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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 県際関係

 吉野川分水問題

 銅山川は本流吉野川に注ぐ一級河川である。水資源に乏しい宇摩地方は古来度々干ばつに悩まされてきており、吉野川からの分水は長年の地域住民の悲願であった。
 銅山川分水問題は長い紆余曲折を経て昭和一一年一月三〇日、国の調停による徳島県と愛媛県の分水協定が成立した。昭和一二年一二月四日、馬瀬谷において隧道による分水の起工式を行い、同一三年八月、瀬戸内海側に導水する工事に着手したが、日中戦争により昭和一七年休止せざるを得なくなった。(戦前の銅山川分水問題については、第二章第二節三参照)
 同一八年一〇月一二日、戦時下の軍需生産拡充のための電源開発地区として銅山川が指定され、昭和二〇年二月一一日、発電を含めた第二次分水協定が成立し柳瀬ダム建設構想が立てられた。
 終戦後は荒廃した国土に河川災害が続発し、国は吉野川の治水の必要から未着工であった柳瀬ダムの建設を、洪水調節を含む銅山川総合開発事業としてとり上げ、二二年三月一一日、第三次分水協定が成立した。
 隧道工事はその後再開され、二四年七月一日に貫通し、二五年八月二二日、仮通水式を終えていたが、一日も早い水の利用を願う住民の意向をふまえて対県折衝が重ねられた。その結果、昭和二六年三月二二日、徳島県池田町において、本県側から青木知事、井原県議、徳島県側から蔭山副知事、栗田県議、立会人として伊藤中・四国建設局長が出席し、柳瀬ダムの完成を待たずに分水できる内容の第四次分水協定が調印成立した。
 これにより、銅山川の水が宇摩地方を潤すことになり、地域住民の悲願が実現されることになったのである。
 地域住民の具体的な動きから約一〇〇年ぶりのことであった。しかし、この分水協定は、ダム下流の責任放水が一定量に規定されていたため十分な水量は望めず、その後も関係者の並々ならぬ努力が続けられ、吉野川中流部の基準地点(徳島県阿波郡阿波町岩津)の流量により調整放流ができる第五次分水協定が昭和三三年一〇月一日に成立、吉野川からの分水問題は一応の終着をみた(第三節銅山川分水問題参照)。

 宿毛湾入漁問題(新漁業法の時代)

 終戦後、漁業生産力の発展と漁業制度の民主化を意図する、いわゆる「昭和漁業法」が昭和二四年一二月制定された。従来、宿毛湾入漁問題の協定は漁業者代表の話し合いを中心に行われ、県当局は立会人として入漁協定に参画してきたが、新漁業法によって高知・愛媛両県側の漁業問題の調整機関として土予連合海区漁業調整委員会が新たに設けられることとなった。新漁業法を機に高知県側は協定の白紙還元、愛媛県側の入漁全面拒否へと動き、紛争が激化した。昭和二六年第一回土予連合海区漁業調整委員会(以下「土予連合海区調整委」と略)を開催、協議を重ね二七年暫定協定を結んだが、高知県側は協定の不漁・倒産続出を理由に一〇か月の満期後、全面的入漁拒否に出て紛争が再燃した。
 両県知事の協議も不調で水産庁に調停を依頼、二八年同庁瀬戸内海漁業調整事務局が調停に入り、両県関係者の粘り強い努力で最終的に水産庁が裁定、協定が締結された。暫定協定であったが平穏が保たれる状況となり、その後愛媛県側の違反操業もなかった。次いで三〇年第五回土予連合海区調整委員会で協定が更新され、愛媛県側の入漁区域は拡大されたが、三一年からのイワシ不漁が続き三二年の改定では入漁区域が縮小され、宿毛湾入漁問題は再び厳しい局面を迎えた。

図3-2 宿毛湾沖合海面の漁業調整図(昭和27~38年)

図3-2 宿毛湾沖合海面の漁業調整図(昭和27~38年)