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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 社会の変容

 安藤・伊沢県政戦後経営

 日露戦争後において政府は、軍備拡充、鉄道国有化、電信電話の拡張、土木事業の普及、朝鮮・満州経営その他多数の事業施設を経営しなければならなかった。地方団体もまた、戦時中に中止あるいは繰り延べてきた各種の事業施設を復活したのみならず、さらにこれを拡充増設した。政府は戦時下において、臨時応急の財政計画遂行の柱として「非常特別税法」を公布し、また地方財政に厳しい緊縮節約を命じたが、戦後経営を促進するため同法を継続、平常化するとともに、地方財政に余裕を与えるため、明治四一年(一九〇八)三月「地方税制限二関スル法律」を公布し、地方税制限を緩和することとした。
 この時機に県政を担当したのは政友会系の知事安藤謙介であった。安藤は、安政元年(一八五四)土佐国安芸郡羽根村に生まれ、ニコライ塾外国語学校でロシア語を、中江兆民にフランス語を学んだ。露国コルサコフ領事館付書記一等見習を振り出しに露国公使館三等書記官・外務書記生を経て、帰朝後司法省に転じて検事となり、名古屋控院・岐阜始審裁判所詰か
ら前橋・熊本・横浜地方裁判所検事正を歴任した。明治二九年に富山県知事を拝命、その後千葉県知事、成田火災保険・植田無姻炭鉱などの会社社長を経て、明治三六年に富山県から衆議院議員に当選し、翌三七年一一月に本県知事に就任した。安藤の赴任は、松山市に露国俘虜収容所が置かれたことに伴い、ロシアに精通していたことが重視されたといわれている。
 安藤知事は、県政における最重点施策を土木事業の推進に置いた。この施策は産業基盤の整備による国力増進を図る政友会を与党とする西園寺公望内閣の積極策と合致し、県会でも、藤野政高を中心とする政友派、井上要を中心とする進歩派ともども土木振興策に積極的であった。これを背景に安藤は、明治四〇年五月の臨時県会に三津浜築港を含む大土木事業計画を諮問、政友派による賛成答申を得たが、前後して進歩派から、計画が政友会の党勢拡張の具であるとして、安藤県政は厳しい糾弾を浴びることとなった。
 翌四一年四月、宿願の地方税制限の緩和を利用した県当局は、早速、いわゆる二二か年継続土木事業案を策定し、翌五月の臨時県会に提出した。事業の概要は、(1)現行の二継続土木事業の打ち切り、うち一〇八万余円分の編入、(2)六四七万余円の新規事業起工、(3)事業費総額七五五万五、〇〇〇円の二二か年継続支出、(4)郡市町村土木費に対し総額三〇万円の県費補助二〇か年継続支出などで、特に注目されたのは三津浜築港関係の九五万円余の計上であった。審議では専ら県民負担が過重か否かについて論戦が展開されたが、政友派の採決強行により進歩派議員総退場のなかで可決された。
 両政派は、事業の認可あるいは阻止をめぐってそれぞれ国に対して陳情を展開したところから、中央紙が関心を持ち、内務省内にも認可に対する慎重論が台頭してきた。こうしたなかで、七月四日西園寺内閣が総辞職した。内務大臣原敬は、置土産として当局吏僚に認可を迫り、結局、内務・大蔵両者の協議で条件付き認可に決定した。安藤知事と政友会幹部は土木事業の認可を誇示し、指令に基づく更正予算を県参事会急施会で承認、将来の問題をはらみつつ大土木事業はともかく開始されることとなった。一方、進歩派は機関紙「愛媛新報」を通じ無条件認可でないことを詳報し、県政批判を強めていった。明治四二年七月一三日、三津浜築港起工式が盛大に挙行された。祝典の酔いも覚めない七月三〇日、突然安藤知事は桂太郎内閣から休職を命じられた。その理由は不偏不党を本旨とする地方長官の職務を忘却しているというものであった。原敬はのちに安藤を復職再登用したが、その折の人物評として「悪政をなしたるにも非らず、又品性は決して醜汚の点なし、只弁口常に人の非難を招く次第なるも、用ゆべからざる人物にあらず」と評している。
 後任知事には伊沢多喜男が任命された。伊沢は、長野県士族で明治二年に生まれ、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。愛知県属を振り出しに内務属、山梨県・岐阜県参事官、岐阜県警察部長、福井県・滋賀県内務部長、警視庁第一部長を経て、和歌山県知事となり、次いで本県知事に就任した。本県在任三年五か月で新潟県知事に転じ、以後、警視総監、貴族院勅選議員、台湾総督、東京市長、枢密顧問官など要職を歴任した。伊沢はいわば生粋の官僚で政党には入らなかったが、一貫して非政友の立場をとり、憲政会・民政党側に立ち、〝官僚界の大御所〟、〝民政党の黒幕〟などと称せられた。
 伊沢の着任後間もなく、「三津浜築港疑獄事件」が摘発され、政友会県支部幹事長藤野政高が公判に付された。またこれに関連して「女子師範学校運動費分配偽証事件」も公判に付され、一連の事件は政友会支部にとって一大打撃であり、大土木事業計画の見直しを含め政界粛正の気運を助長することとなった。明治四二年一一月、予算査理のための県参事会において伊沢は、財政難を理由に継続土木費本年度支出額を大削減する予算案を提出、席上内務省からの指令・通牒を全文公表し、継続土木事業全体を他日抜本的に見直すことにしたいと明言した。これに対し政友会議員が独占する県参事会は強く反発し、あくまで既定計画を推進する修正案を提出したが、伊沢知事は意見として聞くにとどめ断固原案提出を譲らなかった。土木事業の遂行に危機感を深めた政友派幹部は、予算修正を協議する一方、通常県会開会に符節を合わせて伊沢県政の枇を糾弾するための県民大会を開催して知事批判の宣言文及び既定土木事業遂行と知事更迭を期す決議文を採択し、全面対決の姿勢を示した。
 こうした背景で明治四二年の通常県会は、その冒頭から大荒れの波乱の県会となった。第一読会では、まず県当局の公表した内務省の指令書及び通牒の解釈をめぐって鋭く対立、激論が続いた。多数を頼む政友会は、伊沢知事に熟考を求めるための一日特別休会決議、知事の所為を不当とする弾劾決議を行い、知事もまた議決取り消し命令を発してこれに報い、県会はこれに対して不当処分取消請求の行政訴訟提起決議で切り返すなど、紛糾を重ねた。結局、県会は参事会修正説を可決し、八万円余の増額修正で決着した。これに対し伊沢知事は、再議に付さず、府県制第八三条に基づいて内務大臣の指揮を乞い、翌四三年二月、原案執行を強行した。
 県会決議による不当処分取消請求の訴えは行政裁判所で審理され、四三年四月、裁判所は本件の議決は県会の権限外にあることをもって知事の議決取消命令は適法であるとの理由で、原告の請求を棄却した。一方伊沢は、参事会で示唆したように大土木計画の更正は財政計画、土木施策上、急を要する県政の最重要課題との認識に立ち、鋭意調査、検討を加え、四三年通常県会に大土木事業更正案を提出したのであった。その要点は、(1)継続年期の三か年短縮(一九か年継続)、(2)支出総額の二二五万円余減額、年割額の減額、(3)対象のうち、里道二二線の全線や三津浜築港関係など全額削除による工事の縮減であった。一方、更正によって削除され、下級団体の経営に移されたものについては県費補助の対象としていた。
 審議に当たった県会は、この更正案を満場一致で可決、確定議とした。政友派は、大土木事業の更正が同派の主張を容れたもので、事業内容・規模が維持された点、継続年期が短縮された点、大幅な県費助成が予定された点を評価した。また進歩派は、この更正は旧案を杜撰無謀なる事業と当局が認めて整理節減したもので、年来の同派の主張に合致したと高く評価した。このように両政派の論拠に隔たりはあるが、ともかく、多年にわたる県政界の係争の焦点であった土木方針が、ようやく確定をみることとなったのである。

 模範村余土村森盲天外

 日清戦争後から全国各地で広汎に地方改良運動が展開したが、その中で全国に名を知られ、注目の的になった模範村に温泉郡余土村(現松山市)があった。当時の余上村は、松山市に隣接し、道後平野西部に位置する典型的な米麦作の純農村で、とりたてて特徴もない平凡な村であった。なんの変哲もない一村が、一躍天下に知られるようになったきっかけは、明治三六年三月、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、その出品作『余土村村是』が栄ある一等賞牌を授与されたことにあった。「町村是」とは、各町村がそれぞれ実態調査を行い、それを基として将来よって立つべき基礎、町村自治自営の指標を定めることである。
 先駆的な村是の設定とその優れた実践によって模範村余土の名を高からしめたのは、卓越した農村自治の指導者である盲目の村長・森盲天外(本名恒太郎)の活躍によるものであった。森恒太郎は、元治元年(一八六四)に松山藩伊予郡西余戸村の庄屋森謙蔵の長男として生まれた。明治九年愛媛県変則中学北予学校(のちの旧制松山中学校)に入学、校長草間時福の民権思想の影響を受け、同一四年に東京に出て中村敬宇の私塾同人社に学んだ。明治一九年に帰郷、同年の石手川大洪水による村の復興運動に立ち上がり、翌年有志とともに余土村農談会を創立した。その後、推されて郡町村連合会・学事会の議員となり、進んで政界に入り、明治二一年には小林信近・高須峯造らとともに愛媛県における立憲改進党(当時予讃倶楽部)の結成に参画、機関紙の資金調達と同志獲得のため、各地へ遊説を行い、「豫讃新報」の発行に尽力した。明治二三年香川分県後の第一回県会議員選挙に当選、また前後して南予鉄道㈱、伊予肥料会社の創立発起人、松山紡績会社の発起人として活躍した。かたわら、文才豊かな森は、同二四年八月に独力で「はせを影」という月刊俳誌を発行し、俳号を三樹堂孤鶴と称し句作に親しんだ。のち正岡子規に師事して「天外」の号となるが、失明してからは自ら「盲天外」と称している。
 華やかな生活は長く続かず、やがて家庭生活の破綻、財産の消失、加えて「いわゆる政治屋なるものの職業化」を嫌い、政界を去った。実業での再帰を期す森を待ち受けたのは、眼底出血による両眼失明という悲劇であった。絶望の淵、老母の支えから「一粒米」の悟りを得て、京都に参禅中、余土村会から村長に迎えられた。森は認可を危ぶむ篠崎知事に直談判、ここに日本唯一の盲人村長が誕生、盲天外の新しい人生が始まった。
 盲天外が留意した村治の信条は、我が村を家庭と思い村民との人間的な心の結合を重視した点にあった。村役場は小学校の旧校舎、自身は教員住宅を改造した一室で不自由な身ながら自炊生活を送り、各部落に出かけては家庭を訪問し、人を集めて談話を試みた。また村会は、「こたつ会議」と呼ばれる方式、「居室の炉を囲み家庭的な村会」とし、議決も多数決ではなく、全員が納得いくまで話し合って決めた。こうしたたかで盲天外は、「村を治めんとするにはその対象たる村の研究に出発せぬばならない」との考えを持ち、準備を進めていたところ、明治三二年〝無冠の農相〟と称せられた前田正名が来県し模範調査の勧誘を受けた。盲天外は直ちにこれを承諾、翌三三年四月『余土村是調査資料』上下二編を完成させた。その内容をみると、村の実態をあらゆる角度から精査したもので、その豊富・綿密さに驚嘆させられる。しかし、この村是調査の価値は調査内容にあるのではない。この調査結果が、村の置かれている現況を見据えて、問題を摘出し、それが村の振興計画に進展し、その計画がさらに実践に移されて、模範村余土村の建設に遺憾なく活用されたことにあった。
 森村長は、将来対策のうち特に緊要なものを選び、自治の基本方針、つまり「村是」を設定した。(1)小学教育の改善、(2)青年教育の実施、(3)耕地の改良、(4)勤倹貯蓄、(5)共同購入、(6)小作保護、(7)副業の奨励などであった。この村是の設定を基に、実施要項である「余土村村是要領」、さらに具体的な実行計画である「村是実践攷」を定めて実行に移した。
 全国表彰をきっかけに村の優れた事績が世上に流布するにつれて視察来村者が増加した。その最も多くは明治四三年から大正四年ころで、主として農事団体の視察であった。この後、大正一〇年に産業組合が小作地を管理するにおよび、視察者は再び増加し、全国七割の府県さらには朝鮮・台湾から年間一、五〇〇人に達した。
 森盲天外は、在任一〇年の明治四〇年一二月、後事を託して余土村長を辞任した。同年、盲唖学校設立発起人となり、松山市二番町に私立愛媛盲唖学校を創立、その後、魂の記録『一粒米』、『義農作兵衛』、『町村是調査指針』、『体験物語我が村』などを著述する一方、内務省嘱託として地方自治、民育の巡講に当たった。大正七年、温泉郡嘱託となり、創設された温泉郡地方自治研究所主任として郡内自治体の指導と研究に努めるとともに、同一三年には道後湯之町郊外に「天心園」を創立、青年教育、社会教化、煩悶相談に当たり、また昭和二年から中予善隣会長として融和運動に従事するなど、自治と共存を目指す教育と福祉事業に専念した。晩年の昭和五年には推されて道後湯之町町会議員、翌年県会議員となり、昭和七年には道後町長となった。
 余土村は、この卓越した自治と農政の実践家の指導のもと、村是を実践、多大の成果を挙げ、その後も村是の形体を改良・開発し、実践を深めていった。このことが全国でもまれに見る模範村として長命を保ち得た鍵であった。本県の農業史に、また自治体史にこの「余土村是」と森盲天外の名を欠かすことはできない。

 四阪島煙害

 四阪島は新居浜市の沖合い二〇キロメートルにある燧灘中の孤島である。住友別子鉱業所は、それまで新居郡新居浜村惣開にあった銅製錬所に代わって、明治三七年(一九〇四)八月この島に製錬所を開設し繰業した。四阪島への製錬所移転は、明治二〇~三〇年代前半の新居浜製錬所の煙害に反対する地元民の運動の結果であり、産業発展に伴う銅の需要増加に対応した住友の設備拡大措置でもあった。製錬所が移転されたとき、煙害は終息したかに思えた。しかし、産業革命期である当時、四阪島では明治一〇年に比して約一一倍の粗銅が生産され、精錬過程で生じる亜硫酸ガスは煙突から大気中に排出され、それは海を越えて東予地方の農作物や樹木の生育を阻害した。四阪島煙害問題の始まりであり、それは本県の大きな社会問題・農政問題となった。
 製錬所の繰業が本格化した明治三八年以降、特に越智郡・周桑郡・新居郡内四四か町村での煙害が目立ち、米麦作は平年の五~二五%の減収となった。このため、小作料減額をめぐり平穏であった同地方の地主・小作間の情誼に亀裂が入り、同四一年には、地租納入が滞る中小地主が
生じ、日本赤十字社・慈善団体から脱会を決議する地主会がみられた。こうした中で明治三九年七月以降、越智・周桑両郡の町村長会は、県当局へ被害情況を報告し救済を要請する一方、大阪鉱山監督署へは煙害取締りを陳情、住友に対しては設備の改善もしくは撤廃を求めた。被害地の農民大会も開かれ、同四一年八月の周桑郡農民大会には二、五〇〇人が大明神川原に集まり、越智郡では五、〇〇〇余人が今治海岸に参会し、それぞれ煙害除去と窮状打開を叫んだ。
被害を察知した県では、既に明治三九年七月より県農会技師岡田温を介して原因調査を開始していた。翌年六月には愛媛県臨時鉱毒調査会を設置し、岡田ら四人の専門家を委員に任命して調査を続けた。調査会は三度にわたる現地調査を行い、東京帝国大学農科大学植物病理学教室や農商務省農事試験本場などの協力を得て被害植物を分析、同四〇年九月県知事安藤謙介に提出した「第一回調査報告書」の中で、四阪島製錬所排出煙中の「亜硫酸瓦斯ハ其ノ被害ノ重ナル原因」と断定した。独自の調査を行っていた別子鉱業所が作物異変を煙害と認めたのは翌年八月であった。因果関係が明らかになると賠償問題と被害額算定方法が交渉の中心課題となった。岡田温はこのことについて、足尾銅山鉱毒事件を例にとり、「渡良瀬川の沿岸よりは田中正造氏を出せり、越智周桑両郡は多士済々穏和なる田中翁少なからざるべく、頼って以て平和の解決を求められよ」(「煙害調査頴末(一三)「海南新聞」明治四〇年一月二三日付)と「農家諸君」を諭し、住友が近代日本と本県の発展に尽力していることの理解をもって交渉するよう望んだ。岡田が言明するように、周桑郡煙害調査会(明治四一年六月一二日結成)には一色耕平・青野岩平・渡辺静一郎ら、越智郡煙害除去同盟会(同年八月二五日結成)にぱ曽我部右吉・石原実太郎・上田実五郎ら、各町村の首長や有力者がおり、どちらも地主・小作・町村行政担当者が一体となって煙害除去運動を進めていた。一時は、現地視察に来た住友本店理事を前に興奮した農民が騒ぎを起こし警察官に鎮圧されることもあったが、両会は、「鉱農互譲併立」の精神により住友との交渉を続けた。
 煙害問題解決に当たって、県知事安藤謙介は住友と直接交渉することをせず、主務省を介して交渉する方針をとっていた。一方、県会では越智・周桑・新居・宇摩の四郡選出の議員を中心に、超党派で提出された煙害救済建議案が可決され、明治四一年一二月には県知事と内務大臣に決議書を送付した。翌年一二月の県会では、四阪島煙害のほかに周桑郡桜樹村(現丹原町)千原銅山の煙害と鉱毒問題をも加えた救済建議案を可決して、内務大臣に陳情書を送付した。この間、地元町村は煙害解決請願書を貴族院と衆議院に提出し、代議士有志による鉱毒の救済・予防取締り・賠償に関する質問書も衆議院に提出された。このため、同四二年の帝国議会では別子・足尾などの鉱害問題が議論の中心となり、またこの年四月、政府は農商務省に鉱毒調査会を設置したため、同会委員多数が来県して数次にわたる現地調査を行った。
 こうした中で、住友と被害地農民代表との話合いは徐々に進展した。明治四二年四月二〇日から広島県尾道市で本県選出代議士の斡旋による最初の正式会談が行われたが、この時は賠償金をめぐって妥協点に到達しなかった。同年七月本県知事として赴任した伊沢多喜男はこの問題の調停に積極的に乗り出し、農商務大臣を介して両者の妥協を図ろうとした。伊沢は翌四三年五月被害地を視察し、東予四郡長と協議のうえ、八月には、農商務大臣もしくは知事の裁定に異議を唱えないことを骨子とする調停基本条件を一色耕平ら各郡農民代表に示した。被害地農民はこれを検討し、賠償金は町村に分配することなどの条件をつけて知事方針を受け入れるとともに、各郡農民代表一〇人に賠償交渉権を委任した。この後知事は農民代表と、交渉に臨む打合せを行い、また来県した大浦農商務大臣一行を案内して被害地を視察して、問題解決への舞台づくりを終えた。
 妥協会は明治四三年一〇月二五日より農商務大臣官邸で開かれた。「越智周桑新居宇摩四郡被害者代表者」は曽我部右吉・一色耕平・久保寅吉・近藤喜三郎ら一〇人であり、「住友吉左衛門代理人」は大阪総本店理事鈴木馬左也であった。伊沢知事は座長であった。前夜、双方の関係者と農商務省幹部が会して大臣官邸で夕食会が催され、円満解決を切望する大臣訓示があったが、交渉は煙害開始時期と被害額をめぐって難行した。結局、一一月九日、大浦農商務大臣が裁定書を示し、これに基づいて作成した契約書に双方とも調印した。
 なお、契約は賠償金の支払いや製錬鉱量の制限を内容とし煙害解消を意味するものではなく、契約有効期間も約三年間であったから、両者は昭和一四年一二月までほぼ三年ごとに本県知事の斡旋で契約を更改した。この間製錬所は新技術の開発と導入を進め、亜硫酸ガスを硫酸に転化し、中和工場をも完成させて煙害発生を絶った。また、賠償金の使途を一任された知事は、個々の被害農民にはこれを分配しない方法をとり、各町村の農林業改良基金として町村に配分したり、学校建設資金・被害地農事改良事業費に充当した。

 別子銅山争議

 日清戦争と日露戦争を経て我が国の工業界では機械化が進み、産業資本の確立が図られた。工業の発展は必然的に労働者数の激増を促したが、当時、労働者の大部分は貧農層の出身であり、その労働条件は低賃金・長時間労働など劣悪であった。こうした情勢下、高野房太郎や片山潜によって社会改良を主旨とする労働組合結成運動が続けられていたが、政府は明治三三年(一九〇〇)「治安警察法」を施行し台頭してきた労働運動や社会運動を抑圧した。しかし、日露戦争に際して生産拡大を図る造船所・軍需工場・炭坑・鉱山では、明治三八年ころから賃金増額要求を中心とする争議が相次いだ。明治四〇年の戦後恐慌期には足尾銅山・生野銀山・幌内炭坑のほか本県の別子銅山でも大規模な争議が起こり、暴動化した。
 明治三九年九月、住友別子鉱業所は銅山経営の合理化と近代化の一環として飯場制度の改革を行った。この改革は労務管理上の改革であり、坑夫賃金の改革でもあった。別子には、飯場と呼ばれる坑夫(鉱夫)や負夫(運搬夫)の集団が一七あり、各集団には親分的存在の頭がいて五〇~一二〇人前後の鉱夫・運搬夫を統轄し、各種の鉱山労働を請け負っていた。飯場制度の改革は飯場頭のような中間搾取者の力を弱め、鉱夫社会の封建的体質を打破しようとするものであり、会社は新たに鉱夫など各労働者の技術水準に即した等級別賃金体系を作成して、これを実施した。しかし、この賃金は鉱夫の期待したものとはならず、むしろ日露戦争後のインフレの中で実質賃金の低下をきたす者もあり、同三九年一〇月から翌四〇年五月にかけて賃上げ要求が相次いだが、会社はこれに応じなかった。
 明治四〇年六月一日、鉱夫・運搬夫など鉱山労働者三百数十人が集会を開き、重ねて約三割の賃金増額要求を出し、これが拒否されるとストライキを決行することを申し合わせた。鉱山労働者のこうした動きに対し、会社はその指導者二人を解雇し、別子山中は騒然となった。六月四日運動に参加した労働者全員が退職届を提出して賃金の一括支払いを求め、代表者と会社側との交渉がもたれたが、交渉は決裂した。このため、鉱山労働者は鉱業所採鉱課事務所に乱入し、その一部は暴徒化してダイナマイトで事務所を爆破し、他の鉱山事務所も焼き打ちした。翌日の明け方、暴動の規模は約八〇〇人に膨張し、その後、別子近くの柳谷坑所属の鉱夫もこれに合流した。彼らは別子の山を下り、夕方には第三通洞口や東平の鉱山施設を焼き払い、翌六日には新居浜に迫る気配をみせた。この間、焼死者一人、焼失建物六七、損害約三〇万円といわれる被害が出ていた。
 県警察部は不測の事態に備え、暴動が起こる以前から西条警察署角野分署巡査・鉱業所請願巡査など三八人を別子に派遣していたが、争議が暴動化した後はこれを一三〇余人に増員して警備につけていた。暴動の激化に伴い、住友本店は善通寺第11師団の出動を要請し、六日、善通寺から一個中隊が新居浜に到着した。また県知事安藤謙介は松山の歩兵第22連隊に出動要請を出した。事態が緊迫するなか、六日朝住友の汽船四阪丸で高浜から新居浜に着いた県警察部長和田健児は、直ちに鉱山労働者代表と会見・説諭のため武装警察官二〇〇人を率いて別子に登り、労働者代表約一〇〇人と話し合った。結局、警察部長が労働者の要求を会社に取り次ぐことを条件に暴動を中止させた。この暴動により警察は六二人を検挙、うち三五人を起訴し、三〇人が有罪となった。
 別子銅山争議を栃木県の足尾銅山のそれと比較した場合、若干の相違がみられる。足尾では既に明治三九年一二月に大日本労働至誠会の支部組織があり、労働者を思想的に啓蒙する研究会が催され、賃上げ交渉を合法的に行っていたが、累積した坑夫たちの不満が爆発して暴動となった。これに対し別子では労働組合的組織はまだ存在せず、賃金問題を機に鉱山労働者が積年の鬱憤を晴らして暴動化したものであった。明治四〇年六月二三日付「海南新聞」で和田警察部長は、住友が銅価騰貴で巨利を得ているにもかかわらず労働者の待遇を改善しなかったことが原因であり、事件は決して社会主義に根ざすようなものではないと述べている。なお、この年京都帝国大学法学部を卒業して住友別子鉱業所採鉱課に入社した鷲尾勘解治は、明治四五年、別子の山中に自彊舎を創設して青年鉱夫の教育に努め、労使協調精神の涵養に努めた。

 農事改良政策の展開

 我が国の農業は、明治三〇~四〇年代に展開された農事改良政策によって飛躍的に発展し、近代科学技術で装備された米麦を軸とする家族労作経営の原型が完成した。明治三六年一〇月、農商務省は一四項目にわたる農事改良の諭達を発した。愛媛県では翌三七年四月から各郡役所に農業専門の技術官を置いてこれに対応、五月には「戦時農業督励規程」を定め、(1)稲麦種子の塩水選、(2)害虫の駆除予防、(3)麦黒穂病の防除、(4)緑肥作物の普及、(5)堆肥の改良が実行項目として督励された。これは日露戦争開始に伴う戦時食糧自給の督励策であったが、農事改良の指針
を示したものでもあった。終戦と同時に「農業督励規程」に改められ、さらに、(1)稲作正条植、(2)排水及び耕地整理の普及、(3)蚕種の改良及び普及、(4)産業組合の普及、(5)畜産の改良普及の五項目が加えられて、農業の躍進を促す憲章となった。農業督励部は県庁に本部、郡役所と町村役場に郡部・町村部が置かれ、知事の任命あるいは嘱託の役員が配置された。この強固な執行体制により、稲作
の正条植、塩水選、短冊苗代などの励行が短期間で徹底した。これに、品種の改良、人造肥料の普及、牛馬耕による深耕と労働生産性の向上、八反ずり・廻転除草器による除草技術の進歩などが交錯して、農業の様相が一変した。これら労働集約的農法と技術革新の成果で、本県の稲作反収は明治一〇年代一石を超える程度であったのが、明治四〇年前後には一石八斗と驚異的な増収を示し、同四四年には二石の水準に到達した。
 新しい農業技術の普及には、農業学校での技術者の養成、その技術者と農会組織の結合した技術の浸透、農事試験場における研究の進歩と科学的技術の確立が要因となっていた。農業学校は、明治三三年愛媛県農業学校(のち松山農業学校)が開校されて以来、宇摩農業学校・新居農学校・周桑農業学校・南宇和水産農業学校・東宇和農蚕学校などの郡立学校が次々と設立されて、農業技術者の養成に当たった。農事試験場は、明治三三年(一九〇〇)四月温泉郡余土村に設置され、北宇和郡八幡村に南予分場、周桑郡小松町に東予分場がそれぞれ置かれて、明治四〇年代にその研究内容が充実して農業技術の開発と普及に寄与するようになった。
 愛媛県の農会は、明治二九年三月一日制定の「農会設置準則」に基づき、同年六月各町村に町村農会、八月各郡に郡農会、一二月一八日に県農会が生まれて、同三二年六月の「農会法」制定に先だち活動を開始していた。農会は、政府・県の農事改良政策に呼応して、講習講話会・農事大会の開催、技術者の設置、現地指導などを実施して農家の教育・指導・啓蒙に当たった。農業技術の著しい進歩は、こうした系統農会における指導体制に負うところが大きかった。また、明治三九年六月の「耕地整理及土地改良奨励費規則」、同四一年四月の「水利組合法」制定により、土地改良事業が体系化され耕地の基盤整備が進められたことも、米の増産に役立った。
 米作の飛躍的増産は、米の商品化量の増加をもたらした。従来、地主や商業資本によって独占されていた米穀市場は次第に拡大され、農民自身による販売組織が必要になり、それとともに資金利用機関や購買網の整備が期待された。すでに明治三三年三月「産業組合法」が制定されていたが、本県での組合設立は停滞していた。同三九年の法改正で信用組合事業と購買・販売・利用事業の兼営が認められると、県の指導奨励もあって組合は急速に増加、明治の末期には一四四組合に達した。明治四四年三月には産業組合中央会愛媛支会が設立されて産業組合の指導体制も確立した。
 米を中心とする食糧生産物と併せて、桑・楮・三極などの工芸作物が大きく伸びた。とりわけ、桑畑は主要輸出品である生糸のめざましい発展を反映して急速な増反を示し、明治二五年六九九ヘクタール、同三〇年一、七八五ヘクタールであったのが、明治四〇年には三、一六七ヘクタール、大正元年五、六三四ヘクタールがこれに充てられ、大正一五年には一〇、五六一ヘクタールに達した。また柑橘・梨などの果樹栽培が明治末期から急速な伸展を見せ、栽培面積を拡大していった。これに対して麦その他の雑穀類は顕著な減反傾向を示し、茶・菜種などの凋落も著しかった。
 こうした作物構成の急速な変化は、農家の視点がそれまでの栽培技術から農家経済の改善向上に移行したことを示していた。大正期には、農家所得の向上を目指す生産分野での養蚕・果樹指向の選択拡大と併行して、米価の安定維持、農産物販売の合理化のための農政運動、同業組合の設立などが進められて、農業は、完全に資本主義経済の中に組み込まれ、農家経済は貿易の動向と外圧に左右されるようになった。第一次世界大戦による農産物価の暴騰、商工業の発展で農村経済は一時的に潤ったが、一般には明治後期の時代に見られた活性力を失い、農産物価格の騰勢の鈍化、輸入農産物の激増、輸出農産物の減少などで慢性的な沈滞低迷の時代に入った。このため農村・農家経済の改善を図る方策が農政に求められた。また地主制の不当を訴え生活と待遇改善を要求する小作争議が頻発して、これの対処も農政の大きな課題となった。