しみじみと語られたー。そんな伝承があって、類聚歌林はそれに従ったのであろうか。しかし、歌自体に、そんな天皇の心情を詠じたような内容は伴っていないし、そんなリズムも感じられず、不審である。その点で、左注を疑い、あるいは解釈をめぐって諸説が生じることになる。以下、狭いスペースゆえに、問題点だけ摘記するにとどめたい。
 まず、作者について。「伊予国風土記」逸文(万葉集註釈)に、斉明天皇の歌として「みきたつに泊ててみれば云々」ともあり、類歌の感があるが、その第三句以下は天皇の昔日哀傷を詠じたとみる説もある。ところで、『万葉集』に収める額田王作歌には、熟田津の歌のように天皇作とも注する例が目立つ。この問題については、題詞に記されている作者を実作者、左注に載る作者を形式作者とそれぞれみる説など代作説が有力である。この歌も、額田王が天皇の心を体して詠んだものとみてよいであろう。
 本歌は『万葉集』の八番目に位置し、以下斉明天皇の御代の歌が一五番まで並んでいる。歌の配列は年代順が原則とみられるのに、この場合は例外となる。九~一二番の歌は斉明四年(六五八)作とみられるが、この八番の歌は左注により斉明七年(六六一)であろうから順序が逆である。これは、八番歌が亡き舒明天皇を追憶するという左注の内容を勘案したためかもしれず、問題となる。
 次に「熟田津」について。訓みは、ニギタヅ・ニギタツ・ニキタヅなど清濁諸説あるが、国語学的にはニキタツと清音訓みがよさそうだ。その根拠は、上代唯一の万葉仮名表記である『書紀』の訓注(斉明七年一月一四日条)に、「儞枳陀豆」とあり、それぞれの仮名の清濁を詳細に検討した大野晋著『上代仮名遣の研究』(昭28、岩波書店)による。なお、ニキタツの語の意味については、「熟」は作物がみのる、熟する意で、「荒」(アラ、みのらない)に対する。「熟」は古辞書にムマシ・ナル・ヨシ等の訓がある。別の表記に「柔田津」(三二〇二)もあり、そのニキはアラ(荒)に対し、「和」と同じく、穏和な・やわらかな意で讃めことばともなる。また、「飽田津」(三二三)の表記もあり、「飽」は古辞書に「満也」の意とかスグル等の訓があり、意訳訓であろう。「田」は田地、「津」は船着場とみて問題はあるまい。要するに、背後に美田をひかえた港としてよかろう。「熟田津に」の「に」は、ニオイテの意。ところが、熟田津はどこかがわからない。
 熟田津の位置については、説がいろいろ提起されているが、結局は決定的な決め手を持つ説がない現状である。次にあげる種々の観点に立って諸説が出ているー伊予の温泉との距離的関係、古代の海岸線とくに入江の状態、古代の河川の状態、熟田の意味と船津の背後、周辺の地名と遺跡・出土品等、その船津の機能、そこの月の出と潮流の状態、「舟乗り」の目的との関連等々。これらを種々考慮するなどして次の諸説があるー御幸寺山麓説、和気・堀江説、和気郡吉原郷説、古三津付近説、高岡町~南斎院辺説、松山平野運河説など。他に東予の広江港説、西条説まであるが、現在の道後温泉の近くとみるのがよいであろう。なお、『河海抄』引用「温泉記」および伊予の歌枕参照(第二章第二節ノニおよび第四節)。
 さて、第二句の「舟乗り」について。意味は舟に乗ることであるが、乗る目的においては諸説がある。舟遊びのためとみる説もとりどりである。単なる月明の舟遊び、宮廷儀礼としての行事、宗教儀礼の聖水汲み、禊の行事、軽太子らの魂祭りなど。この点は、左注によって筑紫へと出航するための舟乗りとする通説がよかろう。諸氏の指摘するように、この歌のもつ荘重で緊迫した格調と雄渾な気宇によってである。
 第三句の「月待てば」については、二三か月待つという説は例外とみるにしても、月の出るのを待つとする説と、月齢の到来、とくに満月のころを待つとする説とに分かれる。これらは、夜の航海の是非や、満月にこだわるか否か、潮との関係などの問題と関わる。夜の航海について、瀬戸内ならよいとする用例もある一方、天皇以下大和朝廷の中枢部あげての移動に夜の航行がありうるか、月は満月か下弦の月か、潮とどう関係するかなど、問題は残る。
 第四句の「潮もかなひぬ」は、大潮・満潮、潮流があげられる。松山周辺の海岸の潮汐表を使って時日を推定する試みの提起もある。瀬戸内海は潮流の状態が複雑であり、オールをたよりとする航行であった時代だけに、潮流は度外視できない。最近の指摘に、伊予灘の潮流が西へ(九州の方へ)流れ始めるのは、満潮の二時間後であるという、そういう下げ潮流を利用したとする見方も出ている。
 月も潮も意にかなったから、さあ今こそ漕ぎ出そうよ、というのが結句である。その「今」がいつの時点かという問題は、当然、上述来の「月」や「潮」と関連がある。また、左注の記事との勘案も要する。つまり、左注の『書紀』における記事のつづきが、「三月二十五日に、御船は還って(通常コースに戻って)娜大津(博多港)に着いた」とあるので、伊予の熟田津の石湯の行宮に到着した一月一四日から、その二か月余にわたる記事の空白をめぐって諸見解が出ることになる。
 難波の港から北九州へ向かう瀬戸内コースは、中国地方の沿岸を行くのが通例であった。この歌の場合、中途から南下してわざわざ伊予に寄港し、しかもかなり長期間滞在した理由についてはぜひ押さえておかねばならない点である。その点、一つには、西征のための兵員集めなど軍備調達に要したとみる説がある(第四節第二項「越智直」)。すると、熟田津は軍地基地の役割をもつことになる。二つには、温泉を利用したとみる説である。六八歳の老女帝が長い船旅によって休養を要する健康状態になり、予定を変更して曽遊の地の温泉に寄ったとみるのである(帝は同年七月博多で崩御)。なお、女帝だけでなく、一行が長期遠征のための活力を与える霊泉に浴することは、戦勝を予祝する意義もあっただろう。ともあれ、本歌は、船団の出航を眼前にして執り行われた、前途を祈る儀礼に際しての呪的な歌でもあったのだろう。
 さて、こうして一わたりこの歌の問題点をみてきて、初めに指摘した左注を再び読んでみると、この歌はたしかに女帝の夫君哀傷歌とは思えない。そこで連作の中の一首とみる説が出されているのは尤もである。哀傷歌は別にあって、連作の最後にあたる、哀傷から「今は漕ぎ出でな」と強い要請・命令に転じたのがこの作ではないかとみるのである。あるいは、もと昔日哀傷の連作中の一首で、それが『万葉集』ないし先行歌集に収められるに際して、西征出航歌と解されるようになったのではないかと、等々。
 ともあれ、この熟田津の歌は、古今に稀な秀歌として名声が高い。斎藤茂吉はいう。

 結句は八音に字を余し、「今は」といふのも、なかなか強い語である。この結句は命令のやうな大きい語気であるが、縦ひ作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのづからここに存じてゐると看ればいい。(万葉秀歌)

 書き足りないことも多いが、スペースの都合でここで止めておく。願わくは、種々の問題点を踏まえた上で、いま一度この秀歌を自分なりに味わってみていただきたい。