データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)
1 白石県政一六年
「愛媛方式」の行政
愛媛方式の行政は、白石県政の特色とも見られるほどその色が濃い。仮りにこれを次の三つに分ける。
① (独自性の強いもの) 本来惰性的な事勿れに流れやすい官僚システムへ活を入れ、ソリッドシステムへの再生を期した「トップダウン方式」の予算編成、あるいは政策づくりは、官界には珍しいものである。下僚任せで、上へ積み上げる通例の「ボトムアップカ式」の逆であり、知事が自らの発想による重要政策の具体化、あるいは積み上げ案の修正、再検討の指示によって強いリーダーシップを発揮し、根強い官僚機構からの取り込まれを抑止する構えを示した。トップダウン方式は、もとはアメリカの企業経営のトップマネージメントに見られる、牧民型指導に源を発する。たまたま、昭和四六年知事就任以来、五里霧中の低成長時代の惰性を破り、活路を開く創始者あるいは開拓者的行動が要求された時期でもあった。
このころ、同じ流れの発想として国の行政改革が検討されていたが、これに先立つ昭和五五、五六年度本県で行政改革の先取り実施が行われた。これは一部一〇課の統廃合、五地方局への統合及び権限委譲などが主なもので、事務事業の見直し六三六件、市町村への権限委譲一七〇件に及び、地方重視を打出した果断なスピード改革であった。職員定数も、昭和三九年以降四、五九二人を固く守り、少数精鋭主義を貫ぎ、やむを得ない場合は臨時職員で補完した。五五年から市町村職員との人事交流に乗り出し、五七年までに二〇人前後が相互出向しており、五九年から行政QC(高質化)、事務のOA化など民間手法を導入して合理化・効率化を図った。古い体質のぜい肉落し、効率化のメリットの手応えは確かだが、一方、短期間での機構の転変に県民側で戸惑いを生じたことも否定出来ない。
「二週三休」の勤務体制は、県内企業でも週休一日以上の実施がまだ一四%の時代に、知事就任早々の昭和四七年から全国官公庁のトップを切って実施された。土曜日の勤務を終日勤務者と全休者の二班に分けて交替する制度で、〝隔週週休二日制〟ともいう。土曜日の終日開庁というメリットがあり、五六年国の「四週五休制」の実施後も手直しで大筋は変えず、全国異例の体制となった。
② (普遍性の強いもの)実施当座は突出斬新で耳目を驚かせるように見えるが、本来先見性・普遍性を持ち、拡がりがあり得るものである。この代表は三一年久松県政期に実施された、全国初の「勤務評定」に始まる愛媛の「教育正常化」改革である。当時県議の白石春樹は、自民党県連幹事長として勤評推進の衝に当たり、その後の正常化路線の定着をもたらし「教育県愛媛」の名を高からしめ、全国的な正常化への先導役をつとめた形となった。
同和行政についても全国に例のない県段階での関係団体の統一が実現し、行政窓口一本化という理想的な行政と団体の関係がつくられた。「対話と協調」による、行政とのしっくりした関係を基調とした窓口一本化は、この問題の複雑な経緯から見て、全国異例の成功ともいえよう。
国際交流の面で、白石県政の最大の力点は「日中友好」に置かれた。国際化への対応としては、県出身の南米移住者二・三世の技術研修や各国留学生の受入れ、教員の海外日本人学校派遣、青年の海外研修事業などがあった。日中の交流は、昭和五〇年の「青年の船」参加、続いて五一年県内各層各界の訪中団を手初めに、五二年には知事を団長とする「県日中友好の翼」の訪中が実現し、具体化した。同年九月地方自治体としては全国初の日中友好県民大会を松山市の済美高校体育館で開き、参加者四、五〇〇人の熱気が友好ムードを盛り上げた。その後、五六年まで五次にわたり五〇〇人を超える日中交流の体験が積み重ねられ、五七年には四国四県共同で中国西安市に空海記念碑を建立し、日中友好の象徴ともなった。
昭和四七年ころから国交回復に努めた田中角栄元首相の影響もあったとはいえ、決断にためらいの多かった時代に、地方から積極姿勢で臨んだ先駆者的努力は異色であり、「中国には日本の失ったよいものを残している」との率直な感想に白石哲学の一面がうかがえる。四次の訪中からチャーター機が松山空港から出発し、空港の準国際空港化へのワンステップへの羽ばたきともなった。
なお昭和六一年には松山・今治地域が国際観光モデル地区に指定され、同年新設の県民文化会館に備わる国際会議場の機能を活用し、国際会議・国際イベント開きへの基盤づくりが進み、地方的な国際交流基地へ飛躍する夢も大きくふくらみ、県でも観光国際課を窓口に準備体制を整えつつある。
③ (第三セクターなど新事業方式) 第三セクターとは、公共部門(第一セクター)と企業・銀行など(第ニセクター)の共同で公共的事業体の運営に民間活力を導入しようとするものである。県に出現したものには民活に大きな期待をかけた純第三セクターと、公立民営で経営効率の向上などを図るもの、あるいは両者の混合型も見られる。
「第三セクター方式」で最も純粋な形は、四八年に県・市町村・民間団体・企業の共同出資(一五億円)で設立された「南予レクリエーション都市開発㈱」(略称南レク会社)がある。当初は住友など三財閥商社代表が出向常勤していたが、景気の下降で撤退、当初の民活色は薄くなった。
「混合型」は、構成上は第三セクターとほぼ同様であるが、県行政の大枠に沿いながら幅広く柔軟性・独創性・即時即行性が期待され、効率的運営を行うもので、行政の軽量化、経費節約をもたらす効果もある。「県スポーツ振興事業団」は昭和四九年に、ほぼ同構成で設立され、自主的補完的な健康づくり推進に加えて県立総合運動公園及び松山市内の県立体育施設の委託管理を行っており、この分野は県行政の代行補完といえる。「県文化振興財団」も同五六年にほぼ同構成で設立され、文化行政の性格上試行錯誤も考えられるので、民営のうま味を活かし文化意識の啓発、文化活動の発展など、行政の従来なじみの薄い新しい面の補完などに当たっている。昭和五一年県と地元金融機関などで設立された「県社会経済研究財団」は大学教授スタッフとも協同し、県政と不離一体のシンクタンク的機能を発揮している特異な団体である。コミュニティ行政、地域主義の経済政策、文化行政、西瀬戸経済圏など一〇余のテーマの研究調査が公にされ、県政の方向付けに貢献した政策研究機関である。その他「保健医療財団」、「中小企業情報センター」、「農家経済指導センター」なども混合の度合は様々であるが、同様の団体である。
「県の全額出資による公立民営型」は、行政の軽量化による効率向上と経費節減を主眼とし、併せて民間創意の活力ある運用を期待されている。昭和四八年設立の「県土地開発公社」は国・県の公共用地の円滑迅速な先行取得を目的とする斡旋・委託・調査などの業務を行い、国や県などの行う用地買収、公共事業施行と不離一体の関係で運用されている。同四七年設立の「県社会福祉事業団」は公立民営型の代表格で、数多い県立福祉関係施設の委託経営の実施機関として、福祉行政の現業部門を代行補完するウエイトが逐年向上している。民間創意の例として、四八~五六年には寝たきり老人、重度身障者用の浴槽車が県下を巡回、入浴を実施して喜ばれた。同型の団体は県行政の外郭団体として多数にのぼる。
保守安定の中で
昭和四六年四月の県議会議員選挙で自民党県議団は三五議席を獲得、白石県政の与党としてゆるぎない体制を整えた。この時期、開発に伴う陰の面が深刻化し、環境、公害、住宅、難病など諸課題が噴出してきたため、県議会でも、水資源対策(委員長佐々木弘吉)、瀬戸内海環境保全対策(同田坂春)、土地対策(同菅豊一)の三特別委員会を設置してこれに対処した。特に国の列島改造ビジョン下の開発インフレ、土地ブーム論争は与野党の争点となって火花を散らした。
四八年九月南予水資源開発問題に関連し、白石知事は「水は水利権的に狭義に見るべきものでなく、公共財である」と述べ、瀬戸内海環境保全臨時措置法に基づく埋立規制についても「排水規制の一律半減は先進県を利するもので、後進県としては埋立の全面規制に反対」とギリギリの開発姿勢を明らかにした。石油ショック直後開催の一二月県議会は、暫時与野党が矛をおさめた「県民共闘の危機突破特別議会」の感があった。だが四九年には架橋、水資源、南レクなどの大型プロジェクトをめぐり積極・消極両論が再び与野党で対立、また伊方原発の稼働を前にした安全性論争が議会をにぎわわした。
昭和五〇年一月の知事選では革新統一といわれる野村晃候補に、全国的な自民党の不人気をはね返して一四万票余と大きく水をあけて白石知事は再選された。
同五〇年四月の県議改選で保守陣営は前回同様の安定議席を確保した反面、社会党は議席三を失い七から四に激減した。五一年には長期不況に加えて戦後最大の台風一七号が荒れ狂い、その被害額約五五〇億、国
鉄予土線及び国道一一万の長期不通、嶺南地区の孤立、新居浜市立川地区の地すべりなど東予地方を中心として県下各地に大被害の爪跡を残し、県や市町村はそれらの対策に追われた。同年一二月の衆議院議員総選挙では、自民党が過半数を割り保革伯仲時代の幕開けとなった。工事を進めていた伊方原発はようやく五二年九月営業運転を開始した。
同五二年一二月県議会では突如として自民党太田国康県議の白石県政糾弾質問が行われた。大手建設業者と県土木行政にゆ着の暗部ありとし、県営溝辺住宅団地用地買収にからみ、賄賂一、二〇〇万円の一部を知事が収受していた旨の爆弾発言であり、同県議は直ちに懲罰(四日間の出席停止)に付され、また、自民党県連から除名処分を受けた。この事件は五三年六月県警・松山地検により「知事に金銭授受事実なし」との潔白声明でけりとなったが、太田県議には前職小田町長時代にかかる小田町財政赤字問題も併行し、同年六月には県議会で辞職勧告決議が行われた。同年末太田県議は知事選出馬のため議席を辞し、五四年一月県政浄化を標ぼうして白石候補と対決したが県民の支援は得られず、得票はわずか一一万余票にとどまり、たった一人の身内の反乱はこうして終止符を打った。
昭和五四年四月に行われた県議選で自民党の勢力は保守系無所属二人を加えて四〇人の大台に乗ったが、社会党は次の五八年県議選で本拠地新居浜において議席を民社党に奪われ全県でわずか三議席に減少し、産業構造変化に伴う地すべり現象が現実となって現れた。その外県議会での特異な動きとしては五二年一二月の暴力追放県民会議の結成、五九年一〇月の日刊新愛媛に対する異例の自戒勧告決議などをあげることができる。白石知事が骨太な一本筋を通した政治問題二例をあげると、一つは、靖国神社及び県護国神社春秋例大祭への年間三万七、〇〇〇円の「玉ぐし料公費支出問題」であり、国家護持反対グループから五七年監査請求、違憲訴訟にまで及んだ。しかし、県遺族会長でもあり節を曲げない知事は「戦没者奉仕はあくまで公的なもの、また宗教儀礼とは考えない」と県議会などでも強調、全国ただ一つの県として、知事在任中の公費支出を続けた。
もう一つは、五九年松山市への新設高校設置に関連の曲解と見られる報道について、県自らが日刊新愛媛に対し取材拒否通告に出たことで、地方公共団体のこのようなマスコミとの対決は全国的にもまれであり、白石知事の政争の嵐を戦い抜いて来た強さ、厳しさの一面をも物語ろう。
五八年知事選では反白石を唱える菅原辰二候補と相対したが、菅原の二一万票対白石の三八万票で寄り切り勝ちとなった。
白石知事勇退
県知事白石春樹は、戦後早々の昭和二二年(一九四七)県議当選以来、縦横の活躍で「県人による県政
の確立」「教育の正常化」「保守一枚岩の確立」「経済と生活の調和」など時代の節目節目に立って水際立った手綱さばきにより県政界をリードした。その力量は県政界第一人者と呼ぶにふさわしい。
知事在職中は「激動と転換の時代」に当たり、困難な時代に対処して読みの深さと絶妙なかじ取りで、かつ革新発想の長所も果断に取り入れ、県政に成熟と発展の偉大な時代を築いた。白石知事は知事の職を
去るに当たり、レンゲ草の県政の引継ぎを次の伊賀知事に託し、「これは民主主義の原理であり、地方公共団体の首長が絶対に心しなければならないことである。みんなと一緒に喜び、笑い、苦労し、泣く、そして自分の行ったことは土地を肥やす肥料になる。そのような政治がレンゲ草の県政だ」と述べている。保守王国愛媛をわが芸術作品と呼ぶ白石知事は、権力の座の安住を自戒し「権府十年花影深きを畏る」を教訓とした。そして昭和六一年次期知事選に不出馬を決意した白石知事の「急流勇退」の語は、引き際の鮮かさを示すとともに、多彩であった白石県政の流れに浮ぶ「花筏」の形姿にも似た県民への訣別の言葉であり、同時に戦後史の一節の終章の符を奏でる調べでもあったろうか。