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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 三新法の施行

 地方三新法の公布郡・町村の編成

 明治一一年(一八七八)七月、「郡区町村編制法」「地方税規則」「府県会規則」のいわゆる地方三新法が制定された。内務卿大久保利通は地方官会議における岩村高俊ら開明県令の地方行政での実験報告や意見を参酌して住民の地方政治への参加を部分的に許す三新法を着想したのであった。
 三新法の機軸となった「郡区町村編制法」では、郡の区域名称は旧によるとしたものの区域が広く施政に不便なものは分割が認められ、資力が乏しく財政負担に堪えられない郡は合併したり連合して一役所を置くことが指示された。本県は、同年一二月に浮穴郡と宇和郡を上・下浮穴郡と東・西・南・北宇和郡に分割して、三〇郡(讃岐一二・伊予一八)に二一の郡役所を設置した(図2‐1)。郡長には郡内統治・風俗教化・殖産興業・徴税・徴兵などの事務が委任された。町村に対する明治初年以来の集権的官治の方針を改めて適度の自治権を与えるには、県令ー郡長の官僚的支配網を強化しておかねばならなかった。このため郡長には行政支配の尖兵であると同時に県令と町村戸長の接点に立つ中間統治力が期待された。
 岩村県令(明治一一年五月権令から昇格)は、県会議員・官吏・警部・教育関係者から在野の政治運動家に至るま七人材を求め、それぞれの地域で人望のある士族を地元の郡長に任じた。和気温泉久米郡長小林信近と北宇和郡長都築温は、松
山と宇和島藩庁の重役として活躍した後、大区会議長、特設県会の議長・議員として優れた識見と人格で議会の運営に当たっていた。越智郡長石原信樹・南宇和郡長物部醒満は今治・宇和島藩庁の役職を務め、特設県会の議員に選ばれた。野間風早郡長長屋忠明は、元松山藩参事で、当時民権結社「公共社」を組織してその代表者であった。喜多郡長陶不窳次郎と伊予郡長山下氏潜は大洲で政治結社の先駆「集義社」を結成して活動したが、この時期は岩村に懇請されて共に警部に任じていた。周布桑村郡長石原信文は今治藩校教授で区長・学区取締を兼務して警部に登用された。新居郡長和田義綱と西宇和郡長長尾信敬も元藩校の教官であって学区取締として教育の振興に従事していた。東宇和郡長告森良・下浮穴郡長桧垣伸は愛媛県師範学校の校長補と同校監事として教員養成に尽力していた。
 岩村から郡長就任を要請された長屋忠明は、公共社の同志井手正光・中島勝載に相談、「吾人同志が所信の主義を直接施政の上に実行すべき好機会なり」と意見一致して、北条村の郡役所に赴いた。井手・中島も郡書記になって長屋を助けた。長屋郡長は、年二回定期的に戸長会議を開催して郡内町村の調整を図り行政全般について協議した。また小学校教員に奉職したこともある井手正光を学務専任書記に任じて郡独自の小学校規則を作成させ、教員研究会・集会を開催して指導方法の研究と教育振興の方策を討議させた。東宇和郡長告森良は、「戸長職務心得並会議規則」を定めて、行政官吏と町村理事者との両面を持つ戸長の自覚を促し、行政上の便益と町村民の安寧福利を協議するため戸長会議を三月と九月に開催することにした。郡長たちは岩村の期待に応えて郡政の振興に奮闘したのであった。
 行政町村の編成は、各郡長に小村組み合わせを調整させて明治一三年五月「愛媛県郡町村名称及組合」を布達した。この結果、県下一、六三一町村に九〇五(うち伊予五八〇)の戸長役場が置かれた。町村戸長の職務は、明治一一年一二月の「町村戸長職務規則及職務概目」で、上意下達・徴税・徴兵・戸籍など、政府が同年の「府県官職制」の中で示した一三項目を挙げ、郡長の監督を受けて町村行政に従事するが、実績があがらないときは戸長の責任であるとした。戸長は町村住民の公選で県令が任命した。その具体的内容は、「町村戸長公撰規則」で示された。戸長の選挙人は町村内に居住して不動産を所有する満二〇歳以上の男子、戸長資格者は満二五歳以上で町村内に不動産を有する男子であり、その町村居住者でなくとも町村内に不動産を持つ地主であれば他地域の者でも戸長になることができた。
 戸長公選は明治一二年一、二月ころに施行されたが、適当な人物が見当たらないと選挙人が連名で郡長に人選を求めるところもあり、戸長に選ばれても辞退する者もいた。新戸長の多くは従前の戸長が引き続き選ばれた。家柄と村政の経験を持った町村内の名望家を選んで行政に参与させ住民の統治を委任するのは、三新法の意図した方針でもあった。しかし数多くの国政委任事務に対応できないこともあって、「不才ノ私儀其任二堪難キ」とか「庸劣ニシテ其責任ヲ負担仕ル能ハス」と辞職する戸長が次第に増えた。また戸長事務の手抜かりや徴税滞納など戸長の不勉励・無能力を指摘する郡長の具申も相次いだ。岩村・関県令交代の際に作成された「県政事務引継書」が「多数ノ戸長一々其人物ヲ識別スル甚夕難」と訴えているように、戸長は官吏としての専門能力にまだ成熟せず、村落代表者という古い殼を完全に脱皮していなかったのである。
 岩村が開設した町村会・大区会は、三新法公布に伴い明治一一年八月に一応解散した。「三新法施行順序」では、地方の便宜に従って町村会議を開くことを許していたので、岩村は町村協議費で支弁すべき事件及びその経費の予算並びに微収の方法を議定する新しい町村会を開設することにした。内務卿の認可を得て明治一二年一月に制定された「町村会規則」によると、町村会は毎年四度会期三日以内の通常会と至急を要する事件のための臨時会があり、選挙権・被選挙権は満二〇歳・二五歳以上の男子で町村内に六か月以上居住し不動産を所有する者、議員の任期は二年で毎年半数改選の予定であった。町村会は岩村県令が転任する明治一三年三月時には「十中ノ八九」は開設していた。さらに水利土木や入会共有物の取り扱いなど数町村が連合して協議する場合には、町村連合会が開催された。本県の町村会は明治一三年四月の「区町村会法」で町村会設置が指示される一年前に開設しており、ここにも岩村県令の先取り県政の面目が発揮されている。

 地方税制の成立県会の開設

三新法のうち「地方税規則」は、府県財源の確保を目指した初めての地方税法であった。同規則では、従来の府県税・民費など錯雑したものを地方税とし、(1)地租五分の一以内、(2)営業税・雑種税、(3)戸数割の三目にわけて徴収することになっていた。また、府県費として支出すべきものは、警察費、土木費、教育費、勧業費、郡吏員給料旅費及び庁中諸費、戸長以下給料及び戸長職務取り扱い諸費など一二費目で、国費との区分を明確にした。町村費は別に町村民の協議費として徴収された。地方税の増減や支出費目は政府が裁量する仕組みであり、国家財政への従属化が深まった。その後、支出費目の追加や地方税増徴が行われたから、県民は町村協議費の別個負担と相まって増税に苦しむことになった。
 この地方税をもって支弁すべき経費の予算及び徴収方法を議定する機関が府県会であり、「府県会規則」でその内容が示された。府県会は毎年一度の通常会と適宜の臨時会とがあった。収支予算の議決のほかは建議と答申などごく限られた権限しか府県会にはなく、府県会の召集中止、議案の発案・付議、決議認可の裁量など府知事・県令が広範囲にわたり府県会に対する権限を持っていた。府県会は中央集権的地方行財政を円滑に推進するための議事機関であり、府県民特に農民の上層部に有利な利益調整の場を提供して、府県行政との連繋体制を作り上
げるのがねらいであった。
 府県会議員は、郡の大小により各郡五名以下を記名投票によって公選することにした。本県は、人口二万人に付き議員一人の割合で郡別定数を定め、議員総数六七人(讃岐二七・伊予四〇)とした。ほとんどの郡の定数は一~三人であったが、人口の多い越智・北宇和・香川の三郡は五人、西宇和郡は四人を割り当てた。議員資格者は満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を定め、満三年以上居住し地租一〇円以上を納める者、選挙人は満二〇歳以上の男子で、その郡内に本籍を定め地租五円以上を納める者であった。被選挙人・選挙人の数をあらかじめ各郡長に命じて調査申告させた結果、讃岐を含む愛媛県の議員資格者は二万四、一八三人、有権者が五万〇、四一七人であった。総人口一四三万二、〇〇〇余人であったから一・七%と三・五%の有産者が議員資格と選挙権を得たに過ぎなかった。
 地租一〇円以上の納付者は一町五反以上の土地所有者であり、この資格条件では地主議会の性格を帯びることは必至であった。このため、明治一一年四月の第二回地方官会議で、岩村高俊は道路水利物産などの利益を判別するには知識を用いねばならず、知識人は百姓よりは士族に多いはずである、「地租ノ故ヲ以テ士族ヲ省キテハ他日議会ノ結果如何ナルベキカ太夕掛念二堪ヘズ」と演説して士族閉め出しに反発した。しかし「世安ヲ図リ公益ヲ務ムル者往々資カアルノ人二於テ之ヲ得」というのが政府の考えであり、政府の施策をとかく批判する不平士族よりも「地面持ニテ貢租ノ多キモノ」を中心に府県会は構成されたのである。
 本県の県会議員選挙は明治一二年二月に実施された。当選者のうち、士族は北宇和郡の得能亜斯登ら六人に過ぎず、二六人の特設県会に比べて激減した。その得能も地所売却で地租一〇円以下となったので、通常県会閉会後失格した。「府県会規則」による最初の通常県会は明治一二年三月に開かれた。開会式に岩村県令は所労と称して出席せず、大書記官赤川戇助が式辞を代読した。号外議案県会議事規則の審議に一〇日間も要する枝葉末節の論議や営業税・雑種税に負担を転稼して地租割・戸数割を減税しようとする地主の立場での偏ぱな修正審議に県令は失望した。岩村は愛媛県を去るに際し、特設県会を「其議員中往々学力知識ヲ有スルノ人物アリテ其議事モ亦大二見ルヘキモノアリキ」と評価したが、府県会規則による県会は「其議員ノ如キハ被撰人ノ範囲狭隘ナルニ従ヒ自ラ其人物ヲ得ルニ難ク、之ヲ前日ノ議会二比スルハ或ハ数歩ヲ譲リタルノ憾ナキ能ハス」(明治一三年「県政事務引継書」)と辛い採点をした。
 ところで、明治一二年県会に提出された予算案の歳入・歳出の内訳概要は図2ー2のようである。財源は地租割に依存し、支出費目は郡役所・戸長役場の庁費・人件費が最も多く、後年大きな比重を占める教育費は一%に満たなかった。

 県行政機構の成立県庁舎の建設

 県政創始期の行政機構は、明治四年一一月に太政官から公布された「県治条例」によって設定された。同条例中の県治職制では、令(権令)・参事・権参事・七等出仕・典事・権典事・大属・権大属・少属・権少属・史生・出仕などの職員を庶務・聴訟・租税・出納の四課に配置して事務を分担した。本県は明治六年四月に「庶務課章程」、七月に「聴訟課章程」を定め事務内容を明らかにした。ついで同七年三月に「職制大綱」を定めて庶務・聴訟・租税・出納の課の外に監察課を加え、各課の事務内容と官吏遵守心得を示した。
 岩村権令が着任すると、各課の章程が同一でないのは県治上不便であるとして、後の時代の亀鑑となるべき庁中条規の作成を命じた。この指示で、明治八年一一月に定められたのが「愛媛県職制・事務章程」である。この冊子は、岩村の「告愛媛県各官員」と題する序言にぱじまり、「職制」で令以下県官の職務、「事務条例」で県官の遵守事項、「事務章程」で各課の分掌事務、「庁中条規」で県官の服務をそれぞれ規定していた。
 事務条例によると、官吏は、第一御誓文の旨を奉体し同心協力して事務に勉励する、令・参事の裁決した事務を固守施行する、その職務を守り常に謹厳端正で人民の標準となる、事を施すには公明正大を旨とし、旧弊を一掃して護民に意を用いる、民には温顔和辞をもって接し威圧してはならない、課中の事務は同僚と反覆熟議し独断専行してはならない、課外の事であっても所見があれば明言具陳するなどの遵守事項があった。事務章程で示された県行政機構は、庶務・聴訟・租税・出納の四課に、同八年五月に新設した学務課が加えられた。
 同九年一月本県は、政府の「府県職制並事務章程」に準じて、課名の呼称を第一課(庶務)、第二課(勧業)、第三課(租税)、第四課(警保)、第五課(学務)、第六課(出納)に改めた。この際、勧業と警保事務が庶務課から独立した。また聴訟課は本庁から離れ、三月に愛媛県裁判所になった。県は、課の編成替えによる新しい事務章程をはじめ県庁職制・事務条例・公文取扱例規・条規などの「愛媛県庁事務定則」を明治一一年三月に作成して官員に配布した。
 明治一一年七月、三新法と同時に「府県官職制」が制定され、府知事県令・大少書記官・属・警部から郡長・戸長に至る職務大綱を示した。これを機に、本県は同一二年三月機構改革を行った。従来の第一~第六課の呼称は廃されて、本局と庶務・勧業・租税・地理・警察・学務・会計の七課となった(表2‐2)。
 同年一〇月の「愛媛県職員録」に登録されている県吏員は一七二人であるが、そのうち本県貫属(本籍地)の者が一三七人(士族一三一・平民六)であった。幹部は、県令岩村高俊(東京府士族)、大書記官赤川戇助(山口県士族)、一等属第一課長天野御民(山口県士族)、二等属第五課長肝付兼弘(鹿児島士族)、三等属第三課長石原撲(愛媛県士族)、三等属第六課長信崎忠敏(同上)、三等属高松支庁長伊佐庭如矢(愛媛県平民)、三等属支庁長藤野漸(愛媛県士族)、三等属第三課竹場好明(同上)、三等属第五課内藤素行(同上)、四等属第二課長杉山新十郎(広島県士族)、三等警部第四課長武藤正休(兵庫県士族)らであった。岩村県政は、土佐・長州・薩摩の藩出身者を最高首脳にしているが、幹部の一部と中堅吏員には県士族が任用されていた。しかし本県士族といっても讃岐側の士族が上層部に見当たらず、高松支庁に伊佐庭・藤野ら松山の士族が派遣されたことは、讃岐の人々をして「自然猜疑ノ心ヲ養成シ」、ややもすれば「官庁ノ措置ヲ疑フノ気風」を醸成することになった。
 県発足時の県庁舎は松山城堀之内三の丸にあった。三の丸には藩政時代松山藩庁が置かれていたが明治三年閏一〇月に焼失、二の丸に移転して石鐡県庁に引き継いだ。、この庁舎も明治五年二月焼失して大林寺を仮庁舎とした。やがて石鐡県庁は明治六年一月今治に移転、愛媛県誕生と共に松山に戻って三の丸の改築庁舎に落ち着いた。この庁舎も、三の丸を練兵場に使用するため陸軍省から立ち退きを求められた。これを機会に県は本格的な庁舎建設を計画、明治一〇年六月に一番町の旧松山藩家老奥平家の屋敷跡地五、八二四坪・家屋二八〇坪余を一、四四六円八〇銭(土地九一八円五六銭・物件五二八円二四銭)で買収した。庁舎は翌一一年一一月に新築落成、一二月一日から新しい建物で事務取扱いを始めた。その後、県庁舎は改築・新築されたが、この地を動くことなく、現在に至っている。

 岩村県政の評価

 愛媛県令岩村高俊は明治一三年三月八日付で内務省大書記官戸籍局長に任命された。岩村の転出が決定して数日後の三月一三日、八年ぶりに帰省した末広重恭(鉄腸)は、松山の巽小学校で催された公共社演説会に臨んで、「岩村君ノ其徳望ヲ人民二得タルモノハ他二非ラス、其施政ノ大着眼ヲ誤ラス人民ノ志望二従フテ民政ノ方向ヲ立ルニ因レリ、其一例ヲ挙クレハ夙二町村会ヲ興シ人民ノ意想二従ツテ町村ヲ処弁セシメ、各地方二率先シテ県会ヲ開設シ、諸方ノ人望アル者ヲ選択シテ郡長ト為シ之二委任シテ敢テ疑ハサルカ如キ是レナリ」と知友岩村の啓蒙的側面を評価して、餞別の言葉とした。「海南新聞」三月二六日付は、岩村の更迭に触れて「政府ハ岩村君が今日迄ノ施政ノ法二慊ラザルアツテ然ルニ非ルヲ得ソヤ」と論説した。当時学務課長として岩村の側近にあった内藤素行も後年、「今回県令の更迭は民権主義に傾くという事からである」(『鳴雪自叙伝』)と述べている。明治一六年本県を視察した巡察使山尾庸三が「復命書」の中で、「放任主義ヲ以テ人望ヲ博シタル」と岩村の施策を人気取りと批判しているように、岩村の施政は政府の意に満たなくなった。啓蒙的で適度に開明性をもって県政を創成した岩村高俊の使命は終わったようであった。
 岩村高俊は後任の県令関新平との事務引継ぎを済ませた後、四月三日離別を惜しむ官民の盛大な見送りを受けて三津浜港を出発した。当日、松山二番町の官邸から岩村の乗った車を先頭に三〇〇余輛の人力車が三津に向かい、浜に詰め掛けた群衆を巡査四〇人が整理に当たった。別れの盃を交わして岩村が艀船に移ると、紅白の旗を立てた五〇艘の伝馬船が御舟唄を歌いながら一斉に漕ぎ出し、沖合いの本船和合丸に乗る岩村を見送った。
 岩村が離れて約三か月後の六月二九日、「海南新聞」に寄書きが掲載された。「我前県令岩村高俊君ハ夙二民権主義ヲ以テ聞エタル賢明英吏ニシテ、他府県二率先シテ県会ヲ促興シ民権自由ノ空気ヲ流導シ、公平無私ノ施政針程ヲ示シ治国ノ方略秩序シテ紊乱ナク、県下ノ民、鼓腹撃壌シテ就任ノ天地ト供ニ長カランコトヲ希ヒ他日大ヒニ期スルトコロ有ラントセシモ、一朝大政府御都合ノ在ルアリテ転任トナリ、管民ノ失望哀惜闇夜灯ヲ滅シ学生ノ明師ヲ失ヒシ思ヒアリ」といった内容であった。投書子は大阪在住の都築経郎なる人物で、岩村を〝民権主義者〟と明確に論じた最初のものであった(島津豊幸「岩村高俊の評価」)。その後、大正一一年に刊行された『鳴雪自叙伝』でも「岩村県令の民権主義」の語句を盛んに使った。これを引用した永江為政の『四十年前の恩師草間先生』にも、「嘗て民権権令と謳はれた我が愛媛県の岩村長官」の記述が見られる。
 こうして岩村の〝民権知事〟像が形成され、後世の新聞記者や郷土史家はこの〝岩村神話〟を踏襲した。今日、岩村の官僚的側面から実像に迫ろうとする研究も行われており、同じ愛媛県でも伊予と讃岐では評価が分かれるが、岩村の施策が伊予国=愛媛県の知識人に好感をもって迎えられたことは事実である。愛媛県における岩村の施策は文明開化の波に乗り、本県の気風に巧く合って今日でいう地域主義県政を展開した。愛媛県の県境土佐宿毛生まれの長官に親しみをこめて迎えた本県の士族知識人は、県立英学所を設けて慶応義塾から草間時福を招聘してハイカラな自由教育を行わせ、本県御用〝愛媛新聞〟を発行させた岩村を文明開化の代表のように持ち上げた。また町村会・大区会・特設県会といった地方民会の開設や戸長公選制の実施は、岩村が土佐立志社の領袖林有造と兄弟であることと重ね合わせて、〝民権主義者〟を連想させた。「岩村県令の民権主義を最も賛成して、常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人」と内藤素行(鳴雪)が語っているように、伊佐庭如矢・藤野漸・内藤ら松山の知識人が県官幹部に抜擢され、小林信近・長屋忠明らが郡長に登用され、岩村の下で行政を担当した。これら岩村と共同体を形成した人々が、岩村の転任に失望し、岩村県政を高く評価したのは当然の成り行きであった。岩村高俊は、県民との融和を常に念頭に置いてソフト・ランディングの県政を推進した本県最初の地方長官であったといえよう。

 関県政と初期県会の動向

 岩村の後任関新平は、肥前の士族で東京裁判所判事、浦和・熊谷裁判所所長、大審院判事などの裁判官を務めて、愛媛県知事になった。 関県令は着任早々に赤川大書記官らを更迭し、東京から招いた湯川彰・真崎秀郡らを任用した。藤野・内藤・伊佐庭ら岩村県政を推進した人々は県庁を去った。ついで郡長の異動を行って和気温泉久米郡長小林信近と香川郡長松本貫四郎の相互交代を発令するなど、郡長と地域との結びつきを断とうとした。小林・松本はこれを不満として辞職、野間風早郡長長屋忠明も後に続いた。長屋に先立って同郡書記を退いた井手正光は、手記『逐年随録』の中で、岩村県令が去って、〝圧制家〟の関新平がその跡を継ぎしきりに郡治に干渉するので、所信の主義目的を郡治上に達成する望みがなくなったと述懐している。明治一四年九月、関は郡役所を廃合したが、この際郡長の全面更迭を実施して県官で固めた。郡長に県令と町村戸長との結び目としての役割を期待した岩村県令に対し、関県令は行政支配の尖兵としての官治性を強化したのである。
 この時期、政府は三新法体制を見直し、その統制を強めていた。特に府県会は、民権派議員の進出で反政府言論の格好の舞台になりはじめていたので、抑制策を早急に講じる必要があった。その第一が明治一三年一一月の常置委員の設置である。この制度の内容は、府県会に議員の選挙によって七人の常置委員を置き、地方税の支弁事項、執行の順序について府知事・県令の諮問を受け、緊急の場合には経費を議決して議会に事後報告するというものであった。常置委員会は、議決機関に屋上屋を重ねて府県議会の権限を縮小するだけでなく、府知事・県令が議長になり傍聴を許さないのは行政官吏に議事をじゅうりんされるとの批判が、全国の新聞紙上で高まった。「海南新聞」明治一四年一一月一九、二〇日付は編集長橋本是哉の論説「愛媛県常置委員会ヲ論ス」を掲載してこれの設置は議会と行政を混同させる必要悪であると論じ、県から記事取り消しを命ぜられた。ついで、政府は同一四年二月に府知事・県令の議決に対する再議権と原案執行権を認め、府県会の審議を制御した。
 こうして府県会は政府に対する有効な対抗手段を次第に剥奪されていくが、その過程で自由民権運動の展開ともからまって様々な事件が各府県で発生した。
 愛媛県会は、関新平の郡長更迭で辞職した小林信近・松本貫四郎・石原信樹・福家清太郎・和田義綱・菊池武煕ら初代郡長が議員になり、牧野純蔵・平塚義敬・玉井安蔵・窪田節二郎・都崎秀太郎・村上桂策ら各地の豪農層も議会人として成長した。国会開設を天皇に直訴しようとした孤高の民権家小西甚之助も明治一五年九月の選挙で寒川郡から県会議員に当選、その弁舌が議場を賑わせた。これらの論客をはじめようやく議事に馴れた議員たちは、明治一五、一六年の県会で関県政との対決をあらわにした。
 明治一五年三月の通常県会は、議員たちの意見発表が活発で八〇日間という異例の長期議会となった。その間に郡長は郡内の情況を熟知し、人望のある土着の者でなければ郡治の効果はあがらないとする「郡長公撰の建議」が四〇名の多数で可決され、船舶航海の自由を奪っているとした汽船切符売りさばき所廃止の建議などが相次いだ。同一五年九月議員改選後の組織県会が開かれ議長に小林信近が当選したが、この県会では地租割税が議決額以上に誤って賦課され重税に苦しむ県民にいわれのない負担を課したとして関県令の反省を促す建議を行った。
 同一六年三月の通常県会を前に、議員たちは前年度通常県会が議事の錯雑で長期間の会議を要したことを反省して議事堂で勉強会を開いた。関県会は県会開場前に議場内で集会してはならないとこれを差し止めたので、小林議長はその理由を明示されたいと公開質問状を出した。波乱含みの中で開会した県会は、三野豊田郡六議員の招集状漏脱問題が発覚すると、「県令へ忠告建議」を可決した。さらに県令が警察費・教育費の再議を指令したので、県令は議会の審議を無視して干渉が過ぎると非難し、先に議決した修正案を再び可決して抵抗の姿勢を示した。関県令は原案執行でこれに報復した。
 県令と議会の対決は車税問題で最高潮に達した。議会は、本県内の道路橋梁は整備されておらず近年は車数が増加して損壊がはなはだしいとして、車税を国税から県税に移して道路改修に充てるよう要請する建議を行った。県令は国政に関する車税免除の問題が規則を犯すとして審議中止を命じ、臨場警官を増員して議場を威圧した。議員は激昂し、小林議長の発議で県令の議事審議中止指令は議会の建議権限を犯しているとして参事院に裁定を乞うことを議決した。県会閉会後、小林ら三人の議員総代は上京して「県令ト法律ノ見解ヲ異ニスル件」につき参事院の裁定を求めたが、却下された。
 愛媛県会を構成する六八人の議員は、明治一六年時で平均年齢四〇歳、族籍は士族一三・平民四八(七人は族籍不明)であった。士族は県官・郡長・郡書記など、平民は戸長などを経験していたが、二年ごとの半数改選で再選される者は少なく、途中辞職者も多かった。その中で小林信近・平塚義敬ら議会の活動家たちは再選を重ね、政治家として成長していった。国会開設が宣言されると、藤野政高・長屋忠明・高須峯造・有友正親ら在野の民権家が県会に進出、国会を目指す足場とした。藤野ら貧乏士族は、後援者の地主から名儀上土地貸与を受け地租一〇円の納税資格を得て県会議員に選ばれた。
 明治二〇年(一八八七)三月七日、関新平が本県知事(明治一九年七月県令を改称)在職のまま四五歳々死亡した。関知事は、四国新道の開さくを最重要事業としてその着工に奔走した。新道開さくが開始された明治一九年は、不況による財政難の中、夏の干ばつと秋の三度にわたる暴風雨被害、さらにコレラと赤痢の流行で非常事態を呈した。災害復旧と防疫のための三四余万円にのぼる追加予算の財源捻出に苦しみ、一か月にわたる関係官庁への災害救済陳情などで心労を重ねたのが死を早める原因となった。
 関新平は、在任当時から福島県令三島通庸、岡山県令高崎五六と並ぶ〝三圧政家〟と酷評された。明治一六年に四国各県を巡察した参事院議官山尾庸三はその復命の中で、愛媛県令関新平は赴任以来県治にすこぶる勉励しているが、「剛強敢為」な処置が時として厳格に過ぎ、加えて前県令岩村高俊が人望を博した後を受けたことと讃岐人士の分県希望や政党政社に奔走する者の県治への抵抗事情が重なって不人気を煽ったのであり、にわかに施政の如何に帰すべきものでもないと報告している。「海南新聞」明治二一年三月三日付は、岩村高俊と関新平を比較して、岩村県令の時代は「百般の事皆な幼稚なりしを以て専ら人心を振起することに注意せられ、概して自由主義の政略を執られた」が、関知事の時代は政論が盛んであったので専ら鎮静に尽力した結果、「百般の事にも自から圧政の主義に傾くの勢いなりし」と分析した。行政官はその立場と時代・環境に対応して施策を展開するため評価を異にする場合が多いが、愛媛県政の舞台における岩村と関はその好例であろう。

 松方デフレ下の県財政

 明治一四年に大蔵卿に就任した松方正義は、増税によって歳入の増加を図るとともに、歳出を徹底的に緊縮して、歳入の余剰で不換紙幣の処分と正貨の蓄積を進めた。世にいう松方デフレ政策である。この国庫歳出の緊縮で、従来官費で支弁されていた府県庁舎建築修繕費・監獄費などが地方税負担に転嫁され、府県土木費補助や文部省の教育費支給などが打ち切られた。土木費・警察費・教育費などが増額して本県の明治一七年の支出予算は八七万四千余円にのぼり、同一二年時の二倍以上の規模となった。これらの経費増をまかなうため地租割賦課率は従来の国税地租額の五分の一以内が三分の一以内に引き上げられ、営業税雑種税の増税も許された。図2ー3のグラフで示すように地租割の増徴は著しく、県民とりわけ農民負担は年を追って増大している。松方デフレで米価など農産物価格は下落していたので、明治一七年度は米生産高の七〇%を超える過重負担になった。
 農家家計の圧迫は、所有地を質入れする借財農家を激増させた。窮乏化した中小農民は、土地の質流れ・売却で小作農に転落する者が多くなった。富農・地主はこれらの土地を買い取り小作地を増大して、漸次寄生地主化していった。明治一七年末の県内耕地の自作地・小作地比率は、愛媛県全体で五〇・九八%対四九・〇二%(うち伊予国六一・五一対三八・四九、全国平均の小作比率は三五・九%)と相半ばした。
 松方デフレによる不況は、農村を窮乏に追い込み納税滞納者を増加させた。農民の地租割に依存している県財政は、四国新道開さく事業費などの新規政策予算が加わって一層窮迫した。新道開さくが開始された明治一九年は、伝染病予防と災害復旧に臨時支出を要し非常事態となった。さらにこの年、「学校令」が公布されて学校の再編成と充実を図らねばならなくなった。県は、この機会に、第一(松山)中学校のみを残して、第二(高松)・第三(宇和島)中学校を廃止し、合わせて医学校を整理して県財政負担を軽減しようとした。災害復旧のための土木費追加と教育費更正などを審議内容として開かれた一〇月臨時県会は、民間疲弊と地方財政窮迫を理由に災害復旧費の全額国庫金支弁を要請する建議を満場一致で決議、さらに県立中学校廃止論が台頭して第一中学校の存続を否決した。引き続いて開かれた通常県会でも尋常中学校費を削除したほか、松山・高松病院費の地方税支出を停止し、県会議費・郡役所関係費・勧業費などを節減して、原案を大幅に減じた。ここに、すべての県立中等学校は県財政緊縮の犠牲となって廃され、明治二五年五月まで復活しなかった。
 こうした非常削減をもってしても、明治一九年の年度予算は一〇一万四千余円に達し、同一八年度の五四万二千余円に比し倍増となり、非常の年を裏付けた。この支出増は当然地租割の増徴をもたらした。同一八年度三三万六千余円であった地租割は、同一九年度六〇万一千余円、同二〇年度四五万八千余円に増額され、窮迫する農民に一層の負担を課した。農村の階層分解は進ちょくの度を速め、同二〇年末の自作地・小作地比率は四六・二五%対五三・七五%(うち伊予国五二・七〇対四七・三〇)と小作地が自作地を上回った。翌二一年時の地主と小作農の戸数比率は四二%対五八%となった。

 四国新道の開鑿

 関県政の最大の事業は四国新道の開さくであった。当時、国道は現在の一一号線に当たる高松ー松山間の道路だけで、高松ー高知間と松山ー高知間の道路は県道であった。土佐街道と呼ばれていたこのルートは、四国山脈を横切るため峠など難所が多く、交通開けず駄馬の一部が通行するのみで、人の往来や物品の運輸に不便を極める悪路であった。
 中央集権国家の建設を急ぐ明治政府は、中央と地方及び県と県とを連結する道路の整備改良を国策とした。関愛媛県令はじめ高知・徳島の四国三県県令は、国家的要請を背景に土佐街道の改修と一部道程変更による新道の開さくを企画した。丸亀・多度津港を起点に琴平を経て高知に達するルートと高知より起こり久万を経て松山に達するルートを開さくしようとする計画であり、これを「四国新道」と呼んだ。現在の国道三二号と国道三三号のVルートである。
 四国新道の構想が具体化したのは明治一七年であった。三野豊田郡役所の大久保諶之亟が「四国新道」を提唱したのがこの年であり、大久保らは四国新道期成同盟会を結成して道路開発願いを愛媛・高知両県に提出した。時を同じくして、高知県では愛媛県へ通ずる一大道路の開さく計画を練っていた。県境の高岡郡長からこの計画を伝えられた上浮穴郡長桧垣伸は、沿道各村戸長を動員して「予土横断道路」の開さくを県当局に陳情した。
 六月、愛媛県令関新平と高知県令田辺良顕が会談、久万山経由の「予土横断道路」の開さく事業着工を約し、両県令連署でもって国庫補助を申請した。内務卿山県有朋からは、工事目論見書を整備して費用の支出方法及び工事年期などの具体案を作成提出したうえでなければ起工認可や国庫補助の支給を審議することはできないとする回答が届いた。
 関・田辺両県令は、この段階で予土横断道路計画に大久保らの願望する丸亀・多度津ー高知ルートを加え、参加を渋る徳島県令酒井明を説得した。同一八年二月、三県の実務者協議会が開かれ、工事分担範囲・道幅・橋梁幅・道路勾配などを協議した。会では道幅三間以上、並木敷両側一間、橋梁幅二間以上などの基準を決め、目論見予算、図面などは本年一〇月までに県会の決議を経て主務省に進達できるよう作成することを申し合わせた。工事目論見書は、参事院議官森有礼の四国地方視察に供するため予定より早く作成され、七月二〇日三県令連署になる「四国新道開鑿費御補助ノ儀二付稟申」に付して内務省に提出された。上申書は、運輸の道を開き殖産通商の利便を図るために新道開さくは目下この地方の一大急務であることを強調し、管内の人民は直接間接にこの事業に賛成しているので、県会でたとえ多少の非開さく論者がいてこれを否決しても、本省の指揮を得て断然これを決行すると不退転の決意を示していた。工事概算は八七万四千余円で、そのうち三五万四、五〇〇余円の国庫補助を要求した。九月八日、山県内務卿から特別認可されたが、国庫補助は削減されて愛媛県には同一八~二二年度の五か年に八万五千余円(一か年一万七千余円)が支給されることになった。
 本県当局は、道路新開継続事業費二五万六、八五四円(明治一八年度四万四、二五〇円、同一九~二二年度各五万三、一五〇円)の予算案を作成、国庫補助金・地方税・寄付金でそれぞれ三分の一ずつを支弁することにした。この予算案の審議を求めるため明治一八年一一月臨時県会が召集された。
 当時、松カデフレによる県民の困窮は頂点にあったので、県会では新道開さくの是非をめぐり激しい論議が展開された。まず、都築温太郎が、常置委員の中には民間不況の時に急いで工事に着手することもなかろうという意見もあったが、多数の委員は高知と本県とは同じ一孤島に属しながら道路未開発のため物品の運輸も人民の交通もすべて海路に頼らねばならないのは残念であり早晩道路を開かねばならない考えであったと、県会に先立って予算案を審査した常置委員会の意見を報告した。小西甚之助は、四国に鎮台を置き大学を設け、外国の物品との競争に耐える農工商発展のためにも四国は一体とならねばならず、道路の開さくが是非とも必要であると論じた。議長小林信近は特に発言を求めて、物産の振興を望むならば運輸の途を講じなければならず、運搬を盛んにするには道路を開かねばならない、四国の発展のためには一時の苦痛は忍ばねばならないと、議員に原案の同意を求めた。これに対して高須峯造は、小学校施設の不備、災害復旧の遅れ、松方デフレ政策による地方税負担の増加などを指摘して、不急の土木事業は一国の滅亡や一揆騒動の原因となると警告した。有友正親は、わが村の戸長役場には貧民が鍋や釜の類を持って来て納めるべき金がないのでこれで取り替えておいてくれという有り様で、昨年の納税不能者は、一千人以上にのぼったと地元喜多郡の惨状に触れ、新道開さくが有益とか無益とか論すべき時でぱなかろうと議員の反省を促した。二日間にわたる論議の後、原案は採用説二六人、廃棄説二三人で過半数にわずか一票を超えて採択され、各年度支出額を修正して可決確定議となった。
 明治一九年四月七日、四国新道の起工式が琴平宮で挙行され、四国三県令はじめ五千余人の人々が参列した。関県令は、「夫れ国家の繁盛を図らんと欲せば、其策少なからずと雖も四国に在ては道路を開通し運輸を便にするにしくはなし……」と演説した。開さく工事は五月中旬から各工区で着工されたが、台風災害などではかどらず工費も予定よりかさんだ。工事費は内務卿に提出した当時の概算金二五万円で出発したものの、その後の調査で四〇万円を要することが判明していたので、継続予算の補正追加が必要であった。そのうえ、財源の三分の一は寄付金で捻出しなければならなかったから、県令・書記官の月俸三か
月分をはじめ県官に一、二か月分の寄付を義務づけ、旧藩主及び琴平宮宮司・住友吉左衛門・藤田伝四郎らに多額のきょ出を依頼し、各郡に割り当て義援金を募った。
 明治一九年度の県財政は、不況による収入減に加えて災害と伝染病の流行による臨時支出のため窮迫の極に達した。このため、新道開さくの補正追加も出来ず、当初計画予算五万五千余円を五万余円に削減しなければならなかった。県会では浅井記博らが「新道開鑿ヲ中止スル建議」を提出して相当数の賛同を集めた。明治二〇年三月関知事は、新道開さくの前途多難を思わせるなかで死去するが、この年九月に難所の三坂峠の開さくが一応完成した。
 明治二一年一二月香川県が分離独立したので、同二二年度から新道計画は分割され、愛媛県の継続事業予算は一五万九、四五五円に修正された。伊予国分の開さく費は同二一年までに一四万五、八〇〇余円を支出していたが、工事遅延に加えて災害による復旧などが重なり、予定年度の明治二二年には完工しなかった。このため同二三年度まで繰り延べられたが、この年九月の暴風雨で上浮穴郡柳谷村久万川筋の仮橋流出事故があり、工事は同二五年までさらに延期された。その間、工事費の補正追加が行われ、本県の開さく継続事業費の最終的な精算は二一万八、七一三円であった。四国新道は、明治一九年の着工以来、徳島・香川県は明治二三年、愛媛県は同二五年にその分担路線を完工したが、高知県の工事が遅れ、同二七年五月ようやく全通した。

図2-1 愛媛県内群略図(明治11年12月)

図2-1 愛媛県内群略図(明治11年12月)


図2-2 明治12年愛媛県歳入・歳出予算

図2-2 明治12年愛媛県歳入・歳出予算


表2-2 明治一一年・一二年の愛媛県の行政機構

表2-2 明治一一年・一二年の愛媛県の行政機構


図2-3 明治13~17年度県財政における税収入の構成比と推移

図2-3 明治13~17年度県財政における税収入の構成比と推移


図2-4 四国新道の略図

図2-4 四国新道の略図