データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)
10 天皇陛下御巡幸
天皇陛下の御巡幸は、昭和二五年三月一七日香川県から本県に引継がれ、宇摩郡二名村(現川之江市)から南宇和郡一本松村(現一本松町)の高知県境に至る延々四〇〇キロメートルを御召車または列車に乗られて行われ、五日間の日程で復興途上の本県を御視察になった。
県当局は青木知事を会長とする県行幸事務本部を設けて万全を期し、知事は前日香川県観音寺町へ出向き、県内事情を奏上し、御先導の任に当たった。三月一七日いよいよ小豆色のロールスロイスに菊花紋輝く御召車を迎えて、川之江小学校での奉迎が行われ、「我らの天皇」に人々は戦時以来の辛苦と復興へたどり着いた思いを昇華させてか、期せずして起こる歓呼の嵐は、伊予の山河をゆるがせつつ秒刻みに行幸は進んだ。大王・大西両製紙御視察後、新居浜市の住友系企業日新化学では、山なす硫安やペニシリン培養、四国機械の東洋一を誇るインゴットケース溶解作業、別子鉱業所のイオン飛びかう金銀電解装置などにお眼をとめられた。特に労働組合幹部には「健全な組合活動を」とお言葉を賜り、角野町では立川山麓まで埋め尽くした二万人の人々の「君が代」の大合唱が、期せずしてわき起こる感激的なシーンもあった。西条市で倉敷レーヨン西条工場、地盤沈下や干拓事業の説明が行われて当日は倉敷レーヨンの「渓石荘」に御宿泊された。
第二日の一八日は春雨の中を、大正一一年(一九二二)摂政宮行啓ゆかりの今治市に入られ、今治港を港務所で御視察、次いで関西一の染色捺染と起毛工場を誇る阿部会社、高級ジャガード織機をそろえタオル業界随一の楠橋紋織工場を経て、北条町(現北条市)では倉敷紡績北条工場を御視察、いよいよ県都松山市に入られた。知事先導のもと、県庁では知事室で副知事宮内禰、参議院議員久松定武ほか政府出先機関代表が特別奉迎、第一会議室では県議会議長立川明ほか県議会議員、各行政委員、代表団体の長らが出迎え、CIC隊長レイ大尉、前隊長バーカー大尉らにもあいさつされた。第二会議室には県産品が展示されていたが、ろう原料のはぜの実に興味を示されたという。県庁三階屋上展望台では松山市長安井雅一が「松山の焼け太りで八七%のスピード復興」をユーモアまじりに説明、松山市役所前奉迎場ではそぼ降る雨の中、三万人の市民を前に、こうもり傘とソフト帽を振りながら万歳の歓呼にアンコールでこたえられる陛下、また起こる「君が代」の大合唱に市民は感激の涙さえ浮かべた。陛下は、県立中央児童相談所で薄幸の盲ろうあ児や保護児童にも慈みの声をかけられ、国立松山病院への路上では、行幸路から外れる上浮穴郡民ら二千余人が股引き、モンペの素朴な服装で出迎えた。県立農事試験場で暖地特有の稲の病菌への御質問、愛媛大学では標本室で淡水産ヒドラへの御関心など生物学者らしい一面を見せられて、やや強行軍の当日は道後「鮒屋」に御宿泊された。
翌一九日(第三日)は雨上がりの御休養日、午後御召船「なみきり丸」は三津浜港から天皇旗をはためかせて伊予の小富士興居島・窪の鳥海岸へ向かう。松山北高等学校教諭八木繁一が同行し、ゆむしの採取に忙中の閑を楽しまれた。夜は久松定孝侍従(久松定武の弟)の計らいで道後温泉「又新殿」(明治三〇年新設の皇族専用浴場)へ御入浴になり、折からの奉祝気分に湧きかえる歌と踊りの温泉祭りの賑わいを温泉二階から御見物された。興居島でのひとときを詠まれた「しづかなる潮の干潟に砂ほりてもとめえしかなおほみどりゆむし」の御歌には、春霞む小富士の裾に帝王の煩を忘れて清遊される一生物学者としてのお心がしのばれた。
第四日の二〇日は松山市内の籾摺機・脱穀機など農機具の全国的メーカー井関農機を御視察後、伊予郡松前町の東洋レーヨン愛媛工場へ。全国有数のレーヨン工場でのスフ工程やアミランなどに関心を持たれた。郡中・長浜・大洲を経て八幡浜市では全国トップの専業綿布工場酒六で、近隣の鐘淵紡績、東洋紡績、敷島紡績などの織り姫三、〇〇〇人がお迎えし、西風の荒れる八幡浜港では数十隻のトロール漁船が大漁旗で出迎え、万歳の声は競り市の活況にも負けじと段々畑にこだました。卯之町駅前では一目陛下をと寒さの中を郡民二万人が駆けつけ、宇和島市丸劇前では風波を冒して蒋渕半島や日振、戸島の各村から二、五〇〇人がお迎えするなど南予の人々の熱狂ぶりがまざまざと現れ、収容保護施設宇和島民生館では遺家族、引揚・戦災者らに陛下から激励のお言葉があり一同感涙あるのみであった。当夜は「蔦屋」御宿泊、郷土料理「さつま」を召し上がられた。
翌二一日(第五日)は好天に恵まれ黒潮の打ち寄せる宇和海を望まれながら、御召車は、九十九折の海岸沿いの国道五六号線を一路県境へ。途中養殖真珠、闘牛の御荘牛、緑僧都村(現城辺町)の牛鬼つづれ織など県産品をめでられ、岩松・平城・城辺小学校での奉迎に臨まれた後、県境一本松村篠川橋で行幸は高知県へ引き継がれて本県内の全日程を終えられた。