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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一 概説

 昭和四〇年代(一九六五)の後半に入って世界の政治・経済情勢は大きく変貌した。四六年秋の国連総会では中華人民共和国の加盟が認められ、翌四七年二月にはアメリカのニクソン大統領が訪中し、従来の「中国封じ込め政策」を改め、米中関係の改善に歴史的な一頁を開いた。
 我が国では、佐藤栄作内閣の下で同四七年五月沖縄の施政権返還が実現した。七月には田中角栄内閣が成立、田中首相はかねてから最重点施策の一つに「日中国交正常化」を掲げていたが、就任早々の九月、自ら訪中して周恩来首相との間に両国の友好関係を確立する内容の共同声明に調印し、多年の懸案であった日中国交正常化が実現した。
 国際経済ではアメリカ中心の経済構造が崩れ始めた。昭和四六年八月の金とドルとの交換停止、同四八年の為替レートの変動相場制への世界的移行はこうした変化の表れであり、中心を失った世界経済は、四八年の石油危機をきっかけとして、激動しつつ全般的不況の局面に落ち込んでいった。日本はすでに輸出大国の地位を確立していたが、その輸出のためには巨額な資源を輸入する世界的な資源消費国でもあり、混乱と不況の波に巻き込まれるのは必然であった。同四九年には、日本経済の成長率は第二次世界大戦後初めてマイナスに転じた。
 石油危機は直接には昭和四八年(一九七三)の中東戦争勃発により、イスラエルと対立するアラブ産油国側か原油価格の大幅な引き上げとイスラエル支持国への供給削減を決定したことが原因であった。我が国でも四八年一一月から「狂乱物価」と呼ばれるような大混乱が起こった。供給削減措置は四九年三月には全面解除されたが、原油価格は一年前の四倍に跳ね上がった。この石油危機は、日本にとっても、もはや石油資源を思いのままに利用するわけにはいかないという新しい時代の始まったことを告げ、日本経済は高度成長から安定成長への転換の時期を迎えた。そして経済大国としての目覚ましい発展は、明治以来日本近代化の目標であった欧米先進国への「追いつき・追い越せ」の課程を経て、五〇年半ばには欧米諸国と肩を並べるに至った。
 こうした流動化する情勢の中で、本県では昭和四六年(一九七一)一月、久松定武の後継者として知事選に出馬した白石春樹が、革新の湯山勇を破って初当選した。白石知事は、自らの政治理念を「レンゲ草の県政」と名付け、生産福祉県政から一歩進めて、人間尊重、生活優先の生活福祉県政を目指して新県政のスタートを切った。就任早々の四月には、親しみやすい県庁にという公約に従って県庁に県民談話室を開設した。同月知事の施策を推進するための県機構改革も行われ、生活福祉県政の推進力として総務部の内局に環境生活局を設けた。また瀬戸内海大橋架橋、開発の両部を廃止して企画部内局に特別開発事業本部を設置し、知事室を充実して知事公室とした。四八年二月には県政発足百年を記念して「愛媛県章」と、「愛媛の歌」が制定された。四九年には地域専門家の頭脳を結集して県行政の指針を見出そうとする「県シンクタンク」が発会し、県下経済界の協力で県民の生活安定と福祉に寄与する「県コミュニティファンド協会」も発足した。県庁では、全国官公庁のトップを切って「隔週週休二日制」が昭和四七年一月から実施された。
 生活福祉県政では、高齢化社会に対応して老人福祉を重視し、同四六年一〇月から七五歳以上の老人医療費を公費で負担するとともに、生きがい対策を図った。また四八年「お茶の間懇談会」の開設、零歳児の医療費公費負担、「文化の里」指定、四九年には、「三世代のつどい」開催など生活福祉県政のきめ細かい施策を次々に打ち出した。文化の振興については、四六年七月、七六人の委員からなる「愛媛文化懇談会」が発足して、郷土文化を県民生活に定着させる方策が協議された。四六年四月には将来の愛媛農業を背負う指導者養成のための農業大学校が開校した。また、昭和四八年の「石油ショック」対策として、「石油等特定物資対策本部」を設置し、翌四九年には、これを「生活安定対策本部」に改組して体制を強化した。
 久松県政から継承した県政三本柱のうち、医科大学は、昭和四八年九月愛媛大学医学部として開設が決定した。南予の水資源の開発には、同四六年四月県に特別開発事業本部を設置して推進体制を整え、翌四七年の僧都川大久保山ダムを皮切りに、四八年野村ダムが本格的な建設の段階に入った。南予レクリエーション都市建設事業は、四八年六月、第三セクター方式の南予レクリエーション都市開発株式会社が設立され、南レク建設の推進力となった。瀬戸内海大橋の建設は、昭和四八年秋から大三島橋が起工することになっていたが、石油ショックによる総需要抑制策で凍結され再開への苦闘が続いた。
 昭和五〇年一月の知事選挙で再選された白石知事は、「生きがい追求」の生活福祉県政を提唱した。生活に豊かさを充実させる第一の福祉県政、生活の中に安らぎと潤いを与える第二の生活福祉県政に続いて、これを第三の福祉県政と称した。
 昭和五〇年一二月、待望の瀬戸内海大橋大三島橋が着工され、五三年五月には東予新産業都市の中核地域西条ー東予市間を結ぶ動脈として東予有料道路が開通した。五二年八月には、白石知事を団長に「愛媛県日中友好の翼」一四三人が訪中して親善の輪を広め、以後五六年まで毎年県内の各界代表を派遣して中国との友好を深めた。県民への医療サービスのセンターとして松山市春日町に移転工事を進めていた県立中央病院は、昭和四九年一〇月に完成し、五四年八月に東洋医学研究所、続いて五六年四月には救命救急センターが同病院に設置された。
 昭和五四年一月、白石知事は三選され地域主義県政の指針を明らかにした。同年七月には地方生活経済圏計画のマスタープランも示された。五五年四月には、地域主義県政の推進体制を整備するため、県事務所を廃止し、新たに地方局を設置して時流に即した広域行政推進を目指し、その権能と権限の拡充強化を図った。同年六月、県庁第一別館、五七年二月、県議会議事堂が落成、同年三月、愛媛県総合教育センター・中央青年の家が完成、また、五五年五月には愛媛県総合運動公園が完成するなど各種大型施設の整備が進んだ。昭和五四年五月、大三島橋が開通、同五六年三月には伯方・大島大橋の起工式が行われ、大橋架橋貫通の願いがさらに膨らんだ。
 白石知事は昭和五七年に「西瀬戸経済圏構想」を打ち上げ、同年一一月、大分県で開かれた西瀬戸サミットの推進役を果たすなど、幅広い活動を続け全国的にも注目を浴びた。同五八年一月の知事選挙で四期目の当選を果たし、「調和のある地域づくり」「個性ある地方生活経済圏づくり」「技術立県体制の整備」「婦人の地位向上と社会参加の促進」「西瀬戸経済圏構想の推進」の五つを主要政策目標に掲げた。昭和六〇年三月、四国縦貫自動車道三島・川之江―土居間が開通した。同年四月には、南レク日本庭園「南楽園」が北宇和郡津島町に開園した。六一年には全国屈指の規模と機能を持つ芸術文化の殿堂「愛媛県民文化会館」が松山市道後に完成した。
 優れた先見性、卓越した政治力、果敢な実行力で、二一世紀へ向けて県政を導いた白石知事に五選への期待が高まったが、「権腐十年」を座右銘とする知事は、昭和六一年五月の病気入院を機に引退を決意し、同年九月県議会で正式にその旨表明した。戦後愛媛の一時代を築いた白石県政は四期一六年をもって幕を閉じた。