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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一 概説

 昭和二六年(一九五一)九月、サンフランシスコ平和条約が四八か国との間で調印され、我が国は主権を回復した。同日、日米安全保障条約も結ばれ、アメリカ軍が引き続き駐留することを認めた。
 吉田茂内閣は、日本の独立が実現すると経済復興に力を入れる一方で、国内の治安体制を強め、同二七年には破壊活動防止法を制定した。教育分野では、同二九年に教育二法を成立させ教育の政治的中立を重視し、ついで同三一年には、教育委員の公選制を任命制に改めた。朝鮮戦争をきっかけに、昭和二五年に創設された警察予備隊は二九年、自衛隊法が制定されて自衛隊となり、防衛庁が発足した。
 平和条約の締結は、国内政治勢力の再編成をもたらした。鳩山一郎・重光葵らのカムバックは政界に渦巻きを起こし、自由党内外で抗争が繰り返された。同二九年一二月吉田内閣が総辞職し、日本民主党の鳩山内閣が誕生した。同内閣は三一年には国防会議を発足させ、自衛のための戦力は違憲ではないとの見解を示したが、なお憲法調査会を設置して調査研究を進めようとする動きもあった。同年一〇月には日ソ共同宣言が調印され、一二月には日本の国際連合への加盟が承認された。
 革新勢力は再軍備反対、憲法擁護などの運動を展開し、同三〇年一〇月左右両派社会党の統一が行われた。これに対して、保守勢力も同年一一月保守合同を実現し、自由民主党が結成された。自由民主党では、短命に終わった石橋内閣の後を受けて、同三二年岸信介内閣が成立した。同内閣は自衛力の強化を主張し、日米安全保障条約改定の交渉を行った。
 昭和二五年(一九五〇)の朝鮮戦争は日本経済に輸出の増大をもたらし、特需景気を引き起こして大企業再建のきっかけとなった。昭和三〇年ころから、日本経済は高度経済成長期に入った。同三〇年には、国際収支は特需景気を除いて、初めて均衡し、戦後最良の年といわれるほどに経済の規模が拡大した。輸出は前年に比べて三〇%増、特に石油化学分野を中心に八〇%も増加し、工業生産は二四%伸長して、「投資が投資を呼ぶ」といった有史以来の好景気を迎え、「神武景気」と呼ばれた。
 この時期、愛媛県では昭和二六年四月の知事選挙において久松定武が初当選した。久松知事は、就任直後「四S運動」を提唱し、公務員倫理の確立を通じて県風の振興を図った。同二六年九月には、道前道後平野水利開発事業の着手、肱川ダムの着工など水資源の開発を推進する一方、二七年七月、県行政の総合調整ならびに総合開発計画を推進するため、知事に直属する企画室を設けた。また、二六年後半からは、国の方針に従って町村合併の推進にも積極的に取り掛かった。
 県立高等学校は、総合制・学区制・男女共学の基本方針で再編成されたが、普通課程と職業課程併設校の分離独立の要望が高まり、愛媛県教育委員会では同二七年一月の松山商業高等学校をはじめ、七実業高等学校の分離独立を認めた。
 昭和二八年一〇月には、第八回国民体育大会の開会式が天皇・皇后両陛下御臨席の下に、新設の県営陸上競技場で行われた。また、次代を担う少年の健全な育成を願って、松山市に全国異色の県立道後動物園が開設された。
 昭和三〇年一月、第三回県知事選挙で久松知事は、前副知事羽藤栄市と争ったが、選挙の結果は久松知事が再選された。久松知事は道前道後水利開発、四国西南開発などに意欲を示し、三〇年の副知事制度復活をはじめとして、三一年四月に部に相当する知事公室を新設するなど機構改革を実施し、同年一〇月には、県電気局に病院事業を加えて県公営事業局が発足した。
 第二次久松県政最大の懸案は、赤字財政の解消であった。県財政は二九年度末で五億七、〇〇〇万円の実質赤字を出していた。その原因は、根本的には政府の地方財政政策や人件費の累増が主なものであったが、その他に特別の事情としては、同二八年秋の国民体育大会の開催や災害復旧事業などがあげられる。
 県は財政再建の実施に当たり人件費を抑制するため、昭和三一年八月「昇給昇格に伴う給与月額の特例に関する条例」を定め、県職員・教員の給料月額を削減するとともに、勤務成績による能率昇給制を採用した。同年末に県職員の勤務評定が実施された。教員の勤務評定は愛媛県教職員組合が激しい反対闘争を展開し、日本教職員組合は組織を挙げて県教組を支援し一大政治問題となった。最終的には県議会議長白石春樹を中心とする県議会三派の斡旋で、二か月にわたる紛争が調停された。