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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一 概説

 明治末期・大正期〈戦後経営・地方改良運動〉

日露戦争は、明治三八年(一九〇五)九月我が国の勝利をもって終わった。戦時中政府の地方財政圧縮政策によって中止あるいは繰り延べられてきた地方の各種の事業ぱ、戦後経営の名の下に復活拡充された。愛媛県知事安藤謙介は、戦後経営施策を教育の振興、産業の奨励、交通機関の整備に置き、特に土木事業を最重点とした。これは、西園寺公望内閣の与党政友会が鉄道国有化と道路開発、港湾整備などの基盤づくりをして産業を振興し、国力を増進しようとする積極政策と一致していた。知事と政友会支部との提携になる大土木工事計画に対しては井上要ら愛媛進歩党は強く反発した。
 明治四一年(一九〇八)三月「地方税制限二関スル法律」が公布され、戦時中応急的に実施された非常特別税法を平和克復後も恒久化する一方で、三国税付加税制限の緩和を認めた。安藤県政はこの付加税の制限外課税で七五五万余円に及ぶ二二か年継続土木事業計画を実施に移すことにして内務省の条件付き認可を得た。しかし翌年安藤は不偏不党を本旨とする地方長官の職務を忘却しているとして桂内閣から休職させられ、土木事業も後任の県知事伊沢多喜男によって大幅に縮小された。また藤野政高ら政友会幹部の三津浜築港疑獄事件が摘発された。
 日露戦争時と戦後の地方税制限措置は、財源の弱い町村財政をさらに逼迫させた。町村は「町村制」施行以来過重な委任事務の重圧に苦しんでいたが、財源の欠乏に加えて明治四〇年からの小学校義務教育年限六か年への延長は町村教育費負担を激増させた。政府は、部落有林野の統一を推進するなど財政建て直しの方策を打ち出し、町村に更生を求める地方改良運動を督励した。この運動の先駆けとなった模範村の一つが温泉郡の余土村であり、同村の盲目村長森恒太郎(盲天外)の存在と相まって全国に知られた。地方改良運動は、明治四一年(一九〇八)一〇月発布の「戊申詔書」を根本理念として全国的に展開された。政府・愛媛県はそれを実践した優良団体や個人を表彰して、各地における模範例の顕彰に努めた。この時代、農業の改良政策が展開され、労働集約的農法と新しい農業技術の開発普及が進み、稲作の収穫は飛躍的に増大して、近代日本農業の確立期を迎えた。米の商品化、養蚕と果樹・園芸の増加は農村経済を資本主義経済に組み入れ、農政と農家の関心が生産技術から経済に移り、農会に加えて産業組合の結成を促した。

 〈社会問題の発生〉

第一次産業革命で基礎を築いた我が国の産業界は、日露戦争中と戦後の軍備拡張、戦勝による国際信用の高まりや外資導入の促進などで目覚ましい発達をとげた。この期の特色は、軍需工業を中心とする重工業の発展であり、動力の面では蒸気力から電力利用に大きく転換した。これを第二次産業革命と呼ぶが、
愛媛県では、今治を中心とする織物工場設置の急増と住友四阪島製錬所完成及び諸工業の原動力化かその牽引力となった。
 これら工業の勃興に伴って公害が発生した。とりわけ住友四阪島製錬所の拡散する硫煙(亜硫酸煙)は東予四郡に大被害を与え、足尾銅山の鉱毒事件と並んで大きな社会問題となった。また工場の増設による労働者の増加で、資本家との対立が現れ、待遇改善や賃金値上げを要求する労働運動が発生した。明治四〇年(一九〇七)に起こった別子銅山の大争議は本県における労働運動史上画期的な事件であった。

 〈明治から大正へ〉

 日露戦争の勝利によって我が国が列強の一員に加わると、明治維新以来の国家目標は一応達成されたという気持が国民の間に強まり、人生の意義に煩悶する青年層が現われた。オールドリベラリストの典型といわれる安倍能成は松山中学校から第一高等学校に進んでこの時代に「煩悶」の青春を過ごし、次の大正デモクラシーの時代に自由主義の自我意識を確立した。
 大正元年(一九一二)七月三〇日、明治天皇の崩御により大正と改元され、明治時代の幕が閉じられた。夏目漱石は『こころ』の主人公・先生に「私は明治精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」と語らせている。一つの時代の終焉に当たって国民の中には、過去の栄光をしのぶだけでなく、大正新時代に政治・社会・思想の変革を期待する者が少なくなかった。「大正維新」の言葉が言論界を賑わせ、後世、「大正デモクラシー」と称される時代の幕明けとなった。この新時代の到来を印象づけた出来事が〝閥族打破・憲政擁護〟を掲げた憲政擁護運動であり、非立憲的な第三次桂内閣の打倒に成功した。しかしその後も非政党内閣が続き、本県政界でもこれまで地方政社の立場を堅持して政友会県支部の本部との結合を批判してきた愛媛進歩党の大部分が桂新党(立憲同志会)に参加するなど中央-地方の政党系列化が進んで、第一次護憲運動の影響はあまり見られなかった。

 〈大戦景気・米騒動〉

 大正三年(一九一四)に勃発した第一次世界大戦は、明治末期からの日本の経済不況と財政危機とを一挙に吹き飛ばした。戦争によってアジア市場から後退したヨーロッパ列強に代わって、綿布などの日本商
品がこれらの地域に急速に進出し、貿易は大幅な輸出超過となった。この大戦景気は、本県産業界にも空前の好況をもたらし、綿織物業は今治の綿ネル・大正布を中心に大正四年秋から五年春にかけてインド・南洋向けの注文が殺到した。宇摩郡の製紙業界は加工製紙が一大発展をとげて郡内に多くの紙成金を生んだ。鉱業では銅及びアンチモニーの価格が暴騰したため別子銅山・市ノ川鉱山などが高利益をあげ、中小鉱山を採掘する鉱山熱が盛んになった。輸入化学肥料の不足と農家需要の増大で、住友はじめ多くの製造工場が県下各地に設置された。県下の造船業も阪神方面からの新造・修理の注文に忙殺された。こうして県内の地場産業は著しく躍進した。また工場原動力の電化と電灯の普及で、県内の電力事業もこの時期大きく進展した。
 世界的な船舶不足で海運業は空前の好況となり、いわゆる「船成金」が続々と生まれた。本県出身の山下亀三郎・勝田銀次郎はその代表であり、新田長次郎は製革業で財をなした。山下は郷里に実科高等女学校を設立し、新田は松山高等商業学校の創設資金を投ずるなど、利益を育英面に還元した。
 しかし、この大戦景気の底は浅かった。空前の好況が資本家を潤し成金を生んだ一方では、多数の民衆は物価の高騰に苦しんだ。大正七年(一九一八)シベリア出兵にからむ米の買い占めもあり、米価が急騰すると、富山県の漁村婦人の行動をきっかけに米屋・商店などを襲う米騒動が全国に広がった。本県では郡中・松山・宇和島などで米騒動が起こった。

 〈政党内閣の成立・普選護憲運動〉

 米騒動で示された民衆のエネルギーで元老山県有朋もついに政党内閣を認めることになり、衆議院の第一党である政友会の総裁原敬を首相とする内閣が成立した。政治学者吉野作造の提唱した「民本主義」が流行語になるなど政治の民主化を求める国民の声は次第に高まり、原内閣の実現はその大勢に応ずるものとして歓迎された。国民はこの内閣に普通選挙の実施を期待したが、選挙権の納税資格を引き下げるにとどまった。これを機に、普通選挙運動が「大正デモクラシー」の風潮を代表する大衆運動として盛り上がった。本県でも、大正八年高須峰造らが愛媛県普通選挙期成同盟会を結成して、〝普選博士〟と称せられる本県出身の今井嘉幸を迎えて普選促進演説会を開き、さらに押川方義を普選候補に擁立して衆議院議員に当選させるなど、この運動への県民の意識を高揚した。
 大正一三年(一九二四)貴族院の勢力を背景に清浦奎吾内閣が成立すると、憲政会・政友会・革新倶楽部の三党は提携して超然内閣の出現に反対し、普通選挙の実現を掲げて、第二次憲政擁護運動を起こした。政府は、政友会脱党者が組織した政友本党を味方につけ議会を解散して総選挙を行った。本県では、政治的に目覚めた農村青年や学生が理想選挙を標榜して選挙運動に参加、無党派の農学者岡田温・松山高等商業学校教授渡部善次郎らをかっぎ出してこれを支援し、岡田を当選に導いた。こうした国民の政治的関心と意識の向上が護憲三派内閣を成立させ、普通選挙実現と政党内閣継続の原動力となった。

 〈社会運動の勃興・社会事業〉

 第一次世界大戦における連合国の民主主義・平和主義の提唱やロシア革命、米騒動などをきっかけにして我が国でも社会運動が勃興した。大戦中の産業の急速な発展によって労働運動が盛り上がり、労働争議の件数は急速に増加した。愛媛県では大正一三年(一九二四)に日本労働総同盟系の別子労働組合が生まれ、ついで今治労働組合や松山合同労働組合が結成された。また大正一四年には別子銅山、昭和二年には倉敷紡績松山工場で大争議が起こった。
 小作料の引き下げ、耕作権の確立を要求する小作争議も頻発した。愛媛県の小作争議は、大正三年(一九一四)秋東予を中心に起こった米穀検査実施反対運動に始まり、宇摩郡小作連合などが誕生した。世界大戦後小作争議は本格化し、大正一〇~一二年にかけて毎年三〇件以上に達した。同一一年(一九二二)全国的組織として日本農民組合が結成されると、林田哲雄・井谷正吉らがその支部を組織し、同一五年日農愛媛県連合会を結成した。こうして大正後期に勃興した労働・農民運動は、昭和初期の取締り強化と組合の左右分裂で次第に衰退していった。
 被差別部落の住民の社会的差別を自主的に撤廃しようとする部落解放運動はこの時期に本格的に出発した。大正一一年全国水平社が結成され、翌年には愛媛県にもその支部組織が生まれた。政府・県でも部落改善運動を進め、県内各地に推進団体が発足して旧習の改善や授産事業を行った。
 労働・小作争議が激増したのは、大正九年(一九二〇)以降の戦後恐慌による失業者の増大と農家の困窮が背景にあった。失業・貧困は大きな社会問題となり、政府は昭和四年(一九二九)に「救護法」を公布して、生活扶助・医療救護をはじめ救護施設の設置などを盛り込んだ総合的社会事業法規を定めた。すでに社会事業は、大正デモクラシーの浸透の中で弱者救済が社会問題化した大正後期以降注目され、愛媛県当局は大正一〇年社会課を置き、同一二年方面委員制度を設け、社会事業協会を組織するなどこの事業の発展に努めてきた。また、国体の精華、自治の発達、思想善導、消費節約生活改善を促がす民力涵養運動が全国市町村で展開された。

 〈県政の展開〉

大正期の愛媛県政は、深町錬太郎・坂田幹太・若林賚蔵・馬渡俊雄・宮崎通之助・佐竹義文・香坂昌康の七人の知事が担当した。これらの地方長官はすべて東京帝国大学を卒業、高等文官試験合格後内務省に入り、各県の地方官を務め警察部長・内務部長・県知事への階段を昇っている。深町・坂田・馬渡・宮崎は知事に昇格した最初の赴任先が愛媛県であった。本県での知事在職期間は深町が三年四か月、佐竹が一年二か月で、他は二年程度であった。この時期、地方官職の官僚制が定着して定期的な異動を繰り返すようになったのである。
 この期の県政施策は、国力の充実を背景に、土木事業の推進と中等学校の拡充が図られた。土木事業は大正三年からの二〇か年継続治水事業と同一〇年からの三〇か年継続土木事業が計画施行され、ほかに三次にわたって県道の路線認定が行われた。中等学校は、日露戦争後の教育普及・進学者急増に対応して、大正元年には県立一四・郡町村立一二・私立一〇の合計三六校に増設されていたが、その充実のため郡立学校整理・県立移管、県立学校の増設が県会などで絶えず要求された。県当局は、大正七、八年の東宇和郡立農蚕学校の県立移管、県立西条農業学校の新設に続いて、同一〇年度から中等学校拡張五か年継続事業を実施して、既設中等学校の生徒定員を増加し県立三島中学校・松山城北高等女学校などを新設した。これと同時に、郡制廃止に伴い郡立実業学校・高等女学校など一〇校を県立に移管した。この結果大正一五年の県立学校は師範学校二、中学校六、高等女学校一〇、実業学校一〇、実科高等女学校一の計二九校に増加した。
 原内閣の政策によって高等学校以上の教育機関も拡充された。愛媛県は誘致合戦に勝利して大正八年(一九一九)松山高等学校が設置された。また松山市長加藤恒忠らの尽力と新田長次郎の資金援助で大正一二年(一九二三)松山高等商業学校が開校し、初代校長に加藤彰廉が就任した。松高・高商の存在は、松山市街の活性化を促し、近代文化・スポーツの発展に寄与した。

 〈地方制度の改正〉

 この時期、産業の発展に伴う人口増で周辺村を合併編入して全国的に市が増設された。愛媛県では、綿業の生産地として活況の今治が大正八年(一九一九)に、南予の中心地宇和島が同一〇年(一九二一)に市制を施いた。大正期の地方制度は依然「市制」「町村制」と「府県制」「郡制」で運営されていたが、これらの法制は大正デモクラシーの影響を受けた自治権の拡大と選挙権の拡充のための改正が行われた。大正一五年(一九二六)の改正では地方議会に普通選挙制を採用した。早い時期から無用視されていた「郡制」は大正一〇年に廃止が決まり同一二年四月に施行された。郡長・郡役所は同一五年に廃止となり、本県にはこれに代って宇和支庁が設置され、県行政機構の改革も行われた。

 〈大正デモクラシー・大衆文化の登場〉

大正デモクラシーの思潮や民本主義は漸次愛媛県にも浸透し、県会の論議などにも垣間見られるようになった。教育界では、自由教育運動の影響を受けて愛媛県師範学校附属小学校でドルトン・プランが研究され、川崎利市らが泉川・大町小学校などで個別教育を実践した。松山高等学校の生徒は、初代校長由比質の教育方針のもと教養主義・自由主義でもって青春を謳歌した。しかし自由教育は愛媛の保守的風土になじまず実験段階で終わり、「松高自由主義」も二度にわたる学校紛争を経て圧迫が強まり、やがて軍国主義教育の中で埋没していった。社会教育の担い手としてその組織化が進められていた男女青年団体は、この時期青年団の自主的運営が重視されて活況を呈したが、県連合青年団の結成などによる系列化の中で指導の徹底が図られ、教化団体としての性格が強まった。大正デモクラシーと呼ばれた世相を県民が享受した時期は短く、その底は浅かった。
 大正から昭和初期にかけての文化の特色は大衆文化の発展であった。教育の普及と知識階層の増加で、新聞は急速に部数を拡大して大衆紙となり、雑誌・書籍があふれた。大正一四年(一九二五)には東京・大阪でラジオ放送が開始され、昭和三年(一九二八)の広島放送局開設で愛媛県でもラジオ文明の恵みを受けるようになった。学生野球などのスポーツはラジオの普及によって大衆に親しまれ、昭和一〇年(一九三五)夏、全国中等学校野球大会での松山商業学校全国優勝の実況放送は県民を歓喜させた。レコードが大量に売れ歌謡曲が全国に流行したのもこの時期からであった。この時代の最大の娯楽は映画であり、松山など都市部に常設映画館が続々と開設、やがてトーキーが現われて観客数は飛躍的に増大した。松山などには喫茶店・カフェーが現れた。また久松伯爵別邸・愛媛県庁舎・日本銀行松山支店など鉄筋コンクリート造りの建物が大正末期から昭和初めにかけて建てられた。

 昭和前期〈政党内閣の時代・普通選挙〉

大正一五年(一九二六)一二月二五日大正天皇が崩御され、摂政宮裕仁親王が践祚して「昭和」と改元された。この年加藤首相の病死により若槻礼次郎が憲政会内閣を引き継ぎ、田中義一政友会内閣、浜口雄幸民政党内閣、犬養毅政友会内閣と、昭和七年(一九三二)五・一五事件で犬養内閣が倒れるまで政党の総裁が内閣を組織するという政党内閣の慣行が続いた。この時代、愛媛県の県政を担当したのは香坂昌康・尾崎勇次郎・市村慶三・木下信・笹井幸一郎・久米成夫の六人の知事であった。これら知事の在職期間は一年数か月と短く、かつて〝良二千石〟といわれた地方長官の座も政党内閣の人事に翻弄されて更迭を繰り返し、時の風によって動く〝浮草稼業〟といわれるようになった。愛媛県庁舎は総工費一〇二万円で新築工事を行い、昭和四年(一九二九)四月豪壮な鉄筋コンクリート造り四階建ての新庁舎が完成した。
 史上最初の普通選挙となった衆議院議員選挙は昭和三年(一九二八)二月に実施され、県人口の二一%に当たる二三万四千余人が投票したが、官憲の干渉と買収饗応が相次ぎ理想の選挙にはほど遠かった。県政界でも中央での政友会・民政党の二大政党対立を反映して、その支部党員が激しい勢力争いをしたが、県会は大正デモクラシーの論理を武器に論戦を展開した清家吉次郎・武知勇記らが国会に去って、真剣で華々しい政策論争が次第に少なくなった。

 〈昭和恐慌と対策〉

 大正九年(一九二〇)以来の戦後恐慌は、同一二年の関東大震災による打撃を受けて昭和二年(一九二七)金融恐慌になり、同四年(一九二九)一〇月からの世界恐慌で、日本経済は深刻な不況に陥った。輸出は大きく減少して企業の操業短縮・倒産が相次ぎ、不況のため農家は収入減で困窮が著しかった。浜口内閣(蔵相井上準之助)は緊縮財政・産業合理化・金解禁を三大恐慌対策として掲げた。国家・県財政は税収激減で緊縮予算を組み、市町村財政は窮迫して教員給の寄付を強要した。市町村・民間団体は、政府の提唱する公私経済緊縮運動を展開し、授産事業、職業紹介などの社会事業に熱心に取り組んだ。
 経済不況は昭和七年(一九三二)にその頂点に達した。斎藤実内閣(蔵相高橋是清)は、救農土木事業・農山漁村経済更生計画を主体とした時局匡救対策を開始し、市町村に自力更生への努力を求めた。愛媛県でも配分された救農土木事業費でもって同七~九年の三年間農山漁村の過剰労働力を活用しての道路橋梁・河川改良、港湾船溜修築、小開墾などを実行し、また各町村で自力更生運動を展開した。この農村の危機打開策と結びついて大規模な満蒙開拓移民がこの時期から推進された。
 愛媛県で時局匡救事業に取り組んだのは一戸二郎であった。一戸知事は昭和期の官選知事では二年六か月という最も長い期間在任して懸案の銅山川分水問題などに奔走した。銅山川問題は次の県知事大場鑑次郎の時にようやく徳島県との分水協定が成り、昭和一二年一二月、渇水に苦しむ宇摩郡農民待望の疏水事業が起工された。

 〈重化学工業・交通の発達〉

 不況の下で産業合理化を進めていた諸産業は、管理通貨制度での円為替相場の下落を利用して輸出を伸ばした。軍事費を中心とする財政膨張もあって、昭和八年ころには世界恐慌以前の生産水準を回復した。特に軍需に支えられた重化学工業の発達が目覚しく、住友の街新居浜には化学工業・機械工業・アルミ製錬の住友系各会社が独立創業して重化学工業地帯を形成した。また愛媛県の海岸部には瀬戸内海海上交通上の便、豊富な労働力と用水という立地条件により人絹工業が進出して、倉敷絹織新居浜工場・西条工場、東洋レーヨン愛媛工場、明正紡績川之江・壬生川工場などが建設された。
 国鉄予讃線は昭和二年(一九二七)松山まで開通したが、南予への延長は遅々として進まず同二〇年六月に至ってようやく宇和島に到達した。四国開発は、昭和恐慌下の緊縮、戦時下の軍備拡大のしわ寄せを受けて、置き去りにされていたのである。予讃線の西進で瀬戸内海の沿岸航路は次第に姿を消した。道路の改良と自動車の普及で交通運輸の中枢に躍り出たバス事業は、中小会社の乱立、路線争いが続いたが、昭和一〇年代に会社・路線の合併統合が進められた。
 工業都市に躍進した新居浜はじめ八幡浜・西条は昭和一〇年代に市制を施き、近代的産業都市への脱皮を図る松山市は、昭和一五年に三津浜町など周辺七か町村、同一九年道後湯之町など三か町村を編入して市域を拡大した。

 〈戦時体制の進展〉

 昭和一二年(一九三七)七月の蘆溝橋事件を契機に日中戦争が起こり、長期戦の様相を呈していった。国内では、準戦時体制が叫ばれ、内閣の強化、政治勢力の一元化、全国民の協力体制の確立などの必要が主張された。これにより産業報国会の結成、産業組合の拡充などが進められ、国民諸組織を時局体制に動員する国民精神総動員運動が展開された。愛媛県はその実施要項を示して、町内会・部落会を通じ時局認識を深め、銃後後援の強化、勤労報国、消費節約、貯蓄奨励など非常時生活の徹底を促した。県庁には国民精神総動員県本部が置かれ、その強調週間、興亜奉公日、皇紀二六〇〇年記念行事などを推進した。
 昭和一三年(一九三八)四月「国家総動員法」が制定されて政府は経済と国民生活の全体にわたって統制する権限を得、翌一四年の「価格等統制令」などで経済統制が強化された。同一五年には中央・地方に及ぶ大規模な税制改革が行われて、地方財政の国庫依存度が高まり中央統制が一層顕著になった。
 同一三年一月政府に厚生省が新設され、保健衛生・社会政策・労働を所管した。保健衛生は人的資源としての国民体力の向上が期待されて健民健兵政策が展開され、社会事業は社会教化策や銃後活動に奉仕する戦時厚生事業に変わった。労働行政は産業報国・国民徴用と労務需給調整に重点が置かれた。
 首相近衛文麿の提唱する新体制運動は、昭和一五年(一九四〇)一〇月に大政翼賛会として結実し、総力戦に向かっての国民組織が結成された。政党や各団体は一斉に解散してこれに参加した。愛媛県では一二月六日にその支部(支部長・県知事)の発会式を挙行した。郡市・町村支部も結成され、各界の代表者を一同に集めた県協力会議が翼賛体制の協議機関として活動した。翼賛体制と戦時下行政簡素化のため昭和一七年には県機構の大改革が行われ、知事官房と内務部・経済部・警察部の三部制のもと多くの課が編成変えをした。各郡には総合出先機関として地方事務所が置かれ、県の市町村行政に対する監督権が拡大強化された。この中で、警察部の所掌事務は広範な領域にわたり、各方面での統制と取締りは、警察国家の様相を呈した。
 日中戦争後の愛媛県知事には古川静夫(在任二年)、持永義夫(一年)、中村敬之進(一年三か月)、畠田昌福(八か月)、福本柳一(一年)が歴任したが、この時期の県知事の座は内務官僚の定期異動の一ポストに過ぎなくなった。古川・持永は国民精神総動員運動の推進と工業教育の振興、中村は大政翼賛会県支部の組織づくり、畠田は昭和一六年(一九四一)一二月の太平洋戦争開始に伴う決戦遂行・挙県一致の鼓舞、福本は県行政機構の改革を行って、慌ただしく本県を去っていった。

 〈太平洋戦争と愛媛県〉

 太平洋戦争が開始されると、政府及び諸機関の命令・指示系統が府県単位では対応できなくなったので、東条英機内閣は昭和一八年(一九四三)七月九地域ブロックごとに地方行政協議会を設置した。四国地方行政協議会会長には愛媛県知事を兼ねて相川勝六が発令された。相川は優れた指導力で行政協議会を運営するかたわら、昭和一八年愛媛県を襲った台風による未曽有の被害を非常時下の試練と訴えて学徒・青年など県民あげての勤労動員を督励し、多額の補助を政府から稔出させて災害復旧を進めた。その政治手腕は決戦必勝下にふさわしい長官として県民の信頼を高め、わずか八か月余の在任にもかかわらず戦時下の県知事中最大の賛辞を集めた。相川が厚生次官に栄転した後は雪沢千代治ついで土肥米之が非常時の県政を担当した。
 戦争の長期化で国民は前途が容易でないことを痛感した。経済統制下のこの時期には、「ぜいたくは敵だ」のスローガンの下に生活の切りつめが強要され、米の配給制、衣料などの切符制がしかれて日用品への統制は著しく強まった。農村では米の供出制が実施され、食糧増産のため学徒・児童が勤労奉仕に動員された。中等学校以上の学徒による軍需工場への動員は昭和一八年以降強化され、同一九年にはほぼ通年の動員体制となった。本県の学徒は、阪神・名古屋・広島方面や新居浜・今治・松山などの工場に動員された。授業は停止され、学校の運動場は報国農場に変わった。国民の生活と言動は厳しい規制と取締りを受けた。
 昭和一九年(一九四四)末からはアメリカ空軍による本土爆撃が激化した。翌二〇年に入ると本県にも米機が飛来して空襲を受けるようになった。防空訓練も空しく、松山・今治・宇和島の三都市が焼土と化した。県下全般の被害状況は死者一、二〇〇余人、羅災者一二万五、〇〇〇人近くに達して、八月一五日の終戦を迎えた。