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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 市町村

 戦時中の合併と町村の復元

 昭和二三年(一九四八)から二五年ころ、戦時中合併した市町村の一部に特異な動きがみられた。住民投票による区域復元の問題である。
 事の起こりは、二三年七月に公布された地方自治法の一部改正法律(法律第一七九号)にあった。同法附則第二条の規定を要約すると次のようになる。

 「戦時中(昭和一二・七・七~同二〇・九・二)行われた市町村の廃置分合や境界変更については、その区域の住民から選挙人名簿に登載されているもの三分の一以上の署名を集め、市町村選挙管理委員会に分離の請求をする。選挙管理委員会はこれを投票に付し、有効投票の過半数の同意があれば、知事は都道府県の議会の議決を経て処分を行う。」

 つまり戦時中の市町村合併や境界変更のなかには、国策上の見地から半ば強制的に推進されたものも含まれており、すでに終戦によって事情も変化したことであるし、戦時色の一掃、民主化促進の立場から、この際見直しの機会を与えてはどうかというのが改正の趣旨であった。
 戦時中、合併や境界変更を行った市町村の数は全国に一、〇〇〇あまり、本県においても三七の多くを数えていた。
 法律が施行されると、最初に請求を提出してきたのは松山市道後湯之町である。住民投票は二四年一月二二日に行われ、有効投票中五六・三%の賛成を得ていた。続いて西条市氷見と宇摩郡三島町松柏にも同じ問題の発生をみているが、氷見は投票で敗れたため、道後湯之町と松柏の二件が県議会に上程されることとなった。
 通常、市町村の合併や境界変更は、地方自治法第七条の規定に従い市町村議会で議決したのち、県に持ち込まれるわけであるが、「附則二条」の場合はこれと異なり、住民投票で成功すれば市町村議会の議決を省略して直接県に持ち込むことができる。従って市町村議会と分離派とは対立し、是非の判断は県議会が着けなければならないこととなる。
 愛媛県議会では、道後、松柏の二件が提出されると早速特別委員会を設けて調査に着手する一方、円満解決の方法はないものかと模索を重ねたが解決のメドが立たず、結局四月九日道後、一〇月一日松柏といずれも本会議で否決、附則二条による分離は不成功に終わった。「附則二条による分離」が七条分離の特例であり、特例としてみる場合、二者とも請求理由に乏しく、また大局的見地からこの分離は適当でないと判断されたためである。
 附則二条による分離は多くの県で否決された。昭和二四年一〇月一日現在調べによると、全国における発生件数は三五、そのうち投票で賛成多数を得たもの二八、さらにこの二八のうち県議会で可決されたもの八、否決されたもの一二となっている。
 これより少し前、附則二条の運用状況を注視していた総理府官房自治課長は各都道府県知事あて文書を出しているが、その中には「県議会は住民投票の結果を重視するよう」と記されており、「またこのことは第八軍司令部においても同意見である」と書き添えられていた。これに力を得たものか、否決した多くの県では分離派が県議会を相手に「議決取消しの訴訟」を起こしている。しかし、こうした訴訟の提起が問題解決の決め手とならないことは、その後、三〇年四月に出されたの最高裁判所判例をみるまでもなく明らかなところであった。
 ところで、道後と松柏の分離問題は県議会で否決された後どのような経過をたどったか。まず道後であるが、道後については、引き続き行われた県議会議長などのあっせんが成功して市との間に妥協が成立、分離は中止となった。しかし、松柏の方はあくまでも分離の方針を変えず、二五年五月附則二条の法律改正を待ち、手続きを更新して推進、同年一〇月一〇日にいったん宇摩郡松柏村(人口五、五〇〇人余)の誕生をみたが、その後町村合併促進法の公布に伴う宇摩郡町村の大同合併にあたり、三島町等と再び合併して伊予三島市を形成し、今日に至っている。次に三番目の分離請求が喜多郡肱川村河辺から提出されたのは二五年四月のことであった。すでに前年九月にはシャウプ勧告が出され、時代の流れは分離よりも合併の方向へと大きく変わりつつあった。人口五、〇〇〇人に足りない河辺は、たとえここで分離したとしても「要合併町村」となることは必至であり、県はそのことを説いて極力翻意を促したが、ついに容れるところとならなかった。
 請求は二件提出された。仮に第一(昭和一八・四・二九合併した旧「河辺村」の区域)、第二(昭和一八・四・一二河辺村に編入された区域)の分離と呼んでおこう。第二分離の狙いは、その実現というよりはむしろ第一分離の阻止にあるように見受けられた。県議会においてはこれも道後、松柏と同様、慎重審議を重ねるとともに円満解決への努力を続けたが、最終的には自由党県支部一任の形で村内妥協が成立、第一、第二の分離ともに否決、「地方自治法第七条による申請」によって二六年一月一日喜多郡河辺村(人口四、二〇〇人余)の誕生をみている。附則二条の規定は二五年七月三一日をもって失効した。

 戦災復興

 第二次世界大戦において県下の主要都市が空襲により被災した。なかでも松山市は昭和二〇年七月二六日の大空襲により、市人口の五三%、全戸数の五五%が罹災、死者・行方不明者二五九名を数えた。今治市では二〇年四月から八月の間、三回の爆撃により、市人口の六三%、全戸数の七六%が罹災し、死者三四〇人を出した。宇和島市は二〇年五月一〇日を最初に九回の空爆により、市人口の四六%、全戸数の五六%が被災し、死者二七〇人に及ぶ悲惨な事態となった。焦土と化した市域は松山市四・八平方キロメートル、今治市六平方キロメートル、宇和島市一・三平方キロメートル、計一二・一平方キロメートルに及んだ。いずれも藩制以来、城下町として栄え明治に入り積極的な近代化を進め、成長を続けて来た主要都市であったが、一挙に灰燼に帰したのである。
 国においては戦後直ちに戦災復興策を打ち出し、二〇年一一月には戦災復興院を設置、一二月に戦災の著しい全国一一五都市(のち八五都市)の戦災復興事業施行を閣議決定、二一年九月特別都市計画法を公布、一一五都市について焼失区域を中心に、五九四平方キロメートルを対象区域として戦災復興事業が進められた。
 県では松山・今治・宇和島の戦災三市について戦災復興事業を施行することとし、土木部に復興課を設置、復興事業推進体制を整えて、各市を事業主体として復興事業が進められることとなった。
 昭和二〇年一二月閣議決定による戦災復興基本方針に準拠して県では復興対策を樹立し、まず戦災地応急対策として瓦傑等の清掃事業、金属回収事業、上下水道応急復旧、応急住宅事業を各都市の実態に沿って行い、民生の応急安定策を講じた。一方、各都市の望ましい将来像と発展方向を検討し、土地利用、街路、公園緑地並びに上下水道等諸計画について都市計画を定め、また、戦災区域の復興土地区画整理事業計画を策定し、復興計画を取りまとめた。
 しかし、新都市の基盤として整備を図る土地区画整理は焦土と混乱の中からの復興であり、地積・諸権利・減歩・換地などをめぐり問題や紛争も多く、そのうえ民生不安・インフレなどの社会情勢も加わり、事業は計画どおり渉らなかった。二五年には再検討五か年計画、その後も事業改定など再三変更を繰り返したが、各都市とも復興新生の強い意欲と努力により事業は進捗し、復興土地区画整理事業は収束した。
 松山市では四六年土地区画整理区域三四八ヘクタール三億五、四五〇万円、今治市は四七年度二三八ヘクタール五億四、〇八〇万円、宇和島市では五一年度で一二〇ヘクタール六億五、〇〇〇万円、計七〇六ヘクタール(当初計画一、〇四〇ヘクタール)の事業が行われている。
 昭和二一年着工以来、二五年~三一年間に及ぶ大事業であったが、確保された街路、公園敷はそれぞれ都市計画事業などにより施設整備を進め、併せて公共下水道・上水道事業などの整備も行い、市勢の伸展に沿った都市計画の改定・拡大を図りながら意欲的な都市建設が行われた。