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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 日清・日露戦争と愛媛

 日清・日露戦争と二人の秋山

日露戦争と愛媛
日清・日露戦争と二人の秋山
明治後期に、近代日本は二つの対外戦争を経験した。明治二七~二八年(一八九四~九五)の日清戦争と同三七~三八年(一九〇四~五)日露戦争がそれである。日清戦時下において、一億円以上の軍事公債の起債は金融市場の動きを低調にし、商況が不景気になったことから、国民は戦争のもたらす成果として広い領土と巨額の償金獲得への期待をふくらませた。戦後、三国干渉があったものの、この戦時下の国民の期待は、日本が初めて植民地領有国となったことで、ある程度満たされた。しかし、国民の西欧列強に対する屈辱感は、軍備拡大を中心とする日清戦争後の経営を促す結果となった。日露戦争は、日本の国力をはるかに超えた戦争であったため、戦生活援助・不急不要の事業の取りやめを要請した。これを受げて愛媛県は、明治三七年度より県費緊縮のため、歳入は地租割において本租一円につき四九銭九厘の法定制限にとどめ、歳出は大削減を行った。また県は、土木工事を中止し、「勤倹貯蓄組合準則」を定め、共同貯蓄を奨励した。県に特設された農事督励部は、「稲麦種子ノ塩水撰」「害虫ノ駆除予防」「麦黒穂ノ防除」などを督励し、その実績をあげた。さらに知事を会長とする「愛媛県凱旋軍隊歓迎会」の発足、「下士兵卒家族救助令」の制定、戦時教育の実践など、県民の生活は多方面にわたって、戦時体制下に置かれた。
 日清・日露戦争で活躍した本県出身者の軍人として著名なのは、秋山好古・真之の兄弟である。二人は、松山藩士族秋山久敬の子として生まれ、好古は陸軍大将、真之は海軍中将にまで栄進した。好古は、西南戦争などの影響から、陸軍士官学校でフランス式軍制を学び、明治一六年陸軍大学校に入校、同二〇年旧松山藩主に従ってフランス留学を果たした。日清戦争では、騎兵第一大隊長として、遼東各地で偵察活動を行い、特に水師営まで侵入しての偵察結果等を具申した旅順攻略に係る意見書は、第二軍による旅順攻撃計画の基礎となったといわれ、以来、騎兵の存在が高く評価された。日露戦争では、騎兵第一旅団秋山支隊を率い、戦中最も危険な一戦である黒溝台戦においては、露軍に対する拠点防御戦術を採って沈旦堡などの要地を守備し、全軍の作戦に大きく貢献した。好古は、この日露戦争の実戦を通して騎兵を戦術的用兵から機動集団へと質的転換を図ったことから、〝我が国騎兵の父〟と呼ばれるに至った。一方、真之は、海軍兵学校を卒業後、日清戦争には「筑紫」の航海士として従軍、アメリカ留学後は、同三五年に海軍大学校教官として戦術講座を担当、欧米兵学の直訳でない海軍兵学を樹立した。日露戦争での真之は、連合艦隊司令長官の先任参謀(中佐)として旗艦「三笠」に乗り従軍した。日本海海戦では、真之らの七段構えの作戦のもと、敵の意表をつく敵前逐次回頭=丁字戦法が採られ、バルチック艦隊を撃滅した。開戦当初、東郷司令長官から大本営に打電された報告文のうち「本日天気晴朗なれども波高し」の部分は真之の加筆によるもので、「暗に我が軍に勝算あり」の意味が込められた名文として、真之の名とともに後世に語り伝えられた。その後、大正三年大隈内閣の時、海軍省軍務局長となって、シーメンス事件の処理に当たっている。
 軍人好古は、郷土の後輩に対する情愛が深かった。久松家が学生のためにつくった寄宿舎「常盤舎」の監督を引き受け、舎生に「進取力と忍耐力とは修学上の二大要素なり」と説いたりした。さらに好古は、大正一三年北予中学校長に就任、余生を青少年の育成に当たった。校長秋山好古が、学生に対する訓話に「此自治といふことは、単に市町村の自治制のみの発達ばかりでは不十分で、一家の自治も、個人の自治も、完全に発達して行かねばなりません」「正義を愛し、仁愛を重じ、独立自治、自労自活の精神を絶えず発揮すベし」と説く時、フランス留学以来の個人主義思想と日本的儒教思想とのほどよいバランスの上に、人間・秋山好古が立ち得ていたといえよう。この好古の思想の中に、近代日本が文明開化の名のもとで進めた「欧化」の実態を垣間見ることができる。一方、真之は、兵学校(江田島)時代に松山に帰省し、勝田主計(のち大蔵・文部大臣)ら友人と同郷会を組織し。「厳寒といえども足袋を穿くべからず」「芝居を見るべからず」などと五〇か条ほどの規律を作り、会員自ら守るほか、松山の青年に対してもこれを示し気風粛正を試みた。こうして松山には同会員を中心に軍人志願が多く現れるようになったといわれる。
 この秋山兄弟のほかに、日清・日露戦争に活動した県人は多い。正岡子規は、日清戦争における金州などの激戦の跡を新聞「日本」の記者の目でながめ、「陣中日記」などを残している。桜井忠温は松山歩兵第22連隊旗手として、水野広徳は第四一号水雷艇長としてそれぞれ日露戦争に参戦し、その陸と海の実戦体験を基に『肉弾』と『此一戦』をそれぞれ著し、いずれも体験者が書いた戦記文学の双へきとして広く読まれてきた。

 清国・ロシア俘虜収容所

日清・日露の両戦争は、戦後においてもなお愛媛県に大きな影響を及ぼした。清国人とロシア人の俘虜が松山に収容されたのである。松山が大阪などと並んでこれらの俘虜収容所とされた理由は、島であること、気候が温暖なこと、大陸に近く輸送に便利なこと、歩兵第22連隊の所在地であることなどとされている。日清戦争中の清国人俘虜九七人(うち一人死亡)は、松山城跡北方の長建寺に収容された。明治二七年九月に三津浜に上陸した俘虜の一行は、「頭髪ハ本国風ニナシオクべシ」の規定どおり、辨髪のままで生活を送り、翌二八年八月に帰国した。その間、松山の住民は、日清戦争の勝報に酔うことはあっても、俘虜には関心を示さなかった。
 清国人俘虜が帰国してほぼ一〇年後、ロシア人俘虜が高浜に上陸した。ロシア人俘虜の松山収容は、その規模からみても、県内に及ぼした影響は清国人俘虜の場合の比ではなかった。俘虜は全国で約七万人、うち松山収容分は、延べ六、〇一九人で、最も多く収容された明治三八年四月ころ約四、〇〇〇人がいた。松山市民(当時約三万六、〇〇〇人)の約一割に当たるロシア人が居住したことは、松山が俘虜を窓として国際的に開かれていたことを意味する。俘虜の外出に伴い、湊町はロシア町と称されるほどに俘虜景気にわいた。当時のジャーナリズムは「俘虜のお蔭をもって露国に知られただけではなく、欧米列国にも紹介された」と論評を加えている。
 県知事安藤謙介は、内務大臣から俘虜の取扱いは帝国の品位を落とさぬようにとの内訓を受けると、「捕虜ノ出入り通過二際シテハ、群集が雑踏シ一時的ナ敵愾心ニカラレテ侮辱スルヨウナ言動ガアツテハ、一視同仁ノ天皇陛下ノ御心ニソムクダケデハナク、日本人トシテノ面目ヲケガスコトニナルカラツツシマネバナラヌ」との訓告を各方面に発した。ついで松山・三津両警察署長あて「俘虜取締心得」が内訓された。また県当局は、中・小学校長にあてて「生徒が、あとをついて歩いたり、侮辱するなどの行為のないようあらかじめ訓戒していただきたい」と通達した。県民のロシア人に対する関心は清国人の場合と違ってかなり高く、俘虜慰問、俘虜との交流も盛んに行われた。道後公園で開催の第一尋常小学校の運動会、松山中学のボートレース、女学校・師範学校の授業などの参観や剣道・薙刀の試合、大相撲・芝居の見学が将校たちに許された。松山に収容の俘虜は将校が多く、全国の収容将校の九割(六〇五人中の五三三人)を占めたので、明治三八年四月以降の自由外出の許可は、俘虜景気につながり、人力車、鉄道会社、料理屋、雑貨商、収容所内の酒保、自転車屋、写真屋、靴屋、時計屋、呉服屋、芸妓などに約五三万円か消費されたといわれる。この収益にあずかった者の半数は、外国人接待に慣れた長崎・神戸の商人など県外人であったが、彼らの松山進出によって、地元商人たちも店舗を改築した。商店街の湊町にはショーウィンドウがしつらえられ、ビリヤード・喫茶店が増えた。明治三七年秋に「俘虜教育規則」が制定され、俘虜教育が始められた。
 また翌三八年初め旅順の俘虜一、七〇一人が新たに送られてきたが、その中に六~一五歳の子供四人が含まれていた。これらの子供たちの教育について、監督将校の吉松大尉が第一尋常小学校校長・峯県視学と相談の上、入学させようとしたが、ロシア政府の代行を務めていた神戸のフランス領事の同意が得られず、結局、彼らの教育はアメリカ人宣教師らに託された。ロシア人俘虜を介して、日本文化とロシア文化が接し、交流したことも注目される。妙円寺収容所には、ロシア人の靴工・縫工・錠前工などの技術者が集められ、「捕虜工場」が生まれた。彼らは、俘虜からの注文のほかに市民のそれをも引き受けた。三番町の靴屋は俘虜エマーズル(ポーランド人)を雇い入れた。これは松山に靴の革新をもたらすきっかけとなったといわれる。またロシア人は、剣道など武術のほか三番叟・謡曲などの伝統文化に接した。「先代萩」(浄瑠璃)のレコードを通訳の説明付きで聞いた俘虜将校の一人が、やがて涙を流し、傍らの看護婦に「日本の女性は悲しくないか」と聞いた。通訳は「日本の女性は悲しくとも、それを心の中でかみこらえ、涙を人には見せないのだ」と説明したという。
 なお、第一次世界大戦中の大正三年一一月から同六年四月まで松山には青島から送られたドイツ人俘虜四一五人(うち将校一五人)が、松山市公会堂・来迎寺・大林寺などに分散して収容された。しかし、自由外出が禁じられるなどでロシア人俘虜の時のような国際交流や俘虜景気は見られなかった。
 松山にとって、ロシア人俘虜収容とは何であったか。一つには両文化の国際交流の場となり得たこと、二つには文明開化の進行をもたらしたこと、三つには俘虜景気による地域経済の活性化に影響を及ぼしたことなどが考えられる。ロシア人俘虜収容は、近代愛媛の成立の上で、重要な役割を果たしたといえよう。

 正岡子規の世界と時代

伝統短詩の革新に迫った正岡子規は、大政奉還のあった慶応三年(一八六七)に松山に生まれ、日露戦争を目前とする明治三五年(一九〇二)に東京で没した。その三五年間は、明治日本が近代化の坂道を一気
に駆け登った時期と重なる。子規は、その間、愛媛と東京を主な磁極とする、いくつかの層からなる文化的・人間的「磁場」を利用して、実り豊かな文学的生涯を送った。
 まず、子規が明治一六年の上京以前に立った「磁場」は、伊予-松山にあり、それは俳句革新を可能とした伊予の文学的土壌と子規を取り巻く郷党との人間関係から成るといえる。近世伊予には、宇和島藩桑折宗臣による俳書『大海集』の編さん、四代松山藩主松平定直時代以来の藩内の俳諧熱、幕末吉田藩町年寄岩城蟾居による月並俳諧の革新の試みなどがみられた。上京後のことであるが、同二〇年の帰省中、子規は柳原極堂と二人で三津浜の俳人大原其戎を訪ねて以来、その指導を受けることとなった。また伊予の文学的土壌の中で同二七年発足した松風会に野間叟柳らが集まり、同会は次第に子規の指導下に入り、同三〇年に極堂が創刊した『ほとゝぎす』を支える母胎となった。
 幼少期の子規は、子規の外祖父大原観山や土屋久明・河東静渓らから漢学の手ほどきを受け、友人と作った「莫逆詩文」などと名づけた筆写の回覧雑誌に自作の漢詩をのせ、さらに明治一四年創刊の「愛比賣新報」にも漢詩を投稿した。また筆写の回覧新聞をも作った。こうした子規の文字・活字文化への傾斜は、後年に「書き魔」(虚子)といわれるほどの記録癖や新聞記者的能力につながるものとみられる。子規は、文学革新を、新聞「日本」に所属するジャーナリストとして成しとげるが、その新聞人としての素質は、この上京以前の伊予-松山の「磁場」にはい胎している。自由民権運動が愛媛でも起こり、公共社などの民権結社の結成、明治一四年の国会開設の詔の換発、自由党の結成、県内郡役所合併案をめぐる関知事と小林信近を議長とする県会との対立などが相次ぐなかで、「政治の季節」をかぎ分けた文学少年子規は、同一五年に極堂らと「民権自由雑誌」の発行すら企図したほどに、政治的関心を強く抱いた。子規は「明治一五、一六の二年は何も学問せず、ただ政談演説の如きものをなし」(「筆まかせ」)た。例えば、明治一六年に中学校講堂(明教館)で、国会開設を約しながらなお、それに消極的な藩閥政府への鋭い批判と立憲政治への若者らしい熱い期待とを演説「天前二黒魂ヲ現サントス」のなかに表明した。このころの「演説の効能」は、人前に憶せず出られる習慣が身に付き、政治への開眼の契機ともなったということである。子規は、ジャーナリストとしては当然とはいえ、その死に至るまで、決して政治的関心を失うことはなかった。『病牀六尺』明治三五年七月一九日付けの項に「総選挙も間際になりて日ごとの新聞の記事さへ物騒がしく覚ゆるに」と記されている。翌八月の第七回総選挙には、中学時代の漢詩仲間であった武市庫太(幡松)が三度目の当選を果たした。
 子規は、大学予備門時代の明治一八年前後から俳句を作り始め、「俳句分類」に着手した同二四年ころには俳句熱は高まった。こうして、東京の常盤会寄宿舎と松山の句会-松風会を両極とする新たな「磁場」が形成されていった。子規を中心とする寄宿舎での文学研究活動は、初めて喀血をした明治二一年以降、新海正行らと俳句を対象とし、同二三年からは紅葉会をつくり俳句のほか小説なども研究の対象とされた。紅葉会の二三年七月例会は、子規の五回目の帰省中、三津で開かれ、竹村黄塔(河東碧梧桐の兄)、河東可全(同)、藤野古自らが出席した。翌二四年夏の帰省中、子規(一五歳)を中心とした俳句研究の会が松山で発足し、武市幡松(二九歳)、碧梧桐(一九歳)、虚子(一八歳)、可全(二二歳)が参加した。子規は「初学の人多けれども名句も秀逸も不少 松山の光輝を万国にかごやかさんこと十年をいでず」(瓢亭あて書簡)と意気込んでいる。
 子規らの文学活動は、寄宿舎舎監佃一豫らによって攻撃を受けるなどしたが、明治二五年以降にはさらに新たな「磁場」に置かれた。それは、文明開化のシンボル的存在としての 「新聞」である。士族解体のなか、正岡家の家禄奉還金は明治二四年ころまでにほとんど使い果たされていたため(『友人子規』)、同二五年の子規の大学中退は同家の生活維持にかかわる重大事であった。小説「月の都」に突破口を開こうとした子規の夢が露伴の前に破れると、残された道は、叔父加藤恒忠(拓川)の友人・陸羯南の日本新聞社に糧を求めるしかなかった。子規が入社すると同時に、俳句欄が新設された新聞「日本」は、写生句に向かう文学革新のためには極めて有効な場となった。「日本」は、大隈重信らの条約改正案を批判し、陸の主唱する国民主義の実現を目指す新聞で、明治二二年二月一一日の明治憲法発布の日に創刊された。「日本」は政府を批判して、しばしば発行停止処分を受けた。その代行紙として家庭向きの「小日本」が、子規を主筆に同二七年二月に創刊された。子規は、「小日本」で洋画家中村不折との共同作業の結果、写生句の手法を確信した。「体が丈夫なら画家になって見たく思ふ」(『友人子規』)という子規は、もう一度、蕪村の発句を「写生」の視点から見直し、日清戦争従軍後の大病との闘いのなかで、吟行句を試みることによって、明治三〇年ころ写生句の方法を確立した。写生句の理論は、客観の状態だけがありのままに表現されていれば、読者はその表現を通して作者の感動を再現できるというものである。
 明治二八年日清戦争後、療養のため帰省した子規は、漱石の下宿(愚陀仏庵)に身を置いて、極堂が日参したというほどに毎日のように「俳会」を開き、また極堂・漱石らを誘ってたびたび吟行した。松風会は「子規直属の一俳団」となる一方、松山の「海南新聞」と「愛媛新報」には新派俳句がのせられ、帰京後の子規や内藤鳴雪・碧梧桐・虚子がその選者となった。この二つの地方新聞は、俳誌『ほととぎす』(のち『ホトトギス』)とならんで、東京の新聞「日本」を核とする「磁場」に新しく参入したことになる。
 同三一年に子規は、短歌を作り始め、「歌よみに与ふる書」を「日本」に連載することから万葉調を目指す短歌革新に着手した。短歌とほぼ並行して進められたのが、「ありのまま見たるままに其事物を模写する」写生文である。子規没後、漱石は『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表するなど写生文の影響は、近代日本の文壇に及ぶことになった。
 子規の政治意識としては、士族民権への関心と背中合わせに、日清戦争従軍や『東洋八景』(明治三一年)に表れた対外的な国権伸長の方向をもつナショナリズムの存在が考えられる。しかし、ナショナリズムは、明治の一般的思潮ともいえる。ただ子規のナショナリズムの基底に、士族意識がわだかまっているとみられる。明治二四年ころの漱石との「気節」論争、「柿くへば」と奈良でよんだ二八年の宿帳に「士族 無職 正岡常規」と記したこと、日清戦争従軍に当たって旧藩主久松家から刀一口を拝領したこと、自分と同じ武家出身の源実朝を再評価したことなど、ことあるごとに、もたげてくる武士階級の古いイデオロギーを、子規は明治三〇年代まで引きずっていたのである。しかしその反面、同二〇年代までの西洋志向をかいくぐったあと日本的なものが再評価されるという時代性を新聞人・子規は鋭敏に感じとり、また、松山-郷党-東京の「磁場」の上に新聞・『ホトトギス』などの「磁場」を重ね合わせたところにおいて、自分の好奇心のおもむく短詩型文学を自信に満ちて創造した。正岡子規は、短詩型文学の近代化というボールを『病牀六尺』の世界から、近代愛媛と近代日本に投げ返した偉大なオルガナイザー(組織者)と考えることができよう。