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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 石油危機と緊急物価対策

 石油ショックと狂乱物価

 昭和四八年一〇月、中東産油六か国の石油戦略を引き金とする石油ショックは、中東依存度の高い日本を震憾させた。一一月、田中内閣は緊急石油対策推進本部を設け、県もこれを受け、四国四県のトップを切り石油等特定物資対策本部(長・副知事松友孟)を設置した。対策として、①消費節約運動の促進(マイカーや暖房などの自粛)、②生活安定対策の推進、③産業用エネルギーの適正必要量の確保などと取り組むことになり、特に灯油、重油、LPガス、洗剤などの適正必要量の確保、流通円滑化、買占め、売惜しみ、便乗値上げの防止に眼を光らせた。また、県は丸善、太陽両石油及び製紙業界など県内製造業者への協力を求めると同時に、「ケチケチ県民運動」を率先実施し、各団体の加わった県消費節約運動協議会を設けてエネルギー、事務機材などの節約を呼びかけた。
 しかし大勢としては、石油に浮かんだような日本経済のもろさがたちまち露呈され、早くも一一月から県下ガソリンスタンドは、日・祭日休業、平日も午後六時までの営業となり、デパートなど大型店は開店を三〇分繰り下げ、住友金属鉱山四阪島製錬所は電力不足を理由に伝統の炉の火を消すに至った。一二月には民間テレビ放送、ついでNHKテレビ放送は深夜の放映を自粛して一一時までとなり、道後温泉も四九年新年早々、朝晩二時間の営業短縮を実施した。一月半ば石油・電力は第二次規制(一五%カット)に踏み切り、松山など県下の夜の街を彩ったネオン・広告塔も消えた。国は四八年末に石油緊急二法を公布、石油危機は緊急事態の様相を呈した。
 もの不足が群衆心理をあおり、実態以上の騒ぎとなったトイレットペーパーや、ちり紙騒動が関西地方で起こった。原油価格の四倍もの突然の高騰は、もろに物価にはね返り、時流の赴くところ「狂乱物価」の大渦に県民は巻き込まれた。松山ではすでに一一月、灯油一八リットルが四〇〇円から五〇〇円にはね上がっており、四九年一月卸売物価は前年比三一%、松山の二月小売物価は前年比約二四%も上昇した。四九年に入ると電力四五%、ガス三六%、米三二%などの大幅上昇となり、県民生活には緊急警報が鳴り続けた。四九年一月、県では応急的に灯油・LPガスに標準価格監視員七〇人を置き、立ち入り調査も行った。

 生活安定対策

白石知事は狂乱物価対策について、四八年当時県議会で、「未曽有の緊急事態で国も県も行政不慣れの点が多い。また、大体物価・流通の統制監視にかかる行政は国が主管者で、県行政への委任は極めて小さく、県としては隔靴掻痒の感をまぬがれない。だが県としてやれることは全力でやる」と述べている。知事自ら節約の範を示して、四九年年頭の仕事始め式には、通勤に公用車をやめて市内電車を利用して臨
み、自動車・庁内電気・エレベーター・事務用品などの節約を厳命した。県では四九年三月、既設の本部を改組し、「県民生活安定対策本部」を設置して、今次の経済変動が弱者にしわ寄せされ、正直者が損失をこうむるおそれが強いことを戒め、県独自の安定対策を樹立した。同対策本部では、①生活関連物資の流通・価格の監視体制確立、②社会的弱者の生活安定緊急措置、③中小企業の倒産防止、農林漁業の緊急経営対策、④離転職者の職能訓練、雇用促進対策、⑤くらしを見直す運動などの総合対策を推進して県民生活の安定を図ることを主眼とし、四九年四月には流通対策重視の観点から県商工労働部に物価流通課を新設した。四八年末から四九年にかけて石油業者・商社・流通業者などの便乗値上げ、不当利得などが次々と暴露し、多数の業者が公正取引委員会や司直の追及するところとなり、一般的に企業モラルが地に落ちた感があり、行政の対応はとかく後手に回るのが実情であった。
 国政レベルでは四八年一一月、改造田中内閣で、「狂乱インフレの抑制」を使命と高唱する福田蔵相が就任、列島改造路線をたな上げにして総需要抑制政策へと転換し、低成長を目指して難局切り抜けを図ったが、インフレと不況の同居するスタグフレーションを招来し、物価の騰勢と雇用悪化は激しい労働攻勢にさらされた。四九年三月の一月間に県下企業倒産数は一六件、負債額約五二億円と四八年度の総額を上回る異常な倒産記録を出している。全国では四九年、五〇年に、二年連続の戦後最高倒産件数を示し、五〇年には一万二、〇〇〇件を超え、負債額は一兆九、〇〇〇億円にも上った。
 この危急の春を迎えて、四九年には労働四団体が珍しく政党抜き、デモ抜きで生活権擁護の「国民春闘」を展開し、県下でも二、〇〇〇~五、〇〇〇人の集会をくりかえし、五月メーデーには県下約三万五、〇〇〇人が参集した。四月には国鉄の九六時間スト、私鉄の四波にわたる四八時間ストの交通ゼネストが続けられた。四九年のGNPは前年比マイナス〇・六%で、戦後初の実質成長率マイナスを記録し、倒産やストライキの異常多発はスタグフレーションの重症を物語る。インフレは四九年後半には鎮静に向かうが、いったん上昇した物価はもはや下がることはなく、県職員給与も人事委員会勧告どおり三二%の大幅アップとなった。
 企業の在り方と生活安定の二つの座標が激しく揺れ動くこの時代に、愛媛県はこの二つを結び付ける新しい試みを県主導により全国で初めて実施した。昭和四九年二月の「コミュニティファンド=共同社会資金」制度がそれであり、このユニークな構想は県内企業から総額一〇億円余の善意の寄附を仰ぎ、これを生活安定や福祉施策に充当するもので、会長には県商工会議所連合会会頭末光千代太郎が就任した。その背景は公害、物価の先取り値上げ、物の不足などの中で利潤追及を批判された企業の社会的責任を明らかにし、企業のルールづくり、モラル確立のシステムづくりへの試みであったといえよう。
 昭和四九年二月県議会では、コミュニティファンドと財政基盤強化積立金を財源とする総額三億六、〇〇〇万円に上る緊急対策を打ち出した。県の生活援護救済措置は、まず「生活保護者などの緊急援護」として、一人世帯一、○○○円、二人以上世帯二、〇〇〇円の年二回支給、及び「低所得者緊急生活資金」として、独居老人、身障者、母子家庭など二、五〇〇世帯に六万円限度の無利子貸し付け制度であった。また一一八施設を対象に「民間社会福祉施設緊急資金」として六〇万円限度の運営資金を無利子で貸し付ける制度も設けた。インフレの大勢に抗して十全とはいえないが、県の当面の対策としては懸命の対応であったといえよう。
 次いで五〇年七月、県は「生活安定福祉基金制度」を創設したが、この制度は長期の生活安定緊急措置としてコミュニティファンドの活用もおり込んだ県単独の制度で、五〇年度約二億三、〇〇〇万円を予算計上、四年間で八億円を見込んだ無利子の貸し付けであった。生活困窮者個人の生活安定資金の部は生活・療養・災害の三種類で、一件三〇万円を限度とし、毎年五〇〇件余りで、総額五、〇〇〇~七、〇〇〇万円と大きな増減はなかった。他の民間福祉施設経営安定資金の部は一件一〇〇万円限度、毎年七〇~九〇件の貸し付けであるが、貸し付け額は累増して行った。すなわち、初年度は約六、三〇〇万円で、むしろ個人の部を下回ったが、五五年度には約三億三、〇〇〇万円に増加し、全国制度の世帯更生資金の本県枠とほぼ同額に達し、利用度の増大は自立心を基調としたこの制度が定着したものといえよう。