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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

6 産業基盤の整備

 多目的ダムの建設と県営電気事業の開始

 昭和初期ころから国の新しい河川行政の方向として、多目的貯水の建設が唱えられ、昭和一四年(一九三九)ころには、洪水調節に利水を加えた多目的計画として県営による河水統制事業が行われはじめた。本県においても、加茂川・国領川で治水の一環として電源確保を併せて河水統制事業が検討され、昭和一六年(一九四一)には国庫補助により加茂川河水統制事業が着工されたが、材料不足や戦局の影響を受け中止となった。戦後は災害復旧に追われ、治水の緊急性は認識されながらも、恒久的治水策は遅々として進まぬ状態であった。昭和二二年内務省中・四国土木出張所により中・四国地方総合復興計画が樹立された。本県では銅山川・宇和川・肱川・国領川・加茂川・石手川などで、改修計画の一環として洪水調節方式が目論まれ、併せて農業、発電などの利水を図るものとされた。

 〔柳瀬ダム〕 昭和二四年主要直轄水系の改定治水計画が策定され、吉野川水系治水計画の中で、県が調査を進めて来た銅山川柳瀬地点にダム建設が決定された。安政年間のかんがい計画から出発した分水計画は、治水を軸として発電を加え、さらに上水道用水・工業用水を併せた多目的事業として行われ、宇摩平野のかんがい用水並びに日量上水道三万㌧・工業用水二二万㌧の貴重な用水が確保された。
 柳瀬ダムは昭和二四年四月、愛媛県から委託を受けた建設省が工事に当たり、工費一四億円で二八年度に完成した。ダムは堤高五五・五㍍、有効貯水量二、九六〇万立方㍍でこれに関連して、発電所の建設は二五年四月に着工され、銅山川第一発電所は最大出力一〇、七〇〇キロワットで、二八年一〇月に、また、同第二発電所は最大出力二、六〇〇キロワットで、二九年三月にそれぞれ完成し、完成後の運営は県電気局の所管となった。二八年一〇月七日大野唯糊局長が、第一発電所のスチッチを入れて、いよいよ初の県営発電が開始され、以降本県産業経済の基盤としてのエネルギー源確保に貢献することとなった。
 〔鹿野川ダム〕 県では肱川水系についても、昭和二二年から肱川・宇和川の河水統制調査を進めていた。大洲平野では昭和一九年以来、治水事業として直轄河川改修工事が進められてきたが、改修をさらに一歩進めて上流へのダム築造による抜本的な洪水調節案が検討され、県調査による鹿野川ダムサイトが候補地となった。ダム計画は電力事情緩和の一端として発電を加え、肱川総合開発事業の多目的ダムとして、昭和二七年度中四国地方建設局が直轄調査に入り、三一年度着工、工費約三〇億円で三三年度に完成をみた。鹿野川ダムは堤高六一㍍、有効貯水量二、九八〇万立方㍍で、洪水調節を行うとともに、県営肱川発電所において最大出力一〇、四〇〇キロワットの発電を行っている。
 〔鹿森ダム〕 中四国総合復興計画の中で国領川については、洪水調節を行うとともに発電を行い、工業用水・上水道用水及び農業用水を確保し、新居浜一円の産業基盤整備を図るとされていた。昭和三〇年三月総合開発促進のため推進協議会が発足、県・地域をあげて努力の結果、三三年度より国領川総合開発事業が国庫補助事業として採択され、ダム建設を県営で三四年度着工、工費七億三、〇〇〇万円で三七年度に完成した。
 鹿森ダムは堤高五七・九㍍、有効貯水量一三一万立方㍍の多目的ダムで洪水調節を行うほか、住友共同電力㈱により別子ダムが新設され、東平発電所・山根発電所に導水、それぞれ最大出力二万キロワット、六、七〇〇キロワットの発電を行っている。また、この発電放水を新居浜市の工業地帯へ導水し、日量五万六、〇〇〇立方㍍の工業用水を供給している。鹿森ダムは発電・ダム技術を駆使した本県最初の県営施行であり、以降多彩な県営多目的ダム建設が展開される礎となった。

 道路・港湾の整備〔道路の整備〕
 
 山林面積が七二%に及ぶ愛媛県では、陸上交通は道路に依存するところが甚だ大きく、昭和二九年時の国・県道の実延長は三、三七七キロメートルにも及び、全国で一〇位程度と比較的高い普及順位となっている。しかしながら自動車交通不能区間は二三・五%、改良率は四・五%、舗装率は二・一%と、貧弱な状況にあった。特に戦後は打ち続く災害の復旧と、砂利道の補修に追われ、路面の悪さは極度に達し、道路整備の要請は強いものがあった。県はその対応の一策として二五年から逐次モーターグレダーによる補修、クラッシャー、コンベアーを利用しての路面維持の効率化を図り、三一年からは道路愛護運動を提唱、三〇〇に及ぶ愛護団体の協力もあり、路面維持は次第にその成果をあげていった。
 昭和二五年ころの主要な道路改良事業は、四国西南地域開発の一環としての松山高知線(現国道五六号)、軍用道路として着工しながら中止されていた予土横断道などであったが、二九年第一次道路整備五か年計画が策定されて、計画的に道路の改良、舗装が進められることとなった。一方橋梁の災害復旧は、二五年ころには一応原形復旧したが、昭和二三年、道路の修繕に関する法律の施行により、国庫補助事業として永久橋架け替えが行われ、県下でも三三年までに最近型式の橋梁として重信橋、新兵衛橋など七橋が架設された。中小橋梁については、県単独事業として二五年度から改良に着手、道路整備は災害復旧態勢から脱皮し、改良方向へと移行した。

 〔港湾の整備〕 昭和二三年、GHQの指令により港湾復興五か年計画(昭和二三~二七年)が立てられ、海上輸送抑制策と戦災復興を中心にした政策がとられていたが、二五年以降は経済基盤安定のため原材料並びに製品輸送の円滑化と民生安定の根幹となる食糧など生活必需品輸送に対処した港湾整備へと移行していった。
 戦時中、中断されていた港湾整備は、戦後各般の復興活動の中でも社会経済活動の拠点としての重要性から施行された。県下では二一年度より松山港の内港及び外港整備に着工(運輸省委託)、寒川港修築、郡中港の県直営施行の再開、二五年には今治港・宇和島港の浮棧橋の設置をみるなど、逐次修復、修築事業が進んだ。昭和二五年、港湾法が公布され、管理主体の確立と国・地方の分担が明確にされ、効率的、経済的港湾の開発利用が図られることとなった。二六年、松山港・今治港・新居浜港が重要港湾として指定され、松山港は運輸省直轄事業として本格的な外港整備を進めるほか、臨海工業地帯形成のため、吉田浜地区に着工(市施行)、三三年には高浜観光港整備の一環として、接岸施設に着工した。今治港は二七年に市管理となり、新居浜港では接岸施設、しょんせつ工事に着手、翌二八年に市管理とし、新居浜港務局を設置している。地方港湾は、二八年港湾法による県管理港湾として宇和島・長浜・郡中港など一四港を、また八幡浜・堀江・岡村港など五港を市町村管理港湾とし、三四年にはそれぞれ三港、二〇港(島しょ部中心)を加えている。昭和二八年、港湾整備促進法が公布され、地方産業育成のため計画的な港湾整備が促進されることとなり、また新たに国庫補助事業に局部改良が加えられ、八幡浜・菊間港などが実施された。
 県では、港湾の現状と港湾整備の重要、緊急性から、三一年四月土木部の機構改革を行い、河港課を河川課と港湾課に分離、より一層充実した港湾行政の推進を図ることとなった。
 一方、南予地域の産業振興のため、四国西南地域開発の一環として、四国西南航路計画が実施されることとなり、三一年度より運輸省直轄事業として、細木運河(宇和島市)開削事業に着手した。昭和三三年には、特定港湾施設整備特別措置法が制定され、輸出貿易の伸張と、工業の拡大に対応し、重要港湾並びに地方港湾を緊急整備することとなった。県下では壬生川港が三四年整備促進港湾として指定を受け、これまでの整備計画に併せて、産業開発と輸送関連を中心とした港湾整備五か年計画(昭和三三~三七年度)を策定、整備の促進が図られた。