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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一  概説

 昭和三五年(一九六〇)一月、岸信介内閣は新日米安全保障条約に調印した。この新条約は、極東におけるアメリカの軍事行動に日本が巻き込まれるとの反論も強まり、国民的な反対運動(安保闘争)が激化した。新安保条約の国会における批准は、衆議院で自由民主党のみによる強行単独採決が行われただけで、自然成立するという異例の事能となり、岸内閣はその直後に総辞職し、同年七月池田勇人内閣が誕生した。
 池田内閣は、「国民所得倍増計画」を発表して高度経済成長政策を推進、同時に貿易の自由化を促進した。
 この所得倍増路線は広く国民の心をとらえ、計画を上回る高度経済成長を実現した。すなわち、計画では経済成長率を七・二%と見て、一〇年後の四五年に国民所得倍増達成を目標としたが、三〇年代後半から四〇年代半ぼまで一〇%を超える二けた成長を持続し、四三年にはアメリカに次ぎGNPが「自由世界」第二位までのし上がった。一九六〇年代の政治論議は主に経済成長率をめぐるもので、戦後史の彩りはこの路線を転機に、「政治から経済へ」と大きく歩みを転じた。
 日本経済は、昭和二五年から四五年にわたる二〇年間に鉱工業生産は一六・七倍に伸び、重化学工業部門が飛躍的に発展した。この結果、日本は世界で屈指の重化学工業国に成長した。エネルギーは石炭から石油に代わり、各地に在来の重機械系企業に加えて石油化学コンビナートが次々と出現、いわゆる太平洋ベルト地帯が形成された。同三一年造船量は世界第一位となっていたが、自動車産業も四二年にはアメリカに次いで世界第二位の生産量に達し、年間百万台を輸出するまでに成長を遂げた。こうして戦前の繊維製品などに代わって、船舶・鉄鋼・自動車が日本の輸出を代表する三大品目となった。しかしその反面、農業などの分野は衰退し、農業人口は激減した。特に貿易の自由化が進むにつれ、穀物自給率も低下し、四七年には四二%となった。
 こうした産業構造の高度化、地域開発の進展に伴い、国民経済や生活環境も急速に大きく変化した。工業の進展に伴う労働力不足を背景に、農村では過疎化が進む反面、都市では人口集中に伴う過密現象が起こり生活条件の悪化を来した。一方、大企業では豊富な資金力にものをいわせ、近代的技術を導入して生産性を高めたが、中小企業では経営・技術両面から合理化に取り残され、生産性の向上を実現することが出来なかった。この結果、農工間の所得格差や大企業と中小企業との格差を引き起こす二重構造の問題も現れた。さらに工業生産の過程で排出される、膨大な産業廃棄物による大気・土壌・河川・海洋の汚染、都市化や文明の進歩のもたらす生活公害など種々の公害が発生し、大きな社会問題となった。しかもこれらの問題に対する政府の対策は立ちおくれ、地域住民の公害反対・開発反対運動が各地で起こった。この間、昭和三九年一一月に成立した佐藤栄作内閣は対米協調と安定成長・社会開発を基本政策として長期政権を続けた。
 昭和三四年一月に行われた県知事選挙で久松知事は、「生産福祉県政」を提唱し、その主要な課題として、道路・港湾・工業用水などの産業基盤並びに生活環境・文教・厚生福祉施設などの生活基盤の整備に力を注いだ。
 県行政機構では、三五年県事務所新設のほか、三六年四月に観光課が商工観光課から独立し、翌三七年四月に企画広報課が分離して企画室と総務広報課が設けられるなど、課の分離拡充が行われた。
 三七年八月には、初の「県民白書」を公表し、県民生活の実態を具体的に示した。
 昭和三七年一二月、県は「愛媛県長期経済計画」を策定し、これに基づいて高度経済成長期の施策推進が行われた。三七年からは「農業構造改善事業」も実施され、土地改良や近代化施設の導入などによる事業が進められた。三八年には、みかんの生産量が静岡県を追い越して全国一位となり、品質においても八幡浜市真穴地区が天皇杯を獲得した。
 県政界では、昭和三四年一〇月の日本社会党分裂に呼応して、一一月同党県連の代議士中村時雄と羽藤栄市らが社会党を離れ、村上敏郎・岡本嵩ら四県議がこれに同調し、翌三五年四月、民主社会党県連が発足した。この時期、自民党県連内にも主導権争いが激化し、自民党県議団は三派に分裂、一部は野党化の道を進んだ。
 こうした政治状勢下で昭和三八年一月、戦後五回目の県知事選挙が行われ、自民党公認の久松定武が、自民同志会と社会党・民社党・愛媛地評・愛媛全労連の連携による「県政刷新県民の会」支援の平田陽一郎に辛勝して四選を果たした。
 当選後久松知事は、選挙公約である東予新産業都市の指定獲得と中央都市圏の建設並びに南予その他低開発地域に対する振興施策の実現を図るため、四月新しく県に「企画部」を設け(四国四県で最初)、その下に企画調整、開発、統計調査の三課を配し、開発行政の推進体制を整えた。また、激しい陳情合戦を続けていた東予新産業都市の指定は三九年一月に正式決定した。同年六月七日、関西汽船「くれない丸」船上で、河野一郎建設大臣を囲んでの瀬戸内総合開発懇談会が開かれた。この船上会談には久松知事ら関係府県の知事が出席し、本・四架橋など瀬戸内海の開発を目指す構想について話し合いが行われ、瀬戸内海時代の幕開けとなった。
 高等学校は、昭和三八年から四一年にかけて生徒急増期を迎え、幕集定員の大幅増員措置がとられ学級増を行った。県立愛媛養護学校も四〇年四月に開校した。四〇年には小中学校の学力調査成績が全国一位となったが、県教組がこの調査に不正があったと指摘したことから「学力調査問題」として注目をあび、県議会などで紛糾した。
 文化施設面では、三六年一〇月県立博物館が開設され、四一年四月には県立理科教育センターと教育研究所を統合して愛媛県教育センターが設立された。
 昭和四一年(一九六六)四月一七日、天皇・皇后両陛下をお迎えして第一七回全国植樹祭が温泉郡久谷村(現松山市)で開催された。
 昭和四二年一月の県知事選挙では、「中央直結の県政」を唱九五選をめざす久松定武に対し、社会党・共産党は共闘して湯山勇を立て、「県民の県政」を強調して戦ったが、大差で久松の当選となった。五選された久松知事は、生産福祉県政実現のため、「人間開発」「経済開発」「社会開発」の三つを基本方針に掲げた。
 四五年一〇月には道前道後水利総合開発事業の完工式が挙行され、石鎚スカイラインが同年九月に運行を開始した。三崎―佐賀関フェリーボートも四四年四月に運行を開始し、四五年七月には南予観光開発の拠点である南宇和郡西海町鹿島一帯の海が厚生大臣から海中公園の指定を受け、開発は順次軌道に乗りはじめた。一方、文化行政面では県立美術館が同年九月一日、松山市堀の内に開館した。
 本・四架橋は、支流的な四国経済を経済成長の本流へ太いパイプをつなぐ悲願が込められ、今治―尾道、明石―鳴門、児島―坂出と三つのコースの激しい先陣争いとなり、本県は四二年一二月、県庁内に瀬戸内海大橋架橋推進部を設置してこれと取り組んだ。
 久松県政五期の実績と高度経済成長によって県民の生活水準は向上したが、反面、生活環境の悪化も拡大し住民の健康をむしばむ公害が大きな社会問題となってきたので、県は昭和四五年四月、衛生部に公害対策室(のち公害第一・第二課)を新設してこれに対処した。
 昭和四六年一月、久松知事は勇退、五期二〇年に及ぶ数々の事績を残して県庁を去った。