データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)
8 教育制度の改革
教育の民主化
昭和二〇年一〇月一一日、マッカーサーが幣原首相に対して表明した、いわゆる「五大改革指令」の一つに「教育の自由主義化」がある。GHQは教育改革を日本民主化のための重要な柱の一つと考えたのである。
占領当初、日本側は自主的に教育改革を進め「墨ぬり教科書」の使用を指導するなどしたが、間もなくGHQが改革を主導することとなった。
GHQの教育民主化政策は、軍国主義・超国家主義の排除から始まる。昭和二〇年末までに教育に関する四大指令が相次いで出された。同年一〇月二二日には「日本の教育制度の管理に関する指令」で、自由主義的あるいは反軍的言論ないし行動のため解職または休職させられた教師の復職や、教科書・教材から軍国主義的あるいは極端な国家主義的イデオロギーを助長する箇所の削除を命じた。また同月、「教職員の調査、除外、認可に関する指令」で、軍国主義的あるいは極端な国家主義的思想をもつ教職員の除外、その審査のための機関の設置を指示、一二月一五日、「国家神道、神社神道に対する政府の保障、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する指令」、一二月三一日、「修身、日本歴史及び地理の学科中止に関する指令」が相次いで出された。これらの指令は、文部省を通じて各都道府県に通達され、実施に移された。
軍国主義・超国家主義の排除と並行して、民主教育確立の準備が進められた。
昭和二一年三月五日、GHQの要請を受けて来日したアメリカの教育使節団(総数二七人、団長ジョージ・D・ストッダード、ニューヨーク州教育長官・イリノイ大学名誉総長)と「日本教育家の委員会」(総数二九人、委員長南原繁東京帝国大学総長)の総会が八日に開かれた。挨拶に立った本県出身の文部大臣安倍能成は、「各位の御察しの如く戦敗国たり戦敗国民たることは、苦しい試錬であり、困難なる課題でありますが、同時に敢て失礼を申せば、よき戦勝国たり戦勝国民たることも仲々困難であります。我々は戦敗国として卑屈ならざらんことを欲するとともに、貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざるを信ずるものであります」と述べた。その堂々たる態度は、敗戦国とはいえ日本国民の気慨を示したものとして、米使節団においても好評であったと伝えられている。
米使節団は、日本側委員会と意見を交換しながら報告書をまとめ、GHQに提出した、報告書は、①教育の地方分権、②国定教科書の廃止、③都道府県市町村に一般投票によって選出された教育行政機関の創設、④男女共学制で無償の九か年の義務教育(六年制の小学校の上に三年制の下級中学校の設置)、⑤三年制の上級中学校の設置、⑥さらにその上に四年制の高等教育機関の設置、⑦国語改革(ローマ字採用)などを骨子とするものであった。この勧告が戦後の教育改革の指針となった。
六・三・三制
昭和二一年五月に成立した第一次吉田内閣のとき、教育刷新委員会(「日本教育家の委員会」が母体)が設置され、この委員会が、六・三制の実施、教育基本法の制定及び市町村・府県に教育委員会と教育総長(仮称)を設けることなどを建議した。これに基づき、民主教育の基本を定める教育基本法及び六・三制を定める学校教育法が立案され、ともに翌二二年三月三一日公布、教育基本法は同月から、学校教育法は四月一日から施行され、六・三制が発足した。中学校は二二年から、その翌年には高等学校が、さらに二四年から大学が開設の運びとなった。本県では四月半ばに、ともかく新制中学校の発足をみたものの、戦後の経済的窮乏の中で慌ただしく実施されたこの改革は、中学校の設置義務を負わされた市町村に対して重い財政負担を課することとなった。
高等学校は、昭和二三年四月一日に「愛媛県立高等学校設置規程」を定めて公立高校四八校が設置された。ほかに私立高校九校も開校した。また九月二一日には「愛媛県立高等学校(定時制課程)設置規程」により八月一日にさかのぼって、独立校一一校、併設校三四校、分校三一校が誕生した。これらの学校は旧制中等学校をそのまま移行した暫定措置であったので、教育委員会は教育の民主化、機会均等を目標とした「総合制、学区制、男女共学」の基本方針を立て、県立高校再編成の検討を重ねた。その結果、二四年八月三〇日に「愛媛県立高等学校設置規則」を定めて、九月から二九校一分校に名目上の再編成をし、翌二五年四月一日から実質的統合を行った。こうして総合制の高等学校教育が開始されたが、その後、職業課程を分離独立させる動きが生じ、二七年に松山商業・新居浜工業・今治工業・伊予農業・大洲農業高校の五校が独立したのをはじめ、同二九年松山工業、同三〇年西条農業高校がそれぞれ分離独立した。
大学は、二四年四月一日国立学校設置法により愛媛大学が設立された。同大学は旧制松山高等学校・愛媛県師範学校・愛媛県青年師範学校・新居浜工業専門学校を包括したもので、当初文理学部・教育学部・工学部の三学部からなっていた。また愛媛県立農林専門学校は県立松山農科大学となり、私立松山経済専門学校は私立松山商科大学に改組昇格した。
教育委員会の発足
地方教育行政組織の改革についても、文部省でGHQと交渉を重ねつつ検討が進められた。最終的にはGHQの意向を強く反映した「教育委員会法」が芦田内閣のもとで、昭和二三年七月一五日に公布施行され、教育委員会委員の公選制が採用された。
この法律に基づいて、二三年一〇月五日都道府県と五大都市の教育委員会委員選挙が行われた。現職教員が全国の定員二七六人中九五人(三四%)を占めたこの選挙で、日本教職員組合(日教組)はその組織力の強さを示した。本県では、竹尾弥次・渡辺菊太郎・和田勇・則内ウラ・阿部公政・二宮卓が当選したが、竹尾・渡辺・和田の上位三人は県教職員組合(県教組)推薦の教員出身者であった。この六人に県議会選出の白石春樹を加えた七人からなる愛媛県教育委員会が二三年一一月一日発足した。市町村の教育委員会委員選挙は延期に延期を重ねた末、二七年一〇月五日に執行され、一一月一日一斉に発足した。
知事部局教育部が独立移管した県教育委員会事務局には、教育長室と管理部(庶務課・管理課・調査課)、指導部(学校教育課・社会教育課・体育保健課)が置かれ、教育長(初代杉野常夫)が主宰した。また出先機関として各郡一二の教育事務所が設置された。その後二四年、二六年の改革で次長制の設置、部制の廃止などが行われ、二八年には総務調査課・学校管理課・学校指導課・社会教育課・保健体育課の五課制となり、今日の機構の骨格が出来上がった。
教育委員は二五年一〇月の半数改選で森虎男・伊藤収蔵・岡田禎子、二七年一〇月の改選で井上喜久馬・高橋喜一・八束猶重がそれぞれ選ばれた。