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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 新しい行政

 県の花・県の旗制定

「県の花」・「県の旗」は昭和二七年五月五日制定、いずれも広く県民から募集の上、決定された。「県の花」については、応募三四六点、このうち「みかんの花」が九一点を占めていた。みかんは本県を代表する果樹であると同時に、古くから「たちばな」(橘)とも呼ばれ、「右近の橘、左近の桜」は人のよく知るところである。このうち橘は文を現すものとして、その花は文化勲章にも用いられている。
 次に「県の旗」は、このみかんの花に緑(葉を示す)と黄(実を示す)を配色しているが、白い花は純正潔白を、緑は希望と平和を、そして黄もまた平和を現すものとされている。

 県教育文化賞の制定

昭和二七年一〇月、愛媛県教育委員会は、愛媛県教育文化賞規則を制定した。教育、科学、芸術等の分野で顕著な功績のあった個人または団体を顕彰して、本県文化の向上発展に資することを目的としたものである。二七年度から六一年度までの受賞者は、九一人(団体を含む)を数えた。第一回には、柳原極堂(本名正之・俳句)、景浦直孝(郷土史)、能島通貴(社会教育)、菅原利(金へんに栄)(染色紡績)、八木繁一(博物研究)の五人が受賞している。

 県立道後動物園開設

昭和二六年ころから児童のための動物園設置の機運が小学校・教員団体・自治会などで高まり、二八年一〇月全国唯一の「県立県営」道後動物園(松山市道後公園内)の設立にこぎつけた。面積二・七ヘクタール、当初はライオン・虎・豹などが花形でこれらは伊予鉄・井関農機・県教組からそれぞれ寄贈されたものであったが、家畜・家禽を主に七一種で発足した。「小遣を節約してアイドルの象を買おう」との子供の熱意は児童・教師の一円募金運動に発展、約四〇万円の募金で県当局を動かし、二九年七月インド産の初代象「愛子」を迎え入れた。「愛子」の死後雌の「花子」の受け入れも学童募金が実ったもので、アイドルへの子供の思いが動物園の支えともなっている。開園三〇余年、一五〇種一、二〇〇点を擁する園となり、天然記念物の県獣とされているニッポンカワウソや野間馬の珍奇な飼育、南米移住の県人中矢秀一らの寄贈した大蛇アナコンダ、大トカゲなどでにぎおった。ライオン・ラクダなどの人工哺育や繁殖など全国有数の飼育技術の高さを誇り、象の園内生育三代目という未踏の境地へも挑戦中である。四三年には「えひめ子供の家」、四八年には遊戯施設も備えるコドモの国及びプールの設置など児童福祉施設の充実を図り、年間入園者は五五万人を超えた。長く県民に親しまれた道後動物園は六二年一〇月閉園、六三年四月伊予郡砥部町へ「県立とべ動物園」として新しく開園された。

 県民館開設

 第八回国体の最大のモニュメントは、松山市堀之内公園に今なお威容を誇る愛媛県民館(当時仮称県営松山体育館)である。総工費五、四〇〇万円、世界的な建築家丹下健三(今治市出身)研究室設計になるシェル構造・すなわち場内に一本の柱もなく貝殼を伏せたような円形屋根には、直径六〇センチ以上の天窓が一三五個あり、自然光利用と温湿度調節を考えられている。外界と接縁する一枚張り超大型ガラス戸や円壔型総ガラス張りの付属建物は、採光と豪放なモダンさで当時の公共建築としては常識破りの異彩を放った。建坪約二、八〇〇平方メートル、固定席一、三〇〇、移動席一、七〇〇で立席を含め四、〇〇〇人もの収容可能な大ホールは、施設不足の当時広く各界、各方面に利用された。約八九〇平方メートルのフロアー(板張り)は体育用としてバスケットゲーム及び体操器具一式を備え、第八回国体ではここを舞台に体操競技の華が咲いた。国体終了後、当時数少ない施設の多目的利用の方向として二九年ステージの設置、三二年NHKの指導による天井防音装置、四七年冷暖房空気調整設備など会場の文化集会機能が強化された。当初は体育利用と半々であったが、三〇年ころから逐次集会、文化行事への利用に傾斜し、五〇年代以降は見本市・展示会などの利用が過半を占め、四〇万人前後の年間入場者のうち、スポーツは一~三万人程度にとどまった。近来では農林水産の物産見本市、商店街のチャリティなど市況振興がらみが増え、六一年四月オープンした県民文化会館の利用とは自ら機能分化していく趨勢にある。

 県郷土芸術館開館

松山市一番町城山南麓の県郷土芸術館(旧久松邸・現県立美術館分館)は戦後数奇な運命に転々とした。本来この建物は、留学・駐在でフランス文化に親しんだ旧松山藩主久松家の当主久松定謨(久松定武の父)が大正一一年(一九二二)に完成した純フランス風の地上三階・地下一階・鉄筋八八六平方メートル、附属倉庫三階・二一三平方メートルの居邸で、一、二六九平方メートルの宏壮な敷地の緑に映えるシャトー風の館は「万翠荘」の名にふさわしく、四国の西洋館では最高といわれる。当時摂政宮(現天皇)行啓の御宿所として完成を急ぎ、のち県内各界名士の社交場となった。木子七郎の設計になるこの建物は、外型はタイル張り、コリント風の万成石の石柱、彫刻のあるチーク材の階段、家具調度は繊細華麗なルイ王朝風の仕上げで、特に帆船とかもめのステンドグラスは著名である。戦後財産税旋風で国有となり、一時進駐軍将校宿舎として使用後、松山家庭裁判所として使用されていた。二八年県と法務省との間で松山市出渕町(現南堀端町)の旧知事公舎敷地と交換契約が成立、補修して県の迎賓館にしつらえ、同年一〇月第八回国体の際に両陛下の御宿所に使用された。二九年八月郷土芸術館として新たにスタートし、美術工芸品の展示などで芸術文化の向上を図るとともに、レストランと併用して迎賓館的な機能も発揮した。昭和五四年県立美術館分館として県教育委員会へ移管、主に郷土出身芸術家を顕彰する企画展示を行っている。五七年同館畏に愚陀佛庵の全容が復元されて子規・漱石の昔をしのび、茶事などに活用されている。

 県自治研修所開設

県職員の教養と人格の向上をはかるための研修機関として、昭和三〇年一二月、愛媛県自治研修所が県庁内に設置された。三一年一月県警察学校内に移転し、各所を経て三二年松山市道後樋又に独立した愛媛県自治研修所が新築された。
 研修所は、敷地六七三坪、建坪延約二〇〇坪で、県庁職員の研修施設としては、やや狭少の感があった。三二年度の研修実施状況を見ると、研修回数一二回、研修人員四三一人で、そのうち、女子職員の教養研修は、二回で七四人を外部施設で行っている。その後三五年からは、市町村職員研修の委託も受げることとなった。昭和五〇年代、時代の要請として自治体職員の資質の向上が強く求められ、さらには、白石知事の新しい重要施策の一環として県の研修体制について抜本的な再検討が行われた。
 昭和五三年四月一日、従来の愛媛県自治研修所を愛媛県研修所と改称し、松山市東野の県立果樹試験場跡地に敷地約三万平方メートルを求め、鉄筋二・三階建約七、五〇〇平方メートル、総工費約一〇億六、三〇〇万円、全国でも屈指の施設規模を有する研修施設の設立が決まり、五三年五月着工、一二月完成した。
 同研修所は、農協職員の研修機関である農協学園と併設されたところに大きな特色があり、それぞれ独立した研修機関ではあるが機に応じ、交流を深め、お互いの人間形成に役立てることを目的としたものである。また、研修五訓に定めた自主・奉仕・協力・創造・実践の五つのモットーを体得することを研修の基本精神としている。
 研修体制の主な改善内容としては、①全寮制の採用、②特別訓練学級を設ける、③実践科目を充実し、工場・農家・福祉施設などの現場実習、座禅、奉仕活動などによる奉仕精神と実践能力を培う、④中間管理者、幹部職員などに現任教育を実施、⑤自主研修制度を採用、⑥職場研修と研修所研修とのシステム化をはかる、⑦新規採用候補者に対する事前指導などがあげられる。これらの新しい研修体制については、全国的にも注目されている。

 一日県庁

県民の声を県政に反映させるため、広報と広聴を兼ねた第一回の移動県政懇談会「一日県庁」が昭和三一年一月一七日西宇和郡三瓶町で開かれた。これは知事以下県の各部課長などが出張して町村関係者や各種団体その他現地住民と懇談するもので、一日県庁はその後周桑郡三芳町(現東予市)、東宇和郡城川町、越智郡関前村、上浮穴郡小田町などでも開催されたが、四一年度からは「一日農林水産部」、「一日土木部」などのように各部ごとに開催される形式に改められた。

 県民賞の制定

昭和三二年、県は県風振興に資する目的をもって愛媛県民賞条例を制定した。
 県民賞は産業、経済、政治、学芸その他社会文化の進展に卓絶した功績があり、広く県民から誇りとして尊敬に価する人物に対して贈られるもので、県の制定した最高の栄誉賞である。第一回は三二年俳人の柳原極堂(本名正之)に、第二回は同じ年政治家の砂田重政に、第三回は三八年国鉄総裁であった十河信二に授与されている。
 病床において伝達をうけた柳原極堂は感激して「秋風のどこをくぐりて県民賞」の句を物している。