データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 行政機構

 高度成長と行政機構

戦後一〇年間、県行政機構は数回の改革を重ねてきたが、それは主として地方自治制度に係る法律の制定やその改正に伴うものが多かった。昭和三〇年ころからようやくこれらの制度も定着し、自治体の運営は専らこの制度の中で独自性を保ちながら行われた。行政機構についても、社会経済の進展に対応し、県独自でしばしば改革が行われることとなった。
 昭和三五年、池田内閣の国民所得倍増計画に沿った経済政策の一つとして、三七年新産業都市建設促進法が制定され、本県においても「東予新産業都市」の建設をめざし、県政重点施策としてとり上げた。
 これより先、国土総合開発法、四国地方開発促進法などの制定に伴い、本県における開発関係業務の比重は一段と高まり、東・中・南予の均衡ある開発整備を標ぼうする県政にあっては、これらを総合調整する機能を持った部局を必要とした。そこでこれを所管する企画部の設置にっき、法定外となるため自治大臣に協議を行ったが、事情を同じくする各県も部の増置を申請中であった。加えて、「新産業都市」競合県が、指定獲得にしのぎを削るさ中にあって、部の増置承認が、あたかも新産業都市の指定に先べんをつける印象を与えかねないと自治省は難色を示したが、久松知事は強力に働きかけ、ついに承認を得た。三八年二月県議会で部制条例改正案が可決され、四月一日から企画部を加え、七部一室四二課の機構となった。四〇年代に至り、瀬戸内海大橋の架橋推進のため、知事に直属する「瀬戸内海大橋架橋推進部」を四二年一二月に設置した。その後架橋が建設段階に進展したことに伴い、四五年には「瀬戸内海大橋架橋部」と改称した。また同時に、水資源開発事業と東予港の開発及び工業用地の整備を図るために、知事に直属する「開発部」も設置されたが、二部とも県独自の制度であった。一方、開発に関連し、ようやく問題化し始めた公害に対処するため、衛生部内に「公害対策室」を設ける外、事務管理のOA化に備え、「電子計算機導入準備室」を設けるなど行政の多様化に対応する措置が図られた。

 県事務所の設置

県の事務には、直接住民に対するものと市町村との関係において行われるものとがあり、その多くは出先機関が処理している。三〇年一〇月、地方事務所を廃止して、縦割の財務事務所など出先機関を設置したが、当時合併された新市町村は規模的に拡大され、その機能を個々に強化して行かねばならない段階にあったので、これに対応する措置として、県は個別の機構を設け強力に推進を図った。その後市町村自らの経営努力と相まってその実効を示したが、各種行政がそれぞれの所管で実施される結果、競合や矛盾も見られ、より総合・調整された形における高い行政効果が期待されるようになった。また、合併により対象市町村が減少し、交通通信手段の発展及び道路状況の改善などによる時間、距離の短縮などもあり、多数・分散している出先機関の総合・集中化が図られるべき時機となった。そこで三五年四月一日、出先機関の統合が行われ、西条、今治、松山、八幡浜、宇和島の各市に県事務所を設置し、権限強化と内部組織の確立を図った。同時に福祉事務所も五事務所に統合し、また、津島町のみを所管区域とする津島保健所を廃止し、宇和島保健所が包轄するなどの整備も行った。