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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 行政機構

 行政機構の改革

生産福祉県政から生活福祉県政への転換を提唱した白石知事は、時代の進展に即応し、また先取りする政策を次々と掲げて実施に移していった。県の行政機構も、そのためしばしば改革された。四六年四月には、知事室を「知事公室」と改め、秘書業務の外に広報・広聴部門や県民談話室を知事に直属とし、各部に分散配置していた主幹を知事公室に集中勤務させて、横の連繋の円滑化を図った。また、生活福祉優先の立場から、消費生活、生活環境、生活保全の執行体制を強化するため、総務部内に「環境生活局」を新設し、生活・生活環境・公害第一・同第二の四課を置いた。さらに久松県政から継承した瀬戸内海大橋架橋・南予水資源開発・愛媛大学医学部の設置などを早期実現するため、従来の瀬戸内海大橋架橋部及び開発部を統合して、企画部の中に「特別開発事業本部」を設置した。その外本庁・地方機関の係を増置するなど、内部組織の変革、充実を試みた。
 一方、公営企業は従来知事が管理権限を執行していたが、条例改正により専任管理者としての企業長に、総務部長喜安虎夫を任命した。また、公営企業の内部組織を管理・工務・病院の三局制とした。
 四七年度は、本庁・地方機関を通じて係の増置など小幅の改革であったが、四八年には、身の回わり行政、生活環境の整備を重視する知事は、総務部に属していた環境生活局を部制条例を改正し、正式の部と
しての「生活環境部」を発足させ、八部五〇課一事務局(出納)制とした。なお、この際に、企画部とその内局の特別開発事業本部を合わせて「企画調整部」とし、民生部を「福祉部」、衛生部を「保健部」とそれぞれ改称した。また、部局間の調整、特命事項、プロジェクトチームの総括などに当たらせるため、新たに「参与」制度を設けた。この制度は五四年に一時中断したが、六〇年四月に復活した。
 第二次白石県政に入り、いわゆる石油ショック後の県民生活安定のため、五〇年四月、生活環境部に「消費生活課」を、各県事務所に「県民生活課」を設けた。これにより、内部体制を固めるとともに婦人物価レポーターの委嘱、五月には物価対策県民会議の設置、七月には消費者保護審議会、苦情処理審議会を設置するなど多彩な活動を展開し、県民生活の安定に努めた。
 五一年四月、本庁各部に総務班を置き、部内の人事、庶務、会計事務など共通事務の集中処理化を図った。その後この業務が定着した五四年四月から課に相当する「総務室」と改めた。
 昭和五五年四月、「愛媛県行政組織規則」が制定公布された。これにより、従来個別に定められていた県行政機関に関する数多くの諸規定類が、系統的に統一された。県機構のその所掌事務について、この規則ですべてを知り得ることは行政に従事する職員のみならず、広く県民にとっても時宜を得たものであった。
 昭和五〇年代に入ると国民の声として国の行政改革が唱えられるようになり、五五年一一月臨時行政調査会法が成立し、増税なき財政再建の方途が検討されはじめた。そのため、国・地方を通じての行政改革は、国民的課題となったが、知事はいち早く五五年に本庁七課を、五六年四月には一部三課をそれぞれ削減し、総務・地方振興・生活福祉・保健環境・商工労働・農林水産・土木の七部とし、事務の再配分を行って四七課一事務局とした。また横の総合調整機能をつかさどる「首席調整監」を知事に直属して設置し、五一年度以来置かれていた総務班(室)は廃止され、各部の中に幹事課を定めて、部内の行政事務の総合調整が行われた。地方課は「市町村課」と改められ、総務部から地方振興部へ移管された。五七年には、水産行政の総合的な企画調整並びに漁業調整業務の強化など、水産行政を総括させるため農林水産部の内局として「水産局」を設置し、従来の水産・漁港の二課に漁政課を加え三課制とした。第四次白石県政の五八年に入り首席調整監制度を廃止し、六〇年には、高度情報化社会へ移行する流れの中にこれを的確に把握し対応するため、知事に直属する「政策研究室」を置いた。また、「高度情報システム開発室」やプロジェクトチームとしての「テクノポリス建設推進本部」を設置した。なお、たびたびの機構改革もスクラップ・アンド・ビルド方式により全体としての機構の膨張は抑制し、教員、警察官、公営企業職員などは別として、一般行政職員の定員管理は常に厳正に行われたことは特筆されるべきである(各年度の県行政機構は『愛媛県史』資料編現代・付録に掲載している)。

 地方機関の整備強化

昭和三五年四月縦割りの地方機関を統合し、総合行政機関として五つの県事務所を設置した。当初松山県事務所にあっては、農林事務所所管の事務が本庁直轄となったため、この事務を所管しなかったが、現地業務の多い林業関係については、久万町・大洲市に本庁課の分室を置いた。また、労政事務所を廃止し、県事務所に商工労政課を置きその事務を所掌させたが、西条県事務所にあっては商工労政課を置かず、
新居浜市に本庁課の分室を置くなど、事務処理系統に統一を欠くきらいがあった。三九年四月これを改め、それぞれ関係事務所に移管し整備を図った。四六年には、県事務所の所管区域のうち広域市町村圏域の関係、その外歴史的関連性を考慮して、周桑郡を今治県事務所の所轄から西条県事務所へ移した。四八年お茶の間懇談会が開設され、住民の声を直接聞き現地で解決可能なものは、直ちにこれに対応することとし、地方機関の権限が逐次強化されてきた。五〇年には県事務所長に本庁次長が配せられ権限の拡大も行われ、また地方機関の長で構成する地方連絡協議会の長として、管内地方機関の連絡調整の機能を与えた。
 昭和五一年四月、松山県事務所を廃止し、その業務を本庁直轄としたが、税務事務については松山県税事務所を新設し、上浮穴郡管内については地理的関係から久万事務所(総務・林業・土地改良課)を設置して、その事務が行われた。しかし、本庁業務において他の県事務所との取り扱いの上で、また対市町村との関係で取り扱いに統一性を欠く点があり、県事務所から地方局へ移行の際に改められた。
 土木事務所、保健所にあっても四八年四月、中央土木事務所(西条・今治・松山・大洲・宇和島)を、五一年四月、中央保健所(西条・今治・松山・八幡浜・宇和島)をそれぞれ昇格させ、権限の強化と内部組織の充実を行った。
 五一年四月、東京事務所は所長を本庁部長と同格とし、総務・行政の二課制とした。また、松山市北持田町の旧城南荘跡地に生活文化センターを、一番町の三越内にサービス・ステーションを設置するなど、県民の文化活動の場を提供し、あるいは身近な行政について積極的な接近を図るなど、ユニークな試みが行われた。
 一方、厳しい県行財政環境の中で知事が提唱する地域主義県政を推進していくため、一層地方機関の強化が求められた。五五年、地域の総合行政を所管させるため県事務所を廃止し、新しく「地方局」が設置された。その設置条例には「……管内地方機関の統轄その他知事の権限に属する事務を分掌させるため愛媛県地方局を置く。」と規定され、従来県事務所長が行っていた調整権限に加えて、統轄権をも付与された地方機関が誕生し、局長は本庁部長と同格として、相当の権限が委譲された。翌五六年には、地方局に部制を採用し、総務福祉・保健・産業経済・建設の四部を置き、福祉事務所、中央土木事務所は地方局に吸収され、中央保健所は実質的に保健部となった。また管内の地方機関の大部分を地方局の出先機関とし、本庁の出先機関についても、一部統轄権限が与えられ、名実共に県行政の地方における処理機関としての役割を担うこととなった(改革時ごとの地方行政機構は『愛媛県史資料編現代・付録』に掲載している)。